2013年11月21日木曜日

エナクトメントと解離(15)

専心さを乗り越えるということは、言うは易く行うは難し、である。私たちはいつでも、新しい思考が新しい体験を生むことを望んでいる。そのような考えを私もこの論文で伝えているつもりである。しかし患者が拱手し坐しているだけでは、思考そのものは彼の中に物事への新しい知覚をあたえてはくれない。臨床的な自由さを獲得するのに、一定の解決方法はない。そしてそのことはそれほど悪いことではないのだ。もし私たちが古典的な精神分析のように、治療で何をどのような手順で行うべきかを分かっていて、非文脈的な理論やテクニックに従って治療を行うのであれば、精神分析とは正しいやり方で行うもの以上のものではなかったはずである。エナクトメントは怒りや恥や様々な感情を生むわけだが、それは私たちの持っている自由さへのキャパシティは意志の力でのみ形成されるのではないということを教えてくれる。体験というのはそれだけで複雑で複合的でり、それは訪れたときに生き抜いていくという形でしか対処しないのだ。そして私たちの内省の力や能力だけが、その例外なのである。
 内省において私たち自身のかかわりを見えにくくしているのは、無意識や関係性の力動だけではない。私たちはそこに存在の偶発性 contingency や、ラカンのいう「現実 le réel」等の、私たちが秩序や規則性を見出したいという意志を台無しにするような事柄を計算に入れなくてはならなくなる。それによって何が起きるだろうか?治療は事故や病気や家計の問題で中断するだろうか?あるいは治療者も患者も、分析の作業が終わる前に死んでしまうかも知れない。患者を治療室から招き出す時に、そのドアノブが外れてしまい、患者がそれにより私もひとりの人間であることを突然知る、などということは誰にも予想できないのである。同士でドアノブなんだろう、しかもなぜ今なんだろう。(訳注:ドアノブをめぐる症例の話がこの論文のどこかに出ていたのかと思ったが、検索をしても出てこない。)どうして例えばこれが、私がトイレに行きたくて部屋を出るときに起きなかったのか?こちらの方がよほど私の「人間らしさ」を表現しているだろうに。