2013年11月17日日曜日

エナクトメントと解離(13)

もうちょっと翻訳を続けよう。といってもスピードを高めるために、一部は意訳になる。
結局私がそれまでナイーブに(無知に)快感を持っていたことは、もうそのままでは快感ではなくなり、一種の症状だな、患者との間で生じた一種のエナクトメントだな、という感覚が伴うようになる。それと同時に私の患者の成功体験も違って見えるようになった。最初はそれは純粋な進歩のように見えた。しかしそのうちそれは偽りの進歩であるように思えるようになったのだ。そして患者に「載せられた」という感じが伴うようになったのだ。そして最終的には患者の進歩の体験はより臨床的に生産性をともなったものとして新たな文脈を与えられたのである。
「目が自分をどのように見るのか」、というテーマについて考えることは、私たちを精神分析の草創期に連れ戻す。グリーンバーグとミッチェルが古典的な精神分析のキー概念として葛藤をあげた時、それは既にフロイトが考えたそれとは違うものを考えなくてはならないとも言っていた。つまりそれはフロイトが考えたような欲動と防衛の間の葛藤でもなく、イドと自我と超自我の間の葛藤でもなく、意識と無意識の間の葛藤でもない。本当に考えなくてはならないのは、意識に浮かべることのできるような、パーソナルでソーシャルな意味を持つべきものなのだ。私たちが自分たちの間でともに体験できる、目的と利得と願望を備えた葛藤なのだ、と。そしてもう一つ重要なことがある。それは人間がいつもいつも葛藤を抱えてばかりいるわけではないということ。時には極めて深刻な情動体験を持っている時に、そこに葛藤が介在していないこともあるのだ、と。

うーん、ここらへんは少し分かるぞ。スターンは葛藤がないことの病理性を言っているのだが、それは解離という病理である、というわけだ。しかしこれはスターンが、解離という病理についての理解の仕方を新たに提唱しているというのではない。彼の解離が「解離性障害」の解離ではないことは既に十分わかっている。そうではなくて要するに、「抑圧理論」への疑問を呈していることなのだ。あることを心の隅にしまっているという状態を、精神分析では抑圧という形でしか説明できない。しかし抑圧という力動的な概念は、結局はそれが外に出てきたいという力と、自我、超自我からの逆向きの力のせめぎ合い、つまり葛藤をもう最初から前提としている。そのことが問題だと言っている。少なくとも私にはそう読めるのである。