2013年11月9日土曜日

エナクトメントと解離(5)

 ここでスターンは興味深いことを言っている。もし解離やエナクトメントが good-me bad-me の間であったら、両者のあいだを治療を介して取り持つのはさして難しくないというのだ。問題は、me not-me の間に生じている解離であるという。その際は治療者は「自分自身を非合理的で感情が込められた体験に、しかも時には相当長期間委ねなくてはならない」(p.215)という。そしてこの me not-me の間のエナクトメントを扱う事が治療上最も重要で、また難しいという。 ここで少し解説を加えるならば、スターンたちが言っている解離とは、おそらく相当広い範囲の体験を包括しているのだ。そして good-me bad-me の間の解離とは、どちらかといえばすプリッティングに近いのだろう。そしてme not-me の間の解離が、私たちが「解離性障害」として知っている解離、つまりそこで健忘や「させられ体験」が生じるような解離なのだと考えることができよう。 スターンが次に論じるのが、分析家の側の解離ということである。これは患者の側の解離によって引き起こされるものの、何か異物が患者から治療者にやってくるという、しばしば投影性同一視に見られるような状況ではないよ、とある。(ここら辺はクライン派に対するライバル意識が感じられる。) この議論はおそらく解離を扱う臨床家にとってはピンと来ない部分かもしれないし、私もそうである。少なくとも治療中に自分が解離するという感覚はこれまで持ったことはなかった。しかし先程も述べたように、おそらくスターンが用いている解離の概念がおそらく違うのだろう。より微妙な解離、ということか。
ここでそのことを考えるヒントとなるのが、ハインリッヒ・ラッカーの同調型、補足型の同一化、ないしは逆転移という考え方だ。同調型は患者さんの意識内容に沿った内容で、補足型はそれにたいしてツッコミを入れるものだ。「自分はダメだー」という患者に対して、「そうだね。ダメだ、と感じているんだね」という同一化が同調型だとすると、補足型は「そんなことでどうするねん!」というわけだ。