関係性の嵐の中で、分析家の自分自身と患者の自由への願望のために、分析家は時には患者の「助け」を見、理解し、受け入れることができる。サールズによれば、この「助け」は感動的であるのみならず、変容的 mutative である。つまりは分析家が患者を治したいという願望を持つことで、分析はは患者が彼を治そう願望を受け入れられるようになる。あるレベルにおいては、言葉にしないながらも、私の患者は私たちの間の微妙な空気の変化に気づいてほしいと思っていたのだ。自分も不安になってしまうようなことなく治療してくれるような治療者を望んでいた彼は、私から少し引いてしまったのだ。しかし彼は転移を通じて、私に自分を治す機会を与えてくれていたとも言える。自分の自己愛を犠牲にし彼の心に達するような良い「親」になる機会を、である。
(中略)ここまで書いた内容からは、葛藤を体験するためには、解離されていた、エナクトされた、つまりフォーミュレイトされていなかった体験をフォーミュレイトとするのが唯一の方法である、という印象を与えたかもしれない。しかしエナクトされたあとの体験は、それまで意識的に体験されていたものを新たな文脈に落とし込むという。(中略)私自身のケースでは、私が患者の改善を喜んでいたという体験は、それが自己愛的であったという気づきにより受け入れがたいものとなった。それが一種の症状のように感じられるようになったのだ。そして時間が経ってみると、私のナルシシズムも後ろめたさも、両方が患者の側のエナクトメントの反応として理解されるようになった。
うーん、わかったようなわからないような。もう少しわかりやすい例を考えようか。親が中学3年生の子供に「今日の宿題はやったの?」と尋ねる。いつもの口癖だ。でも尋ねながら、なんとなくいい気持ちがしない。他方の聞かれた子供は苛立ちを覚える。「まだやっていないけれど、ちゃんとやるよ。さっき学校から帰ったばかりじゃない。でもさあ、お母さんは僕がいくつだと思っているの?」と不満を表明する。母親はそれを聞いて、「ほらまだじゃないの!」といいながらも、「中3の息子が宿題をやったかを確認する私って、息子のためを思っているというよりは、自分の不安を和らげたいだけなの?」。こうして「息子の為を思う」部分と「自分の不安をやわらげたいという自己中心的な部分」の両方があるのが普通であることを受け入れるようになる・・・・。この例では無理だろうか?「自分の不安のために子供に宿題を確認する自分」がそれまでは解離されていたとしたら、一応適切な例と言えるだろうか。でも「ああ、またやっちゃった。いつも反省しているけれど、つい息子の顔を見ると口うるさく言ってしまうのよね。」という程度なら、解離しているとは言えないのだろうか?