2018年6月23日土曜日

解離の本 27


2-1.初期から中期の課題

解離性障害の治療が始ある、とはどういうことでしょうか? 実は解離性障害はその診断が、精神科通院歴の早くから下されていることも少なくありません。しかしそこでそれに特化した心理療法が始まらない場合には、治療が始まったとは言えません。解離性障害の治療は、解離症状の存在、特に異なる人格状態の存在を治療者がしっかり把握し、それを前提としたかかわりを持つ治療者と出会い、定期的なセッションを持つことで初めて開始されるということが言えます。このような治療者を「解離をわきまえた治療者」と表現することにしましょう。
「解離をわきまえた」治療者と普通の治療者とはどこが違うのでしょうか? それは患者さんの立場から考えた場合によりわかりやすくなります。治療者が解離をわきまえている場合、中の人格たちは、その治療者の前に姿を現す機会を与えられたという気持ちになります。普段は自分が出るとおかしな目で見られるから、とか演技と思われる、とか、一人の人格として扱ってもらえないという懸念もあり出られなかった人格が、顔をのぞかせてみようという気持ちになります。もちろんそれは強制ではありません。その治療者に義理立てして、挨拶をしに出る必要はありません。いつまでもなかでうとうとしている方を選ぶ人格もいるでしょう。しかしこの先生なら自分のことをわかってくれるかもしれない、という気を起こさせるようなスタンスや物腰が必要とされるのが、「解離をわきまえた」治療者ということになります。その治療者との出会いが、あり、初めて治療初期に入るといえるでしょう。
解離の治療を始めた患者さんにとって必要なことは、自分が意識化し、あるいは覚えている以外の自分の生活はどのようになっているかについて、目を向けることです。それは次のような前提を受け入れることから始まります。それは解離性障害の人格たちは「連帯責任」を取る必要があるということです。解離性障害の患者さんの特徴の一つとして、ほかの人格の振る舞いに対して、しばしば傍観者的になったり、「他人事扱い」することが挙げられます。例えばメールなどでも、別人格に来たと思われるメールはスルーしてしまったり、関心を持たなかったりということがよくあります。しかしそれでは不都合な場合があります。治療初期に患者さんが直面するのは、別人格はたとえ他人でも、周囲も、社会もそうは扱ってくれない、というある意味では厳しく、理不尽な現実です。Aさんにとっては、別人格Bさんの起こした振る舞いについて責任が問われるということは現実に起きます。もちろんBさんの行ったことに対してAさんは全く、あるいはほとんど覚えていないとすれば、その責任を取らされることにはAさんは不満を覚えて当然ですし、確かに理屈に合わないことでしょう。ただし現在の法律では異なる人格の振る舞いに対して、それぞれの人格に責任を負わせるような法体系は出来ていません。そして「連帯責任」を取らされるという現実がある以上は、それに対応するためにも、ほかの人格の振る舞いを知ることは実はとても大事になります。