2013年11月2日土曜日

エナクトメントについて考える(10)

設定、治療構造との関連
エナクトメントは設定を設ける際にも問題となるという。そして治療構造を厳しくしたり、ゆるくしたりすることで様々なエナクトメントを起こさせるという。そしてそのエナクトメントは、相互の誤解により生じるものであり、相互理解により乗り越えられなければならないという。ここら辺のこと、あまりピンとこずに読んでいる。これが自我心理学的なコンセンサスになっているとも書いてあるが、まあ、ここはとばそう。
エナクトメントの異なる概念化の統合
ここは大事だな。しかし精神分析界でエナクトメントの概念の統合の兆しはまだないという。だからこのような論文が書かれるというわけか。何しろエナクトメントはどこにでもある、遍在するという立場から、治療者と患者の間の誤解により、特別な状況で生じる、という見方まで様々だからだ。左翼と右翼みたいな。そこで異なるエナクトメントを比べる際に一つの試金石となるのが、エナクトメントについての次のような定義を受け入れるか、であるという。「エナクトメントは、精神分析的に理想であったりありうべきであったりするテクニックからの逸脱である」というものだ。しかしこれは何を「理想的な分析の在り方」と見るかでずいぶん見解が異なってくる。当然理想的な分析過程を考える英国学派の視点がここには反映されるだろう。そしてもう一つの試金石は、「エナクトメントは失敗か、不可避的か」という議論であるという。

論文ではここで分かりやすく次のようなスペクトラムを考える。一方の極には英国のクライン派のジョン・スタイナーの見方がくる。すなわち「治療者は行動、活動action に移行する傾向やそこに向けてのプレッシャーを理解することだ。」という見方である。「思考から行動へのバウンダリーを超えてしまったことを意味する。」まあ一つの理想だな。英国学派にはこの手の理想論が多い。エナクトメントは、分析家の、分析的な手法への抵抗でもある、と書いてあるぞ。まるで私のことだ。
この見方に近いのが、なんとアメリカのアーノルド・ゴールドバークであるという。あのコフートの一番弟子「アーニー」である。彼は、分析家と患者の間の誤解がエナクトメントを生むのであり、それが生じた場合は、通常の対人関係とは異なり、それを話し合うことが出来るというのだ。なるほどね。失敗ではあってもそれをフォローしましょうというわけだ。わかりやすい話だ。
さてここでベンジャミンの考えが述べられている。彼女はトラウマや解離に結び付けるのだ。過去の外傷体験は普通は解離されていて、関係性の中のエナクトメントにより表現されるという。うん、ぐっと面白くなってきた。