2013年11月11日月曜日

エナクトメントと解離(7)

昨日は対象関係論勉強会の一日司会(表参道、こどもの城)。お仲間の北山修先生と藤山直樹先生の講義の司会をしたのだが・・・。さすが日本を代表する精神分析家。テーマはバリント、フェアバーン、ガントリップ。二人共円熟しきった講義であった。

サリバンはこう言っているという。「パーソナリティの中で両親やほかの重要な人々に肯定されていない自己表現については、自己は言わばそれに気がつこうとしない。それらの願望やニーズは、解離されるのだ。」ここでサリバンが言う解離は、schizophrenia 統合失調症のことだというのだが、彼の言う schizophrenia はかなり広い意味を持つ。(誰でも自分が主として用いている概念の含む幅はどうしても広くなるらしい。) そしてそれはおそらく「本当の」解離性障害も含むに違いない。それはともかくこの解離されたものは、サリバンの言葉を借りれば not-me となるが、それは象徴化されずに自我の外にとどまり、時期が来れば侵入してくる。この理論には欲動 drive は存在せず、またこの解離の精神への影響は、通常は目に見えないものであるという。しかしパーソナリティはそれを中心に構造化されていて、それはちょうど絵がキャンバスの周辺の白地に囲まれて構成されるのと同じだという。(p. 218) それは例えば田舎道のようなもので、そこを歩く限り何も疑問を覚えないが、それはそれが余計なところに入っていかず、決められたところだけを通るからだ、という。
フロイトによれば、防衛は無意識的な葛藤から生じる。そしてそれは葛藤の一方だけを意識化する形で行われる。それがフロイト的な葛藤の回避のされ方だ。しかしサリバン的に言えば、葛藤はもう片方を構成しないことで回避されるというのだ。(書いていてよくわからなくなってきている。)
こういう時私がとる手段は、逐語訳である。こんなことが書いてある。(同論文P222下段から。)

 スプリッティングや抑圧では、私たちは心の別の部分では知っているのである。私たちは無意識的に、心の隠れた部分で知っていることを体験することを拒否するのである。他方では構築主義者たちの考えるエナクトメントでは、意味はやはり分かれているが、ひとつの心の二つの部分に、ではない。それらは二人の人間の心の間に分かれているのである。分析家は意味の一部を体験していて、もう一部をエナクトする。患者は分析家がエナクトした部分を体験し、分析家が体験した部分をエナクトする。つまり二つの心は、割れたお皿の二つの部分というわけである。目標はそれを一つの心の中で葛藤として体験することだが、それまでの間は、治療関係の中で、分析家も患者も自分だけが真実を見ていると思っている。
とまあ、ここまではいい。既に出てきた内容だ。問題は次の例が出てくる部分だ。