2013年11月22日金曜日

エナクトメントと解離(16)(最終回)

さてこの論文ももうおしまいに近づいている。複数の読者(いらっしゃるらしい)から、「全然わからない」という反応をもらい続けている。もう限界だろう。
 これまで16日かけて読んだこのスターンの論文は、非常に散文的な、よくぞこれで学会誌に掲載されると思うようなものであるが、私にとっては、結局得ることは非常に大きかった。ほとんど同語反復的な最終部分に、ジョンレノンの言葉が出てくる。「人生は、その計画を立てている最中に生じてくるもののことを言う。
Life is what happens while you are making plans.事柄がまず最初に自分の身に起きる。反省は常に後から付いて回る。そしてその意味を理解する。それが人生というものだ。
 もちろんこの論文を良く理解したわけではないが、漠然とながら伝わってくるのは、以下のようなことだろうか。私たちはある種の行動を起こした時に生じる心のざわめきをきっかけに、その行動を振り返り、そこにもう一つの心の可能性を知る。それが治療においても生じ、現実の世界においても生じるということだ。その行動をエナクトメントと呼び、もう一つの心を解離された心と呼ぶわけだ。そしてその解離された心とは、何か既にあってそこに眠っているものではなく、まだ象徴化されていない、すなわち言葉にすらなっていないようなものというわけだ。
解離についての議論の一環としてこのテーマを追って来たが、もちろん「解離性障害」における「解離」との違いは明らかである。解離性障害における「解離」とは、ある意味では象徴化されているものである。ただしそれはその主体Aにおいてではない。別の主体、主体Bにおいて、なのだ。それが主体Aに持ち込まれてそこで葛藤として成立することが精神分析の目標であるとしたら、「解離性障害」の治療目的にとっては、それはいわゆる「統合」の達成であり、遠い遠い目標ということになる。スターンたちの論じる解離は、だから緩やかな解離、そこで健忘障壁が起きるほどの深刻なものではなく、むしろ緩やかな解離と言うべきであろうか。
明日から、少し違った内容になる。オトナは大変だ。