2013年11月19日火曜日

エナクトメントと解離(15)

続ける。
このことは両方向から説明できる。新たに達成された葛藤におけるもうひとつの見方の選択肢が、フォーミュレイトされていないものをフォーミュレイトさせる、とも言えるし、フォーミュレイトされていないもののフォーミュレイションは、それ自身が葛藤を構成する新たな視点の創造である、とも言える。内的な葛藤の創造は、主体性の感覚の創造でもある。葛藤関係にあるもうひとつの選択肢を欠いた願望は、強迫行為以外の何ものでもなく、強迫は自分自身の人生を選択しているという感覚を否定する。エナクトメントを脱構築することは、精神的な意味での奴隷となることの回避である。奴隷化を行う動機はしばしば他者を支配することだが、それは本人を縛ることには変わりない。全くの二次元的なエナクトメントの世界では、支配層が力を維持するかもしれないが、彼らも被支配層と同じくらいに縛られているのだ。
この意味で、私が描いているエナクトメント、つまり解離に基づいたエナクトメントは、ベンジャミンが言うところの反転可能(やる側―やられる側 doer-done to)な相補性 とおなじことである。
ふーん、ベンジャミンもそういうこと言ってるんだ。しかしそれにしてもベンジャミンの使う言葉は相変わらず過激だ。奴隷とか、支配、被支配など。でも精神分析においてもこの支配、非支配の問題は常に存在していたのだ。そして治療者の側のエナクトメントを考えるという動きは、それ自体が治療者と患者のあいだの格差を根本から問い直す流れとも言える。これが米国で起きていることは、ある意味では当然のことかもしれない。
あれ、ここからまた難しくなるぞ。

.患者も治療者もお互いを認識すること以上に自分自身を創造的に体験することはできない。うまくいった精神分析の結果は、自分の人生は自分自身のものであり、ほかならぬ自分自身が生きているのだという、確固たる、思考のない unthinking 確信を得ることである。 しばしば自分の人生は自分の心の想像したものだという感覚(味気ない用語を用いるならば、能動の感覚 sense of agency ということだが)は、葛藤に近づくことにより得られる。それは私たちが直面している問題に関する立場を選択する必要に迫られると、私たちは自分の手が土を耕しているという感覚を得るからである。