2013年11月12日火曜日

エナクトメントと解離(8)

  例の臨床例を思い出してほしい。私[治療者]の心のうちの一つでは、患者の「進歩」を喜びたかった。そして、もう一つでは、自分の観察する能力を犠牲にして、それにより患者を失望させたことへの罪悪感を感じていた部分である。構築主義の立場からは、後者の自己状態(罪悪感を持った自己状態)は象徴的な形では私の心には存在していなかった。それはあの奇妙な情動的な生気のなさ deadness がセッション中に現れ、「そこに『何か』があるよ」、と気づかされることで、私は自分の感情のざわめきを感じ、罪悪感の状態が生起し、フォーミュレートされ、意識的な内的葛藤が最終的に可能となったのだ。私のそれ以前の専心さ singlemindedness は、私の心の内部にある葛藤の否認ではなかった。それは私の無意識的に固執していた「興味の欠如」であり、それはエナクトメントに参加することで創造され育てられたのである。解離された自己状態は、いわば可能態としての体験 potential experience であり、その人がそうすることができるならば存在していたはずのものである。
ここからいよいよ難解になっていく。理解しているか分からない(というよりおそらくしていない)ので逐語的になっていく。
 現在の状況において私たちの最も深い層にある情緒や意図との交流は、各瞬間に体験を刷新する。しかし私たちは私がなすことを直接体験することで新しい体験を構築することに参加することはほとんどない。私たちがどれほど頭では自分たちの創造的な役割を信じていても、私達が実際に行うことはいつも招からざる性質 unbidden quality を帯びているのだ。未来は私たちのもとに来る。それは「見出され」る。それは「訪れる」のだ。次の瞬間はまだフォーミュレートされていない為に、それは様々な形を与えられる。しかしそれはいかなる形をとるというわけではない。それが虚偽や狂気に陥らないようにするためには、様々な制限がそこに加わる。キツイ制限から緩い制限まで。
ここで一息。やはりスターンらの行っている解離は、通常の解離(つまり健忘等が生じる)、ではない。もっと広く、もっと本質的なことだ。日常生活でいつも起きていること。それをスプリッティングや抑圧では説明できないので、この解離という概念を持ち込んでいるのだ。つまりは精神分析理論の根本を問い直しているというニュアンスがある。