2025年10月31日金曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 1

 ほかの執筆に押されてずいぶん先延ばしになっていた論文を推敲しなおす。

 本章は精神医学的な見地からのヒステリー(変換症、FND)の歴史について、すなわち本書の他の執筆者とは異なる立場から論じるが、それに先立って、本章で用いる三つの用語について述べたい。というのも本症に関しては精神医学においてはこれまでにめまぐるしい名称変更が行われたからである。

● ヒステリー ・・・・・ DSM-Ⅲ(1980)以前の時代における変換症、FNSに相当する概念
● 変換症   ・・・・・ DSM-Ⅲ以降DSM-5(2013)までの時代におけるFNSに相当する概念。
● FNS (機能性神経学的症状症)・・・・・ DSM-5以降の概念で、変換症、解離性神経学的症状症(ICD-11)と同等のものとする。
 ちなみに変換症 conversion disorder は従来転換性障害と訳されてきたが、同音の「癲癇」との混同を避けるためにDSM‐5の日本語版策定以降このような措置が取られたのである。


2025年10月30日木曜日

ある書評 5

 第八章 愛することと働くこと……フロイトの言葉を考える

この第8章も私が特に好きな章である。単体のエッセイとしてもとても優れたものということが出来る。著者はいよいよ臨床心理を学び始め、学費のために教科書搬入のアルバイトを行う。その肉体労働にふと楽しさを覚え、医療機器のメーカーでの営業職にはどうして楽しみを見出せなかったのかについて考える。そしてそれはアルバイトが将来につながる、あるいは生きがいに結びついた仕事であることに気が付く。そして改めて働くということの意味を問い直すのだ。
 私は中でも著者の「[前の営業職では]自分がやっていることが実感できなかった」という気付きに注目する。自分がある行動を起こすことで何かが変化するという感覚、いわゆる自己効能感が決定的な役目を果たす。その意味でも著者が今心理士として働くことで味わう喜びはどれほどばかりだろうと思うのだ。心理臨床は、セッションでクライエントと対峙し、だれにも指図をされることなく自分の信じるままに進めていく。基本的には評価を受けたり、勤怠を管理されることはない。そして自分の言動の結果は多くの場合よくも悪しくもクライエントに及ぶ。およそ「自分がやっていることが実感でき」ない状態には程遠い。実感されすぎてしまうほどだ。臨床は「自分の意思とは関係なく言われたことに従わされる」のではなく「自分の意思に従って行うことに結果が左右される」世界だ。同じストレスでも後者は前者よりも精神衛生上いいだろうし、著者もそう感じているはずだ。もちろん人それぞれで後者に耐えられないという人もいるであろう。一日に何人もクライエントのつらい訴えを聞くこと、ましてや何らかの意味のある介入を行うことが期待されるということが耐えがたい人もいるし、するべきことを与えられ、それを何も考えずに機械的にこなすことが一番嫌なことを忘れられるという人もいるだろう。そのような人にはこの著者の話はあまり意味をなさないかもしれない。

以上3つの章についての感想を述べたが紙幅の関係でここで留める。あとは読者が各自本書をひも解いて存分に楽しんでいただきたい。


2025年10月29日水曜日

ある書評 4

 第七章 先が見えないときどうしたらいいの?……ネガティブ・ケイパビリティ

 この章は少し不思議な章である。著者は「先が見えない時どうしたらいいの?」というタイトルからネガティブケイパビリティ(以下、NC)の話に入る。著者は営業の仕事を辞める決心をし、それを恐る恐る部長に伝えるが、部長は決して怒ることなく、むしろ飲みに誘ってくれたという。NCとは詩人キーツが使い、それを分析家ビオンが取り上げている概念である。それは「人が事実と理由を性急に追い求めることなく、不確実さ・謎・疑惑の中に留まることが出来ること」とされる。それが著者の置かれた立場とどうつながるかは分かりにくいかもしれない。著者はこの頃には大学院の心理学科に合格し、仕事を辞めることを決めていて、それを上司に伝えることについては迷いがなかったのだ。
 実は彼にとって未知だったのは、部長がそれにどのような反応をするかであった。自分のように営業職→退職→学びなおし、という方針変換をする人間が部長にはどう映るのかがつかめなかったのだ。しかしそれを告げた時の部長の冷静でむしろ共感的な態度により支えられた、とある。自分の中に持っていたいわれのない罪悪感などを払拭することが出来「これでよかったのだ」という思いを持つことが出来たのであろう。この「他者から見えるであろう不可解さ」が解消されたことで、彼は自分の行っていることの分からなさから最終的に解放されたということだろうか。
 この様に部長により見事に救われた著者であったが、ではどうやってNCを持つことが出来るかという問題に彼は向かう。それは本を読んでも答えが見つからない。結局自分自身が「不確実さ・謎・疑惑の中に留まる」しかないということになるという。つまりNCとは答を他に求めるではなく,自分の中に求めるしかないということを意味するのだと著者は考える。自分は不確実性に苦しみ、じたばたする。そして起こした行動がある種の現実を突きつける。そして他人を巻き込むことなく、そこから学んでいくしかない。
 とすればNCからの救いは結局は他者を介するということになるのではないか。著者の場合はそれはほかならぬ部長だった。部長は部長で、著者と同じ「このままでいいのか?」という悩みを何年か前に持ち、その答えとして同職にとどまることを選び、またそれを受け入れた可能性がある。その諦めと受容があったらこそ、著者の葛藤もそれなりに「わからないながら」受け入れることが出来たのだろう。部長がNCを備えていたことは、著者の訳の分からない人生の決断を淡々と聞き入れたというところに表されていたわけだ。つまりそれはもうその人の人生のスタイルになり、他の人とは異なるユニークさであり、本書に登場する刑事コロンボも、結局はNCに対処する自分のスタイルを身に着けたのだろう。
 ちなみに評者はNCの一部は不可解さを楽しむ能力ではないかと思う。不可知であることは裏を返せば、自分のその事柄への対処は無限の自由を秘めていることなのである。

2025年10月28日火曜日

ある書評 3

 この短いスペースでは内容に詳しく立ち入ることはできないが、いくつか印象に残った部分を紹介しよう。

第六章 「自分の人生このままでいいの?……人生を物語ること」
 この章で著者がドラえもんとタイムマシンとの関係で自分の人生を語っている部分がとても面白い。著者は医療機器の営業職に携わりながら、いかに自分がそれに向いていないかを知り、初めて将来について真剣に考えていたようである。なぜ最初に営業職に就く前にそれを考えなかったのかは読者にはよくわからないが、自分にやりがいや使命感のようなものを体験でき、心について、人間についても深く考える機会を得ることを期待していたのかもしれない。しかしそれはある意味では全く見当外れであったことがわかる。自分がしたいこと、感じることが封印される毎日。そしてそれを続けて将来どうなるかを先輩や上司が実例として見せてくれる。ある意味では著者はタイムマシンに乘って自分の未来像に出会い、その自分が心情を吐露するのを聞いたのだ。そして思った。「自分はこのようにはなりたくない。」
 こうして人より数年遅れて臨床心理の世界に入った著者は、最初から漫然と臨床心理に入っていた場合に比べてずいぶん性根の座った心理士になれているのではないか。一度別のタイムマシンに乗っているからである。そして本書を通して著者は再びタイムマシンに乗り、今度は逆向きの旅をして過去の自分に出会う。そして今の自分の萌芽は既に20年前にあったことを各章を通して再確認しているのである。
 これは一見フロイトの言葉「本質的なことはすべて保たれている。完全に忘れられてしまっているように見えることでさえ、何らかのあり方を取って、どこかになお存在している。それはただ埋没させられているだけであり、個人の自由にならないようにされているのである。」(全集21巻 分析における構築)を裏付ける作業のようであると著者は言う。しかしこれは同時にナラティブの構成の作業でもあるのだ。なぜならさらに20年経ってまた全く別の新たな道に進んでいるかもしれない著者は、本書を読み返して新たな道に進む前触れをそこに見出すかもしれないからである。


2025年10月27日月曜日

ある書評 2

 ある書評の続きを書いている。

 それにしても本書の構成は旨くできている。著者は彼の人生の上での様々な場面で遭遇した問題について書いているわけではない。彼は大卒後初めて務めた職場で、比較的短期間の間に一連の経験を持ち、それらにより大きな方針転換を迫られ、結局臨床心理の道に向かうことになったのだ。つまりそれらの期間は数年に限られ、同じ職場でいわば定点観測のようにして体験したことを抽出し、回顧する形を取っているのだ。そしてそれらの体験は同じトーンを帯び、それらが全体として著者の人生のかじ取りに手を貸したのだ。

 その著者のおかれた境遇では、何人かの上司や同僚が、著者に様々な現実を突き付けてくるのであるが、彼らは決して社会人としての表向きの品行方正な姿を見せるのではない。ある意味では一番本音をぶつけやすい後輩の立場にある著者に対して、かなり無遠慮に、裏側の顔を見せる。彼らは目の前の新人が将来心理士となり、自分達を本に登場させるなどとは夢にも思わなかっただろう。その意味では著者の視点は自然観察を行う動物生態学者のそれに似ている。
 その意味では著者は心についての学徒としてまたとない機会を得られたことになる。そして普通なら一種の社会勉強と考えて受け流し、そのうち忘れてしまうような先輩の言動に深く考え込み、そこに将来の自分を重ねる。そう、彼はある意味では心理士になる前からすでにすぐれた心の観察者としての資質を存分に発揮していたのだ。

2025年10月26日日曜日

解離症の精神療法 推敲の推敲 4

   ● 入院治療

DIDの患者の診断的な理解が不十分な段階では、時として生じる頻繁な自傷行為や解離状態での行動化のためにパーソナリティ症や精神病が疑われ、危機介入の意味で緊急入院となることがある。しかしその場合には入院後には解離症状が治まるとともに平静さを取り戻し、早期に退院となることが多い。しかし抑うつ症状に伴う自傷行為や自殺傾向が強まった場合、ないしは再外傷体験に伴う人格の交代が頻繁に生じて本人の混乱が著しい場合などには、一時的な入院治療の必要が生じるであろう。入院の目的としては、患者の安全を確保し、現在の症状の不安定化を招いている事態(たとえば家族間の葛藤、深刻な喪失体験など)があればそれを同定して改善を図ることなどが挙げられる。
 外来治療においては情緒的に不安定であったり深刻なトラウマを抱えている人格については十分にそれらを扱う余裕がないという問題が生じることがある。しかし比較的長期の入院が可能であれば、病棟による安全性も確保されることで、それらの問題を扱うことが可能になるかもしれない。
 ただし解離症の入院治療は解離症の理解やその治療の特異性を踏まえた看護スタッフの存在が不可欠であり、さもなければ入院治療がさらなるトラウマ体験となってしまう可能性も否定できない。

3.DFの治療プロセス


<以下省略>


2025年10月25日土曜日

解離症の精神療法 推敲の推敲 3

2.DIDの治療プロセス 

治療目標

DID の治療の目標は、患者の統合された心身の機能の達成である。しかしそれは患者が有する複数の異なる人格が最終的に一つにまとめ上げられることを必ずしも意味しない。個々の交代人格の存在は、患者が過去に直面した外傷性のストレスに対処したりそれを克服したりするうえで行った適応的な試みの帰結である可能性がある。そしてそれぞれの人格には特有の存在意義と記憶と、自己表現の意思がある。そのため治療者は、交代人格を単なる部分とみなしたり、その存在を無視ないし軽視したり、「消える」ことを促したりすべきではない。
 しかし心身の機能を担う身体がひとつである以上、どの人格の言動についても、たとえ他の人格はそれに関与した自覚や記憶がなくても、その結果について社会から責任が問われるという事情を理解し、受け入れることの援助も、治療者の重要な役割である。
 なお欧米のDID の治療に関するガイドラインには、患者に新たな人格を作り出すことを示唆したり、名前のない人格に名前を付けたり、自律的な機能を担うよう促すことは慎重であるべきことがしばしば強調されたが、それには根拠がある。個々の人格の出現や消退は、患者が体験するライフイベントに大きな影響を受けつつ独自に展開する可能性がある。そこに治療者が人工的な手を加える際には、十分な治療的な根拠と患者との合意必要であろう。個々の人格のプロフィールを明らかにする、いわゆるマッピングについても、それが眠っている人格を不必要に覚醒させることにつながるのであれば、その是非は個別の臨床場面において判断されるべきであろう。 Putnam(Putnam FW Diagnosis and treatment of multiple personality disorder . New York: Guilford Press1989/ 安克昌、中井久夫(訳)多重人格障害-その診断と治療。東京、岩崎学術出版社2000)

治療目標として人格間の統合 integration や融合 fusion を掲げることは、そこに一部の人格の消失をニュアンスとして含む場合には、人格間の混乱を引き起こしかねないために慎重さを要する。望まれる治療の当初の目標は人格達の間の調和的な共存であり、それは特定の人格の消失を必ずしも意味しない。ただしその調和が、かつて存在が確認されたすべての人格により達成される保証はない。
 治療者はまた人格間の理想的な調和を阻む要素にも留意すべきであろう。それらは加害者との継続的な接触、家庭内暴力などによる慢性的で深刻なストレス、うつ病などの精神医学的ないしは慢性疾患などの身体的な併存症を持っていること、治療を受けるための十分な経済的な背景を持たないこと、社会的な孤立などである。
 現在多くのテキストでDIDの治療として以下のような3段階説が提唱されている。以下にISSDのガイドラインを参照しつつそれらの3段階について概説する。

治療の各段階

● 第1段階  安全性の確保、症状の安定化と軽減

治療の初期の目標は何よりも、安全、安心な治療関係の成立が大切である。治療の初期には、患者は非常に防衛的であったり、異なる人格の目まぐるしい入れ替わりが生じている可能性がある。この段階においては、治療者は安心できる雰囲気を保ちつつ、表現の機会を求めている人格にはそれを提供することでひとまず落ち着かせることも必要となろう。また治療者は患者とともに、異なる人格により表現されたものを互いにどこまで共有することが出来るかについても考える必要がある。時にはそれぞれの筆記したものを一つのノートにまとめて参照したり、生活史年表を作成したりするという試みが有効となる。治療は週に一度、ないしは二週に一度の頻度が望ましい。なおこの段階では過去のトラウマについて扱うことには慎重であるべきであろう。ただしそれがフラッシュバックの形で体験されている際にはその症状の軽減のための方策は望まれる。

● 第2段階 トラウマ記憶の直面化、ワーキングスルーと統合 

安全な治療環境が整うに従い、それぞれの人格が抱えたトラウマ記憶が語られたり、そのフラッシュバックが生じ易くなる場合がある。それらのトラウマ記憶は夢によって再現されたり、日常接するメディアや映画、小説などに触発されることもある。治療者は適切な判断のもとにそれらが再外傷体験を導かないように注意しつつ必要な勇気付けを行いながら、トラウマ記憶が徐々にナラティブ記憶に改変されることを手助けすることが望ましい。それによりフラッシュバックの頻度が減り、特定の人格による行動化が少なくなることが当面の目標となる。ただしトラウマ記憶を扱うことについては人格ごとに意見が分かれたり、セッションの前後で解離症状が増す可能性に注意すべきであり、それらが生じる場合はトラウマの扱いを一時留保することも必要になる。
 なおこの第2段階で治療者がトラウマ記憶を扱うことが一つの義務や使命のように感じることで、患者への負担になることは避けなくてはならない。トラウマを扱うということはそもそもトラウマ記憶を抱えた人格と交流するということでもあり、その詳細を探る事では必ずしもないことに治療者は注意すべきであろう。
 DID の治療においてしばしば遭遇されるのは、多くの自然に姿を見せなくなる人格の存在である。それらの人々がことごとく過去のトラウマ記憶についての適切な処理が行われたとは限らない。

 ● 第3段階 統合とリハビリテーション、コーチング

この段階での「統合」は文字通りの人格間の統合というよりは、人格どうしが協力し合い、より調和的で生産的な人生を歩むようになった状態と理解すべきであろう。順調に治療が進み、回復へのプロセスを辿った場合、治療は現実適応を目指したリハビリテーションの段階になり、頻回の治療はおそらく必要がなくなっていくであろう。しかし定期的な診察やカウンセリングにより周囲や家族との関係についてのコーチングを継続することの意味は大きい。また患者がうつ病などの併存症を抱えている場合には、精神科受診による投薬の継続も必要となろう。
 DID の患者がどのような家族のサポートを得られるかは、非常に重要な問題と言える。なぜならDID の症状の深刻さは基本的には日常的な対人ストレスのバロメーターと言えるからだ。有効な治療的な努力が行われていても、患者が暴力や暴言に満ちた環境で過ごす限りは、その効果は半減してしまうだろう。また患者のパートナーや同居者が一度は治療的な役割を担っても、早晩その自覚を失ってしまう可能性もある。その意味では継続的なカウンセリングは、よい治療結果を維持するという目的もあるのである。
  DID の治療は多くの偶発的な出来事に左右され、治療者の思い描く治療方針通りに進まないことが多い。治療者は患者の身に降りかかるライフイベントや交代人格の予測可能な振る舞いに対応しつつ柔軟な姿勢を失わないことが重要であろう。

 


2025年10月24日金曜日

解離症の精神療法 推敲の推敲 2

 生育歴と社会生活歴

解離症の患者の多くに過去のトラウマや深刻なストレスの既往が見られる以上、それらの内容の把握も重要となる。ただしトラウマ体験の聞き取りは非常にセンシティブな問題を含むため、その扱い方には慎重さを要する。特に幼少時の性的ないし身体的なトラウマをはじめから想定し、いわば虐待者の犯人探しのような姿勢を持つことは望ましくない。
 DID において面接場面に登場している人格が過去のトラウマを想起できない場合や、家族の面接からも幼少時の明白なトラウマの存在を聞き出せないこともまれではない。さらには幼児期の出来事のうち何がどの程度のインパクトを持ったストレスとして当人に体験されるかには、大きな個人差がある。繰り返される両親の喧嘩や、同胞への厳しい叱責や躾けを目撃することが、解離症状につながるような深刻なトラウマを形成することもある。
 成育歴の聞き取りの際には、さらにそのほかのトラウマやストレスに関連した出来事、たとえば転居や学校でのいじめ、登下校中に体験した性被害、疾病や外傷の体験等も重要となる。 


診断および説明、治療指針

初回面接の最後には、面接者側からの病状の理解や治療方針の説明を行う。無論詳しい説明を行う時間的な余裕はないであろうが、その概要を説明することで、患者自らの障害についての理解も深まり、それだけ治療に協力を得られるであろう。また筆者は解離症に関する良質の情報を患者自身が得ることの意味は大きいと考えている。少なくとも患者が体験している症状が、精神医学的にはすでに記載されており、治療の対象となりうるものであるという理解を伝えることの益は無視できないであろう。  
 患者がDID を有する場合、それを伝えた際の反応は人格ごとにさまざまであり、時には非常に大きな衝撃を受ける場合もある。ただし大抵はそれにより様々な症状が説明されること、そしてDID の予後自体が、多くの場合には決して悲観的なものではないことを伝えることで、むしろ患者に安心感を与えることが多い。ただし良好な予後をうらなう鍵として、重大な併存症がないこと、比較的安定した対人関係が保て、重大なトラウマやストレスを今後の生活上避け得ることなどについて説明を行っておく必要がある。
 治療方針については、併存症への薬物療法以外には基本的には以下に紹介するような精神療法が有効であること、ただしその際は治療者が解離の病理について十分理解していることが必要であることを伝える。またDF に関しては、最終的な診断が下された後は、筆者は患者の記憶の回復が必ずしも最終目標ではなく、出来るだけ通常の日常生活に戻ることの重要さを説明することにしている。

岡野憲一郎 (2007)解離性障害入門 岩崎学術出版社 


2025年10月23日木曜日

解離症の精神療法 推敲の推敲 1

 本章は解離症の精神療法というテーマで論述を行う。ICD-11(2022)の分類では解離症はFNS(機能性神経症状症)または変換症を含むが、それらは次章の「身体症状症」で論じられるため、ここでは解離性同一性症 (dissociative identity disorder、以下 DID)、および解離性健忘の中の解離性遁走(dissociative fugue、以下 DF)について主として扱うこととする。

1.解離症の初回面接と見立て

  
 初回面接における出会い

解離症の初回面接においては、患者は面接者が自分の訴えをどこまで理解してもらえるかについて不安を抱えていることが多い。DIDの患者はすでに別の精神科医と出会い、解離症とは異なる診断を受けている可能性がある。あるいは精神科に未受診でも、その症状により周囲から様々な誤解や偏見の対象となっていた可能性がある。面接者は患者にはまず丁寧に挨拶し、初診に訪れるまでに体験したであろう様々な困難さに理解を示したい。
 解離症の患者が誤解を受けやすい理由は、解離症状の性質そのものにあると考えられる。DIDのように心の内部に人格が複数存在し、一定の時間異なる人格としての体験を持つことなどは、私たちが持つ常識的な心の理解の範囲を超えている。そのためにあたかも本人が意図的にそれらの症状を作り出したりコントロールしたりしているのではないか、それにより相手を操作しようとしているのではないか、という誤解を生みやすい。そして患者はそのような体験を繰り返し持つ過程で、医療関係者にも症状を隠すようになることも多く、それがさらなる誤解や誤診を招くきっかけとなるのだ。
 

現病歴を聞く

解離症の現病歴は、社会生活歴との境目があまり明確でないことが多い。通常は現病歴は発症した時期あるいはその前駆期にさかのぼって記載されるが、それが幼少時のトラウマ体験に関わっている場合には、すでに物心つくころには症状の一部は存在している可能性がある。それらは幻聴であったり異なる人格の存在を感じるという体験であったりするだろう。ただし通常は現病歴の開始を、日常生活に支障をきたすような解離症状が顕在化した時点におくのが妥当であろう。

解離症の現病歴を聴きとる際に特に注意を払うべきなのは記憶の欠損である。初診面接では器質性疾患が疑われない患者に記憶の欠損の有無を問うことは忘れられがちであるが、それが解離症の存在の決め手となることが多い。人格の交代はしばしば記憶の欠損を伴い、患者の多くはそれに当惑したり不都合を感じたりする。しかし患者も周囲もそれを「もの忘れ」や注意の散漫さに帰することが多い。面接者の尋ね方としては、「一定期間の事が思い出せない、ということが起きますか? 例えば昨日お昼から夕方までとか。あるいは小学校の3年から6年の間の事が思い出せない、とか。」「知らない間に自分が遠くに行ってしまったことに気が付いたことはありませんか?」などが適当であろう。
 交代人格の存在に関する聴取はより慎重さを要する。多くの DID の患者が治療場面を警戒し、交代人格の存在を安易に面接者に知られることを望まないため、初診の段階ではその存在を探る質問には否定的な答えしか示さない可能性もある。他方では初診の際に、主人格が来院を恐れたり警戒したりするために、かわりに交代人格がすでに登場している場合もある。診察する側としては、特に DID が最初から疑われている場合には、他の人格が背後で耳を澄ませている可能性を考慮し、彼らに敬意を払いつつ初診面接を進めなくてはならない。「ご自分の中に別の存在を感じることがありますか?」「頭の中に別の自分からの声が聞こえてきたりすることがありますか?」等の質問の仕方が可能であろう。

知覚の異常、特に幻聴や幻視があるかどうかも解離症の診断にとって重要な情報となる。その際幻聴が人生の早期から生じていたり、声の主を本人がある程度同定できる場合は、それが解離性のものであると判断する上で重要な手がかりとなる。また幻視は統合失調症では幻聴に比べてあまり見られないが、解離性の幻覚としてはしばしば報告される。それがイマジナリー・コンパニオン(想像上の遊び友達←DSM5の訳語)のものである場合、その姿は外界の視覚像として体験される場合もある。
自傷行為については、それが解離症にしばしば伴う傾向があるために、特に重要な質問項目として掲げておきたい。「カッティング」(リストカットなど自傷の意図を持って刃物で自分の身体を傷付ける行為)は、それにより解離状態に入ることを目的としたものと、解離症状、特に離人体験から抜け出すことを目的でとしたものに大別される(岡野、2007)。いずれの目的にせよ、そこに痛覚の鈍磨はほぼ必ず生じており、その意味では繰り返される自傷行為は知覚脱失という転換症状の存在を疑わせるだろう。

DIDにおいてはFNSを疑わせる他の身体所見にも注意を払いたい。感覚や運動症状が突然生じては止み、脳神経内科的な所見がみられない場合などは特にその可能性がある。視力喪失、失声、手足の一時的な麻痺等は、ストレスに関連してしばしば聞かれる(詳しくは「身体症状症」の章の記述に譲りたい)。
 なお解離症の存在をより詳しく知るためには 患者にDES(解離体験尺度)(田辺、2004)を記入してもらうことも有用であろう。

田辺肇 (2004)DES-尺度による病理的解離性の把握-,臨床精神医学,増刊号:293-307.
 岡野憲一郎(2007)解離性障害 多重人格の理解と治療 岩崎学術出版社

2025年10月22日水曜日

ある書評 1

書評を書いている。

●●●のための〇〇からの×××

 本書は売れ行きも好調で、すでに多くの読者の支持を集めているそうである。著者●●氏(以下、著者)とはかつて一緒に翻訳作業に携わったこともあり、私は彼を比較的よく知る人間の一人と言えるであろうが、それだけにとてもうれしく思う。そしてその立場から本書の書評をお引き受けした。以下は私の素朴な感想文と思っていただきたい。

「●●●のための〇〇からの×××」という書名が示すとおり、社会人として様々な悩みを持つ人々に精神分析の理論がどのような答えや導きを与えるか、というのが本書のモチーフである。私はこの着想は素晴らしいと思う。現代社会に生きる私たち一人一人が多くの悩みや迷いを抱えつつ生きていることは疑いがない。最近はAIがしばしば用いられるようだが、勿論このような形での人生の指南書のような本も広く読まれているようである。ただし私たちが、その人生の悩みについての答えを、精神分析に求めるという保証はない。しかし一般の読者のかなり多くが精神分析に持つイメージには、大きな期待と神秘性を抱いていることも確かであろう。

以下略

2025年10月21日火曜日

トランプさんをどう考えるか

 私はドナルド・トランプ米国大統領のことは基本的には好きで応援もしている。しかしそう言うと絶対に反対の声が上がるだろう。あんなとんでもない人はいない、と。
私も彼はどうしようもない人だと思う。気まぐれで感情的でいい加減。女性蔑視なところも相当あるだろう。表面上は色々隠しているが。かなり平気でうそを言うし、偏見に満ちた発言が多い。そして何と言っても自己愛。自分で「自分はノーベル賞を受賞すべきだ」という人などいるだろうか。温室効果ガスはプロパガンダだと言い続けるし。
ただ彼のいいところは人が好きなことだ。気に入った人と仲良くなるのが好きで、ホイホイと会いに行く。敵同士のはずの関係の人にも胸襟を開いて会いに行く。北の国の将軍様とか。そこら辺に変なプライドは余りない。情には厚い方で、拉致被害者の声などにも耳を傾ける。基本的に育ちがよくて恨みがましさや妬みなども目立たない。そして基本的には血を見るのは好きではなさそうだ。仲を取り持って「どうだ、俺のおかげだろう」とドヤ顔をしたくてしょうがない。
でも恐らく一番政治家として大事なのは、職業政治家ではないということか。政治の世界でのし上がり、政界に君臨するということは考えずにやってきた人が気まぐれも手伝ってだいとうりょうになったのだ。これがとても大事なのは、職業政治家は様々なしがらみにまみれ、なにが正義かが分からなくなり、平気で国を売ったり、戦争をたくらんだりしかねないということだ。トランプはほかの大物政治家や財界人に必要におもねることなく、ごく単純に世界で起きていることへの「これっておかしくない?」という感覚を保っている。「人と人とが争っているって、駄目だよね。一番不幸なことだよね」という当たり前の正義感を保っているらしい。「人が死んでも、兵器産業はもうかるよね」という、常識ではありえない発想をするのが職業政治家であるとするなら、彼にはそのようなところはあまり見えない。
トランプさんはどうしようもないし、家庭人としては失格かも知れないが、単純な正義感に従うことが他の政治家よりは出来るという意味では、貴重な存在だ。あの「何をしでかすか分からない」ということも含めて。
トランプさんは俗物で、人間としてはちょい悪以上だろう。でも職業政治家の中にはかなりの大悪党もいることは周知のとおりだ。そうでないと勝ち残れないのが政治の世界だ。その意味では彼の存在は貴重なのだ。それにしても‥‥本当にショーもない人だ。

ところで一見そうには見えないが、トランプさんはもう79歳。あの年では昔で言う「脳動脈硬化」が関係してもおかしくないか。性格の偏り、ADHD、老化がいろいろ混じり合って、彼の行動はますます読みにくい。


2025年10月20日月曜日

解離症の精神療法 推敲 5

● 入院治療

DIDの患者の診断的な理解が不十分な段階では、時として生じる自傷行為や解離状態での行動化のために時には精神病が疑われ、危機介入の意味で緊急入院となることがある。しかしその場合には入院後には通常の平静さを取り戻し、早期に退院となることが多い。しかし抑うつ症状に伴う自傷行為や自殺傾向が強まった場合、ないしは再外傷体験に伴う人格の交代が頻繁で本人の混乱が著しい場合などには、一時的な入院治療の必要が生じるであろう。入院の目的としては、患者の安全を確保し、現在の症状の不安定化を招いている事態(たとえば家族間の葛藤、深刻な喪失体験など)があればそれを同定して扱い、もとの外来による治療を再開できるようにするなどのことが考えられる。
 外来治療においては特定の人格についてはその衝動性のために十分に扱う時間がないという問題がある。しかし長期の入院の期間が経済的その他の理由で可能であれば、外来において注意深く外傷記憶を扱ったり、攻撃的ないしは自己破壊的な人格部分を扱うことも可能となる。また病棟による安全性が確保されることで、より退行を示す人格が出現することがある。
 ただし解離症の入院治療はその病棟での解離症の理解やその治療の特異性を踏まえた看護スタッフの存在が不可欠であり、さもなければ入院治療がさらなるトラウマ体験となってしまう可能性も否定できない。

3.DFの治療プロセス

DFに関する治療指針に関しては、十分に治療者の間で合意を得られたものはない。患者はそれまでの記憶を失なった状態で発見され、警察に保護されたり救急治療室に搬送された後に、精神科への入院となるケースが多い。そこで身体疾患を除外するための様々な検査を受けるのが通常であるが、比較的特徴ある臨床経過のために最終的にDFとしての診断にいたることが多い。DFの患者の多くは際立った神経学的な特徴もなく、一定期間の記憶を失ってはいるものの日常生活に戻れる状態にある場合が多い。治療者は外来において患者が日常生活に戻るために必要な情報の再学習を援助し、また遁走にいたる契機となった可能性のある社会生活上のストレスについて探索し、それを回避することを助けることが望まれる。患者は基本的にはエピソード記憶以外の記憶(手続き的記憶、スキルそのほか)を保持しているため、それを可能な限り用いつつリハビリテーションを行うことが望ましい(ただしそれがDFにつながった可能性がある場合にはその限りではない。)

筆者はDFの患者を対象として、心理士と協力して生活史年表作りを作成する試みを行っている。患者は記憶を失った期間の自分の行動のうち情報を得られる分を集め、その期間の時事問題や世相の変化、話題を集めた文学作品や歌曲などを学習することで、社会生活に復帰した際のハンディキャップを軽減することが出来るであろう。ただしその努力により健忘していた期間の記憶が突然よみがえることは少ないため、記憶の回復を治療目標とすることは現実的でない場合が多い。

4.さいごに

以上本章では解離症の診断から治療までまとめた。解離症はそこに転換症まで含めた場合にはきわめて裾野の広い障害であり、包括的な議論をすることは不可能であるため、あえてDIDとDFに限定した記述となった。わが国ではまだ解離症は臨床家の間で十分なじみがあるとは言えない。しかしその治療の最大の原則としては、そのほかの精神障害と同様、安全を確保しつつ、本人の自己治癒力を最大限に引き出すことにある。解離性障害は誤解が多い障害である。今後より多くの臨床家がこの障害についての知識を深め、誤解と偏見を排することで治療効果を一層期待できるものと考える。



2025年10月19日日曜日

解離症の精神療法 推敲 4

  DIDの治療としては、従来より治療者は患者にかつて生じた外傷体験を一つ一つ除反応していくことにより、記憶の空白が埋められて行き、人格同士の交流が進み、最終的に人格の統合が行われるというプロセスが描かれている。しかし実際には複数の人格が安定した形で共存することの重要性も指摘されるようになっている。(Howell, 野間、岡野)。現在多くのテキストで以下のような3段階説が提唱されている。DID の個人療法についてISSDのガイドラインを参照しつつ3段階に分けて提示する。

第1段階  安全性の確保、症状の安定化と軽減

治療の初期の目標はは、何よりも安全、安心な治療関係の成立が大切である。最初は異なる人格の目まぐるしい入れ替わりが生じている可能性がある。この段階においては、患者に安全な環境を提供しつつ、表現の機会を求めている人格にはそれを提供し、それらの人格をひとまず落ち着かせることも必要となろう。治療者は患者とともに、別の人格により表現されたものを互いにどこまで共有することが出来るかについて模索する。時にはそれぞれの筆記したものを一つのノートにまとめたり、生活史年表を作成したりするという試みが有効となる。治療は週に一度、ないしは二週に一度の頻度が望ましい。なお過去のトラウマについて扱うことにはこの段階では慎重であるべきであろう。ただしそれがフラッシュバックの形で体験されている際にはその症状の軽減のための方策は望まれる。

第2段階 トラウマ記憶の直面化、ワーキングスルーと統合 

安全な治療環境が整うに従い、それぞれの人格が抱えたトラウマ記憶が語られたり、そのフラッシュバックが生じ易くなる場合がある。それらのトラウマ記憶は夢によって再現されたり、日常接するメディアや映画、小説などに触発されることもある。治療者は適切な判断をもとにそれらが再外傷体験を導かないように注意しつつ必要な勇気付けは行ない、トラウマ記憶が徐々にナラティブ記憶に改変されることを手助けすることが望ましい。そしてそれによりフラッシュバックの頻度が減り、特定の人格による行動化が抑えられることにつながる可能性がある。ただしトラウマ記憶を扱う際には、人格ごとにそれについての意見が分かれたり、セッションの前後で患者が不穏になる可能性を認識すべきであろう。その場合はトラウマの扱いを一時留保することも必要になる。
 なおこの第2段階でトラウマを扱うことが治療者にとっての義務のようにとらえられることで、かえって患者への負担になることは避けなくてはならない。トラウマを扱うということはトラウマ記憶を抱えた人格と交流するということであり、その詳細を探る事では必ずしもないことに治療者は注意すべきであろう。

第3段階 統合とリハビリテーション、コーチング


<省略>

2025年10月18日土曜日

解離症の精神療法 推敲 3

 診断および説明、治療指針

初回面接の最後には、面接者側からの病状の理解や治療方針の説明を行う。無論詳しい説明を行う時間的な余裕はないであろうが、その概要を説明することで、患者自らの障害についての理解も深まり、それだけ治療に協力を得られるであろう。また筆者は解離症に関する良質の情報を患者自身が得ることの意味は大きいと考えている。少なくとも患者が体験している症状が、精神医学的に記載されており、治療の対象となりうるものであるという理解を伝えることの益は無視できないであろう。   患者がDID を有する場合、受診した人格にそれを伝えた際の反応はさまざまであり、時には非常に大きな衝撃を受ける場合もある。ただし大抵はそれにより様々な症状が説明されること、そしてDID の予後自体が、多くの場合には決して悲観的なものではないことを伝えることで、むしろ患者に安心感を与えることが多い。ただし良好な予後をうらなう鍵として、重大な併存症がないこと、比較的安定した対人関係が保てること、そして重大なトラウマやストレスを今後の生活上避け得ることについて説明を行っておく必要がある。
 治療方針については、併存症への薬物療法以外には基本的には精神療法が有効であること、ただしその際は治療者が解離の病理について十分理解していることが必要であることを伝える。またDF に関しては、最終的な診断が下された後は、筆者は患者の記憶の回復が必ずしも最終目標ではなく、出来るだけ通常の日常生活に戻ることの重要さを説明することにしている。

解離症の治療プロセス 

● 治療目標

治療の基本のひとつは、安全な環境を提供しつつ、その個人の持つ自然治癒力による回復を促すことである。以下に特に DID の治療について論じるが、その目標も上述の解離性障害一般における統合された機能の達成であることに変わりない。しかしDID には異なる人格部分の存在という特殊事情がある。心身の機能を担う身体がひとつである以上、どの人格部分の言動についても、たとえそれに関与した自覚や記憶がなくても、その結果について責任を負わなくてはならない。そのことを個々の人格部分が受け入れるのを助けることは、治療者の重要な役割である。
 他方で治療者は、個々の交代人格の存在は、患者が過去に直面した外傷性のストレスに対処したりそれを克服したりするうえで行った適応的な試みの帰結である可能性を理解しなくてはならない。それぞれの人格部分には特有の存在意義と記憶と、自己表現の意思がある。そのため治療者は、交代人格を単なる部分とみなしたり、その存在を無視ないし軽視したり、「消える」ことを促したりすべきではない。
 なお欧米のDID の治療に関するガイドラインには、患者に新たな人格を作り出すことを示唆したり、名前のない人格に名前を付けたり、自律的な機能を担うよう促すことは慎重であるべきことがしばしば強調されたが、それには根拠がある。個々の人格の出現や消退は、患者が体験するライフイベントに大きな影響を受けつつ独自に展開する可能性がある。そこに治療者が人工的な手を加える際には治療的な根拠が十分必要であろう。個々の人格のプロフィールを明らかにする、いわゆるマッピングについても、それが眠っている人格を不必要に覚醒させることにつながるのであれば、その是非は個別の臨床場面において判断されるべきであろう。  治療目標として人格間の統合 integration や融合 fusion を掲げることは、そこに一部の人格の消失をニュアンスとして含む場合には、人格間の混乱を引き起こしかねないために慎重さを要する。望まれる治療の帰結は交代人格間の調和であるが、それは特定の人格の消失を必ずしも意味しない。ただし調和が、かつて存在が確認されたすべての人格の共存により達成できない場合もある。  治療者は人格の理想的な調和を阻む要素にも留意すべきであろう。それらは加害者との継続的な接触、家庭内暴力などによる慢性的で深刻なストレス、うつ病などの精神医学的ないしは慢性疾患などの身体的な併存症を持っていること、治療を受けるための十分な経済的な背景を持たないこと、社会的な孤立などはいずれもその達成を妨げる要素と考えられる。

2025年10月17日金曜日

解離症の精神療法 推敲 2

  解離症の現病歴を聴きとる際に特に注意を払うべきなのは記憶の欠損である。初診面接では器質性疾患が疑われない患者に記憶の欠損の有無を問うことは忘れられがちであるが、それが解離症の存在の決め手となることが多い。人格の交代現象や人格状態の変化は、しばしば記憶の欠損を伴い、患者の多くはそれに当惑したり不都合を感じたりする。しかし患者も周囲もそれを「もの忘れ」や注意の散漫さに帰することが多い。面接者の尋ね方としては、「一定期間の事が思い出せない、ということが起きますか? 例えば昨日お昼から夕方までとか。あるいは小学校の3年から6年の間の事が思い出せない、とか。」「知らない間に自分が遠くに行ってしまったことに気が付いたことはありませんか?」などが適当であろう。  交代人格の存在に関する聴取はより慎重さを要する。多くの DID の患者が治療場面を警戒し、交代人格の存在を安易に面接者に知られることを望まないため、初診の段階ではその存在を探る質問には否定的な答えしか示さない可能性もある。他方では初診の際に、主人格が来院を恐れたり警戒したりするために、かわりに交代人格がすでに登場している場合もある。診察する側としては、特に DID が最初から疑われている場合には、他の人格が背後で耳を澄ませている可能性を考慮し、彼らに敬意を払いつつ初診面接を進めなくてはならない。「ご自分の中に別の存在を感じることがありますか?」「頭の中に別の自分からの声が聞こえてきたりすることがありますか?」等の質問の仕方が可能であろう。  自傷行為については、それが解離症にしばしば伴う傾向があるために、特に重要な質問項目として掲げておきたい。「カッティング」(リストカットなど自傷の意図を持って刃物で自分の身体を傷付ける行為)は、それにより解離状態に入ることを目的としたものと、解離症状、特に離人体験から抜け出すことを目的でとしたものに大別される(岡野、2007)。いずれの目的にせよ、そこに痛覚の鈍磨はほぼ必ず生じており、その意味では繰り返される自傷行為は知覚脱失という意味での転換症状の存在を疑わせるだろう。  DIDにおいてはFNSを疑わせる他の身体所見にも注意を払いたい。感覚や運動症状が突然生じては止み、脳神経内科的な所見がみられない場合などは特にその可能性がある。視力喪失、失声、手足の一時的な麻痺等は、ストレスに関連してしばしば聞かれる。    それ以外にも知覚の異常、特に幻聴や幻視があるかどうかも解離症の診断にとって重要な情報となる。その際幻聴が人生の早期から生じていたり、声の主を本人がある程度同定できる場合は、それが解離性のものであると判断する上で重要な手がかりとなる。また幻視は統合失調症では幻聴に比べてあまり見られないが、解離性の幻覚としてはしばしば報告される。それがイマジナリー・コンパニオン(想像上の遊び友達←DSM5の訳語)のものである場合、その姿は外界の視覚像として体験される場合もある。  なお解離症の存在をより詳しく知るためには 患者にDES(解離体験尺度)を記入してもらうことも有用であろう。(田辺) 生育歴と社会生活歴

 解離症の患者の多くに過去のトラウマや深刻なストレスの既往が見られる以上、その聞き取りも重要となる。特にDID のように解離症状がきわめて精緻化されている場合、その症状形成に幼少時の深刻な体験が深く関連している可能性がある。ただしトラウマの体験やその記憶の聞き取りは非常にセンシティブな問題を含むため、その扱い方には慎重さを要する。特にDID において幼少時の性的トラウマをはじめから想定し、いわば虐待者の犯人探しのような姿勢を持つことは勧められない。またDID において面接場面に登場している人格が過去のトラウマを想起できない場合や、家族の面接からも幼少時の明白なトラウマの存在を聞き出せないこともまれではない。さらには幼児期の出来事のうち何がどの程度のインパクトを持ったストレスとして体験されるかは、大きな個人差がある。繰り返される両親の喧嘩や、親からの厳しい叱責や躾けが、解離症状につながるような深刻なトラウマを形成することもしばしばある。
 成育歴の聞き取りの際には、さらにそのほかのトラウマやストレスに関連した出来事、たとえば転居や学校でのいじめ、登下校中に体験した性被害、疾病や外傷の体験等も重要となる。

2025年10月16日木曜日

解離症の精神療法 推敲 1

 本章は解離症の精神療法というテーマで論述を行う。ICD-11の分類では解離症は機能性神経症状症または変換症を含むが、それらは次章の「身体症状症」で論じられるため、ここでは解離性同一性症 (dissociative identity disorder、以下 DID)、および解離性健忘の中でも解離性遁走(dissociative fugue、以下 DF)について主として扱うこととする。

1.解離症の患者との初回面接 

 初回面接における出会い

解離症の初回面接においては、患者は面接者が自分の訴えをどこまで理解してもらえるかについて不安を抱えていることが多い。DIDの患者はすでに別の精神科医と出会い、解離性障害とは異なる診断を受けていることがある。またそのような経験を持たなかった患者も、その症状により周囲から様々な誤解や偏見の対象となっていた可能性がある。面接者は患者にはまずていねいにあいさつをし、初診に訪れるに至ったことへの敬意を表したい。
 解離症の患者が誤解を受けやすい理由は、解離症状の性質そのものにあると考えられる。DIDのように心の内部に人格部分が複数存在し、一定の時間異なる人格としての体験を持つことなどは、私たちが持つ常識的な心の理解の範囲を超えている。そのためにあたかも本人が意図的にそれらの症状を作り出したりコントロールしたりしているのではないか、それにより相手を操作しようとしているのではないか、という誤解を生みやすい。そして患者はそのような体験を繰り返し持つ過程で、医療関係者にさえ症状を隠すようになり、それが更なる誤解や誤診を招くきっかけとなるのだ。
 初診に訪れた患者に対してまず向けられる質問は、患者の「主訴」に相当する部分であろう。筆者の経験ではそれは「物事を覚えていない」「過去の記憶が抜け落ちている」などの記憶に関するものが多い。それに比べて「人の声が聞こえてくる」「頭の中にいろいろな人の映像が浮かぶ」などの幻覚様の訴えは、主訴としてはあまり聞くことがないが、これらも解離症の存在を示す重要な訴えである。

現病歴を聞く

解離症の現病歴は、社会生活歴との境目があまり明確でないことが多い。通常は現病歴は発症した時期あるいはその前駆期にさかのぼって記載されるが、それが幼少時のトラウマ体験に関わっている場合には、すでに物心つくころには症状の一部は存在している可能性がある。それらは幻聴であったり異なる人格の存在を感じるという体験であったりするだろう。ただし通常は現病歴の開始を、日常生活に支障をきたすような解離症状が顕在化した時点におくのが妥当であろう。


2025年10月15日水曜日

解離症の精神療法 7

  第3段階 統合とリハビリテーション、コーチング

この段階での「統合」は文字通りの人格間の統合というよりは、残った人格どうしが協力し合い、より生産的な人生を歩むようになった状態と理解すべきであろう。順調に治療が進み、回復へのプロセスを辿った場合、治療は現実適応を目指したリハビリテーションの段階になり、頻回の治療はおそらく必要がなくなっていくであろう。しかし定期的な診察やカウンセリングにより状態の改善具合や家族との関係についてのコーチングを継続することの意味は大きい。また患者がうつ病などの併存症を抱えている場合には、精神科受診による投薬の継続も必要となろう。
 DID の患者がどのような家族のサポートを得られるかは、非常に重要な問題と言える。なぜならDID の症状の深刻さは基本的には日常的な対人ストレスのバロメーターと言えるからだ。有効な治療的な努力が行われていても、患者が暴力や暴言に満ちた環境で過ごす限りは、その効果は半減してしまうだろう。また患者のパートナーや同居者が一度は治療的な役割を担っても、早晩その自覚を失ってしまう可能性もある。その意味では継続的なカウンセリングは、よい治療結果を維持するという目的もあるのである。
  DID の治療においてしばしば遭遇されるのは、多くの、あたかも「自然消滅」していくかのような人格部分の存在である。それらの人々がことごとく過去の外傷体験についての除反応を起こしているとは思えない。DID の治療は多くの偶発的な出来事に左右され、治療者の思い描く治療方針通りに進まないことが多い。治療者は患者の身に降りかかるライフイベントや交代人格の予測可能な振る舞いに対応しつつ柔軟な姿勢を失わないことが重要であろう。

 ● グループ療法

これまでの記述は個人療法に関するものであったが、DIDの患者を対象とする均一グループによる治療も治療的な意味を持つ。ただし患者はほかの患者が語る過去のトラウマの体験に対して非常に敏感に反応し、フラッシュバックや人格の交代が誘発される場合が多い。またそれぞれの患者が持つ別人格同士の言語的、非言語的交流というファクターを考えた場合、治療者の側の扱える範囲を超えた力動が生じる可能性がある。考え方を変えるならば、DIDの治療はたとえ一人の患者を扱っている際もそれが一種のグループ療法としての意味合いを持っていることになる。そこで個人療法がある程度ペースに乗り、治療の第3段階を迎えた際に初めて本格的なグループ療法が可能であると考えられる。

● 入院治療

患者の自傷行為や自殺傾向が強まった場合、ないしは人格の交代が頻繁で本人の混乱が著しい場合などには、一時的な入院治療の必要が生じるであろう。入院の目的としては、患者の安全を確保し、現在の症状の不安定化を招いている事態(たとえば家族間の葛藤、深刻な喪失体験など)があればそれを同定して扱い、もとの外来による治療を再開できるようにするなどのことが考えられる。

解離性障害の入院治療の意義としては、病棟による安全性が保たれることで、患者の退行を懸念する必要もそれだけなくなり、より踏み込んだ治療が行える可能性が生まれることがあげられる。外来治療においては特定の人格部分のまま治療を終える事が出来ない場合、実質的にその人格部分を扱う時間は非常に限られるが、入院治療においてはその限りではない。また入院中に家族を招いてのセッションなどが可能な場合もあろう。

 現在の我が国の精神科病棟での解離性障害の治療の在り方を考えた場合、その治療の多くが短期間の安全の提供や危機管理、症状の安定化に限られる傾向にある。しかし長期の入院の期間が経済的その他の理由で可能であれば、注意深く外傷記憶を扱ったり、攻撃的ないしは自己破壊的な人格部分を扱うことも可能となる。またトラウマや解離性障害を治療するような特別の病棟があった場合にはなおのこと、治療効果を発揮するであろう。


2025年10月14日火曜日

家族療法の講義

 先日は某セミナーで年に一度の、家族療法に関する講義を行った。3時間(90分×2)の講義はきついが、今回は結構自分史や米国での体験を甘えの概念に絡めて話すことが出来た。あまり質問が出なくて少し焦りも感じたが、コーディネーターの中村伸一先生とのやり取りでいろいろ有意義な時間も持つことが出来た。しかしそれにしても甘えの概念。考えれば考えるほど奥が深く、興味深い。

2025年10月13日月曜日

ある「自主シンポ」に参加

 一昨日は心理臨床学会の「自主シンポ」に討論者として参加した。

「心理臨床家の養成をめぐって:育てる者と育つ者の対話から」(長谷綾子先生他)

コロナ禍を経て諸学会は、学会場での対面によるものとWEBの二本立てになり、ますます様々なプログラムが開催されるようになっている。
この自主シンポで話題になった「ワークディスカッション(WD)」はイギリス生まれの新しい試みで、症例提示に応じて参加者が自由に意見を述べ、それが第三者により評価されたり、教示を受けたりということがなく、参加者は「人によりこれだけたくさんの考えが生まれるのだ」(ただ一つの正解などないのだ)という体験を持つことが期待される。これが日本の臨床心理士や公認心理師の養成機関で活用されているのであるが、これが精神分析における乳幼児観察に発しているということが興味深い。いわばWDは集団における自由連想というニュワンスを持つわけである。
ただし日本の集団の場合、なかなか参加者がお見合いをするばかりで沈黙が流れてしまうという特徴があり、それが欧米と異なるらしいということも分かった。
今回も討論者として呼ばれることで新しいことを学ぶことが出来た。




2025年10月12日日曜日

解離症の精神療法 6

  問題はこの第2段階目である。ここでは様々な教科書が異口同音に、「トラウマワーク」が述べられる。それはそうなのだが、そう簡単ではない。これが出来ないと第3段階に行けないのではないか、という気になってしまう。しかし改めて「トラウマワーク」とは何か?それがややこしく、とても奥が深い。それを短い論文でどこまで書くことが出来るであろうか。

第2段階 トラウマ記憶の直面化、ワーキングスルーと統合

安全な治療環境が整うに従い、それぞれの人格が抱えたトラウマ記憶が語られたり、トラウマ記憶のフラッシュバックが生じるということが起きやすくなる場合がある。それらのトラウマ記憶は夢によって再現されたり、日常接するメディアや映画、小説などに触発されることもある。治療者は適切な判断をもとにそれらが再外傷体験を導かないように注意しつつ、その詳細が表現されるに任せたり、必要な勇気づけを行うことで、トラウマ記憶が徐々にナラティブ記憶に改変されることを手助けすることが出来るであろう。そしてそれによりフラッシュバックの頻度が減り、特定の人格による行動化が抑えられることにつながる可能性がある。ただしトラウマ記憶を扱う際には、人格ごとにそれについての意見が分かれたり、セッションの前後で患者が不穏になる可能性を認識すべきであろう。 なおこの第2段階でトラウマを扱うことが治療者の義務のようにとらえられることで、それが患者にとっての負担になることは避けなくてはならない。トラウマを扱うということはトラウマ記憶を抱えた人格と交流するということであり、その詳細を探る事では必ずしもないことに治療者は注意すべきであろう。


2025年10月11日土曜日

解離症の精神療法 5

 しばらくほっておいたが、着々と締め切りが近づいているこの依頼原稿。実は解離性障害の各段階のところまで来て、少し止まっている。定番のように書かれている3段階説というのが、どうもそのままでは受け入れがたい。もちろん総論(建前)として正しいのはよくわかるが、あまりに教科書的なのである。とりあえず書き出してみることにする。

● 治療の各段階

以下に主としてDID の個人療法についてISSDのガイドラインに準拠した3段階をもとにのべる。


第1段階  安全性の確保、症状の安定化と軽減

治療の初期には、何よりも安全、安心な治療関係の成立が大切である。最初は異なる人格の目まぐるしい入れ替わりが生じている可能性がある。この段階においては、患者に安全な環境を提供しつつ、表現の機会を求めている人格にはそれを提供し、それらの人格をひとまず落ち着かせることも必要となろう。治療者は患者とともに、別の人格により表現されたものを互いにどこまで共有することが出来るかについて模索する。時にはそれぞれの筆記したものを一つのノートにまとめたり、生活史年表を作成したりするという試みが有効となる。治療は週に一度、ないしは二週に一度の頻度が求められよう。なおこの段階では過去のトラウマについて扱うことにはこの段階では慎重であるべきであろう。ただしそれがフラッシュバックの形で体験されている際にはその症状の軽減のための方策は望まれる。


2025年10月10日金曜日

遊戯療法 文字化 9

 <承前>

つまりうまいフェイントは、自分の動きをコントロールでき、また相手の反応を正確に予測出来ることにより可能になる。微調整が出来るからうまくフェイントを成功させることが出来るわけである。こうして殴り合いごっこは、フェイントの応酬、磨き合いを行うことでお互いに自分自身と相手の予想の限界を確かめつつ行われ、それにより楽しく継続される。
結局じゃれ合いは楽しく予測誤差最小化のスキルを磨く絶好の機会(道具)であるということになる。

 ここでいくつかの動物どうしの戯れについて映像をお見せできれば幸いであるが、論文ではそれは無理である。しかしそこで見られるのは、遊びは小さい子供とそれと比べようがない程強大で賢い母親との間のやりとりにも胚胎している。そこではお互いに攻撃と防御を交互に行っていても、母親は決して本気で子供を傷つけることがないように自分の行動を微調整出来ているのだ。

 ある例では犬とヒヨコがお互いに信頼し合ってじゃれ合う様子が示されるが、ひよこは犬を信頼しきってその口に入るということまでやっている。そして犬はひよこを傷つけないように、口の開き加減などで高度の微調整が行われるのだ。つまりワンコの極めて高度のPEMを発揮して、自分をコントロールできているということを意味する。

 ちなみに最近の自由エネルギー原理の理論では、「予測誤差最小化」だけでなく、「程よい予測誤差」(アソび、撓(たわ)み、揺らぎ、など)の必要性や重要性が唱えられてもいる。それは「遊び(アソび)がないところに創造性や進化はないことや、「程よい量の予測誤差」こそが快感であるという点を示している。


まとめ


 精神療法における遊びの要素は、セラピストとクライエントが同じ体験を共有する「出会い」と考えられ、それを強力に支持しているのは愛着理論に基づいた精神分析家たちである。彼らはその出会いにおいては両者の脳の同期化が生じているということを強調する。脳の同期化はおそらく母子関係を通じて、さらには身体運動の、そして言葉によるじゃれ合いを通じて発揮される。(治療においてはその不足分が補充されるという意味を持つ。)脳科学的には、遊びは「予測誤差最小化」を磨き合うゲームであるといえる。

 精神療法においても他愛のない楽しいおしゃべりは、実はじゃれ合いのように予測誤差の最小化のトレーニングとなり、患者と治療者のシンクロを促進する意味があるであろう。
このように遊びによる治療には、発達論的、脳科学的な見地からも大きな可能性が秘められているのである。
 治療者はクライエントと他愛のないおしゃべりをする能力をもっと磨かなくてはならないだろう。私の本稿の最初の提言に戻るならば、「遊び心はあらゆる治療に必要な要素ではないだろうか?」「精神療法は常にプレイセラピーである」はあながち間違ってはいないと考える。

2025年10月9日木曜日

遊戯療法 文字化 8

  そしてこの最後の部分の目的は、予測誤差最小化の問題の話を回収することである。それはジャレ合いとは要するに脳の同期化のトレーニングであり、予測誤差最小化(PEM)のトレーニングの場であるということである。そこがこの発表のオリジナルな点であると自負している。

PEM(予測誤差最小化)とは?

 そこでまずPEMの持つ意味についておさらいしたい。脳どうしのシンクロとは、互いが相手の動きを予測し合うことを通して生じる。母親の心が音叉なら、子供は自分の音叉を差し出すだけで、自然と共鳴が起きるかもしれない。でも学習のプロセスはそうではない。常に相手の反応を予測しては、現実と照合して微修正をしていくという形でしかシンクロは成立しない。

 例えば自分が体を使うとか言葉を話すということを考えればわかるように、ものをつかめるようになるためには、「このくらいの方向で手を伸ばしてこのくらいの力でつかめばいいだろう」という予想をすることから始まる。しかし最初はうまく行かずに失敗をし、それを微修正していく。
言葉を話すのも同じであり、パパ、と言おうとしてもママと言ってしまい、パパ、だよ、と言われて修正する。この時も自分の出す声を予測しているからこそ、間違いに気がつく。他者とシンクロするためにも、子供はその実験台としての母親の反応を常に予測している。そして母親がその通りに振舞ってくれることで、子供は自分の母親への働きかけが予測通りの効果を生むことを知る。にっこり笑いかけた時に、母親も笑いかけてくれることを予測する。そしてその通りに母親が笑顔で返すことで、母親に笑いかけるという自分の行為の正しさを赤ん坊は確認するというところがある。

 そこで私の中に生まれたのが、「じゃれ合いは脳の同期化と関係しているのではないか?」というアイデアである。しかしこれは一見直観に反するのではないだろうか。なぜなら同期化はお互いに予測誤差を最小化することにより達成される。ところがそうして達成されたは同期化はある種の定常状態とみなせるようにも思える。他方じゃれ合い遊びでは、むしろ「意外性」であり、相手の予測を外すことにより楽しみが増すのであり、同期化と目指すところは逆であろう。
 しかし相手の予測を微妙に外すことは、むしろPEMを鍛えることにより成り立つのではないかということだ。以下に順を追って思考実験をしてみる。
 殴り合いごっこは、常に相手の予想を適度に裏切ることでスリルと興奮を味わうことが出来る。
 相手からの軽めのパンチの方向が予想出来、それを容易に避けることが出来、こちらからも相手が予想しやすいような軽めのパンチを繰り出す ←すべてが予想通りだとマンネリ化して面白くない。しかし相手が予測できない強力なパンチを繰り出すと、流血の事態になり、遊びは強制終了となる。だから軽く相手の予測を裏切るようなパンチが一番スリルがあり、楽しい。そこで互いに「本気で殴り掛かるふりをして、微妙に逸らす」とか「正面から殴り掛かるふりをして寸止めする」などのフェイントを行うことで、相手の予測を微妙に外し合うことになる。

でもそうできるためには、お互いに自分の体の動きをうまくコントロールでき、また相手の動きをうまく予想できなくてはならない。