金、土、日と京都で精神分析学会だった。その間のブロブは書き溜めた分を吐き出した。京都の街はいいなあ。なんといっても碁盤の目で分かりやすい。アメリカの街みたいだ。幸い三日とも天気に恵まれた。昨日の夜、また日常に戻った。
スターンをまたもうちょっと訳す。少しわかってきたぞ。
スターンをまたもうちょっと訳す。少しわかってきたぞ。
激しい心の痛みの最中も、葛藤が不在の場合がある。そしてその不在こそが痛みの原因であり、葛藤を作り出すことにより軽減するかもしれないのだ。言い換えるならば、反復強迫は必ずしも意識的な目的と無意識的な目的の間の葛藤のエナクトメントではなく、本来体験するべき葛藤が不在であることが問題かも知れないのだ。逆説的に聞こえるかもしれないが解離した自己状態の場合は、葛藤を体験できるようになることが目標なのだ。(中略)意識的な葛藤は必要である。なぜならほかの誰かとの間に起きていることから十分に距離をとることで反省し、何が起きているかを「見る」ようになるためには、私たちはもう一つの視点を必要とするのだ。私たちはもうひとつの解釈(というよりはもうひとつの体験というべきか)を必要とし、その解釈は必然的に既にある解釈との間に葛藤をおこすのだ。解離について言えば、あるひとつの心の状態を見るためには、そのバックグラウンドを体験する必要があるというわけである。
なにか同じことを何度も言い直しているような論文だが、もともとわかりにくい内容なので助かるには助かる。「反復強迫は葛藤の不在によるものかも知れない」か。これも挑発的な言い方だ。反復強迫は無意識的な葛藤が問題だ、と古典的な分析家は考えるだろうから。そしてスターンによれば、この反復強迫とは、エナクトメントと言い換えられるというわけだ。そしてそれが繰り返される限りは葛藤が体験されていないというわけである。待てよ、エナクトメントであるという把握ができていない限り、それはエナクトメントとも言えないというわけか。ただの繰り返し。「宿題が終わったの?」がエナクトメントであると把握されることで、初めてそれが行動を変更する力を持つ、mutative であるということか。
でもここで私は再び思うのである。葛藤の不在(スターン)ということと、葛藤が無意識的である(フロイト)ということは、そんなに違うことなのだろうか?同じ現象の別の見方ということはないのか?スターンはそんなに新しいことを言っているのだろうか?
でもここで私は再び思うのである。葛藤の不在(スターン)ということと、葛藤が無意識的である(フロイト)ということは、そんなに違うことなのだろうか?同じ現象の別の見方ということはないのか?スターンはそんなに新しいことを言っているのだろうか?