2013年11月14日木曜日

エナクトメントと解離(10)

翻訳は続く。(p224下)
しかし私はエナクトメントが自分の無意識に由来するのだ、というのはシンプルすぎるのは分かっている。事実、私が自分の自己嫌悪に屈した場合は、私はエナクトメントを別の方向に作り変える可能性がある。その場合は私の自己嫌悪は、私の自己愛的な喜びと同じくらいにしつこいものとなっていたはずだ。私がエナクトメントに取り組むためには、二つの葛藤的な体験を持たなくてはならない。患者をがっかりさせてしまった罪悪感と、私がベストを尽くしたという感覚と。そうしていくうちに、分析的な仕事を行うことによる自己愛的な満足を味わえるようになるだろう。患者の家族が持っていた問題に関しては、私が良い親としてふるまい、そうと感じながらも、患者の自由を損なわないようには時間がかかったということだろう。患者の親も私自身もできなかったことは、いかに患者が私たちを心配させても、私たちはベストを尽くし、たとえ good enough になれなくてもそれ以上のことはできないのだという気持ちを持ち続けていることだった。言い換えれば私は自分に対して寛容になり、私の体験の全幅を味わう為には時間が必要だったということである。おそらく私たちはその寛容さを失っては取り戻すということをし続けるのだ。治療中に自分の解離に気づかせてくれたのは、ちょっとした心のざわめき chafing であった。
  さてここで最初の疑問に戻る、とある。なぜ解離の存在が、心のザワつきで見つかるのか。目がそれ自身を見ることができなくても、どうしてそれ自身のヒントが得られるのだろうか。おそらくこれらのヒントの大部分は、私たちの知覚を逃れるのだ。でも精神分析的な作業への献身によりそれが可能になる。胸のザワつきは葛藤の前触れのようなものだ。

ここまで訳した感想。心のざわめき、か。解離している部分は、その存在をざわめきで伝える。でもそれって例えば抑圧しているものが不安を信号とする、というフロイトの説とどこが違うのだろうか?図式としては、分析の専門家でなければ、どちらでもかわまないのではないだろうか?しかしスターンならこう言うだろう。いやいや、解離されている体験は、まだその時点では持たれていないのだ、フォーミュレイトされていないのだ、と。確かに抑圧されたものというのは、既にそこにあって箱に入っている感じだ。しかし実際にはそうではなく、まだ体験されていないのだ、という考え。私はむしろこちらの方に賛成だ。