2025年8月24日日曜日

男性の性愛性の問題 推敲 3

  「男性の豹変」の問題の特徴を一言でいうと、通常は理性的に振る舞う男性が、それを一時的に失わう形で生じるということである。しかし私たちが時折理性を失う行動に出てしまうことは、他にもたくさんある。酩酊して普段なら決してしないような暴行を働いたりする例はいくらでもある。しかしこれはそれが予測出来たらふつうは回避できるはずだ。

 ところが酒がやめられないアルコール中毒症の人だったり、ギャンブル依存の人なら、ちょっと酒の匂いをかいだり、ポケットに何枚かの千円札を見つけたりしただけでも、すぐにでも酒を買いに、あるいは近くのパチンコ屋に走るだろう。彼らはごく些細な刺激により簡単に理性を失いかねないのだ。ただしこれらの場合は、彼らがアルコール依存症やギャンブル依存という病気を持っている場合だ。つまりは②に相当する。そして一見健康な男性の豹変問題は、それとは異なる、と私はこれまで述べてきたのだ。

 ここで「男性の豹変」の一つの重大な特徴を述べるならば、それはいったんその満足を追求しだすと加速していくということだ。そしてそれを途中で止めることは難しい。これは飲酒やギャンブルと大きく違うところだろう。例えば酒なら、飲めば飲むほど「もっと!もっと!」というわけではない。私は下戸なのでこの体験をしたことがないが、たぶんそうだと思う。いい加減に酔えば「まあ、このくらいにしよう」となるのが普通ではないか。かなり深刻な飲酒癖を有する人も、大体飲む量は決まっている。もちろん生理的な限界ということもあり、そもそも血中濃度が増してアルコール中毒状態になり意識を失なえば、もうそれ以上酒を飲み続けることはできなくなる。でもそうなる前に酔いつぶれて寝てしまうのが普通なのだ。
 ではギャンブルはどうか。これも最後にオーガズムに達するということはない。ではだんだん使用量が増えていくコカインなどはどうか。これは同じ量の満足を与えてくれるコカインの量が増えていくといういわゆる耐性という現象だが、一定の量を使い、最終的にオーガスムに達するまで止められない、というわけではない。そして一定の使用量を超えると失神や呼吸困難に至り、その先に死が待っている。

 ところが男性の豹変は、いったんオーガスムに向かって突き進んだ場合に抑えが効かなくなるということと関係しているようである。一体どうなっているのだろうか。それが後に述べるポジティブフィードバックとしての性質である。

(以下略) 

2025年8月23日土曜日

精神分析と分析的精神療法のはざまで 2

 さて精神分析の目的そのものには疑いをさしはさむ余地はないと思いますが、現代に生きる私たちはこの精神分析をめぐって大きな問題を抱えています。それは大きく2つあると思います。 ①どのようにしてクライエントが「自分の無意識を知ること」を援助出来るのか、という方法論の問題。 ②クライエントが「自分の無意識を知ること」を何よりも求め、私たちのもとに来るのかという問題。  まずは①の方法論についての問題です。これまで提唱されてきた精神分析の治療法は、頻回にセッションを持ち、そこでは治療者は基本的には受け身的な姿勢を保ち、患者の自由連想を促し、それに対して主として解釈的な関わりを行うというものです。これを精神分析における「基本原則」と呼ぶことが出来るでしょう。  そもそもこれはフロイトが精神分析について語りだした当初から提唱したことであり、それは彼自身が催眠療法との訣別の中で生まれたやり方です。そして精神分析の主流に属する分析家たちはこれに対して特に異議を挟むことがなく、半ば無条件に受け入れてきたことです。ただし最近になり様々な考え方が精神分析の内部にも生まれるに至り、この方法論に懐疑的な見方もされるようになっています。その一つの理由は、この「基本原則」に従ったやり方がセラピストにもクライエントにも多かれ少なかれ心の負荷を与えるからでしょう。  週4回という頻度でセッションを行うことの時間的、経済的なコスト以外にも、セラピストがほとんど黙ったままで反応性に乏しいという状況がクライエントにとって必ずしも居心地が良くないということは否めないでしょう。クライエントの無意識を知ることという目標は動かなくても、それを達成するための他の、もう少しインターラクティブな方法もあるのではないかと考えても不思議ではありません。

②クライエントが「自分の無意識を知ること」を何よりも求め、私たちのもとに来るのかという問題。
 この問題も非常に込み入っています。それはクライエント自身が、自分が何を求めて来談しているかがしばしば不明だからです。セラピストの方は、自分たちのもとに来たクライエントは自分の無意識を知りたいんだ、と考えがちです。なぜなら彼らはフロイトの本を読んでそれが精神分析というものであり、自分の無意識を知ることは本質的なテーマであり、非常に重要だと考えるという一種のバイアスを持っているからです。
 これは実は精神分析について特に教えを受けていなくても、比較的容易に肯定される考えかも知れません。人々は無意識という言葉をよく知っていますし、「無意識的に~思っていたから~と言ってしまった」などの表現を日常的に用いているはずです。すると無意識を解明することは、自分の心の秘密を知るカギであり、自分の抱えた問題を根本的に解決する手段であると考えることにさほど抵抗はない方が多いでしょう。
 ところが私は臨床経験からほぼ確信を持っているのですが、多くのクライエントはある種の心の痛みや悩みを解決したいという思いから精神療法やカウンセリングを受けるのです。むろん自分自身の心に興味を抱き、「自分を知りたいから」という思いで治療を求める人もいますし、自分が分析家になるためのトレーニングとして分析を受けるという立場のクライエントの場合は別です。
 しかしこれらの例外を除けば、クライエントは精神分析の方法論についても知らず、悩みや苦しみを解決ないし軽減してもらうことを前提としてセラピストのもとを訪れるでしょう。そしてもしセラピストが「この治療は精神分析的に行うのであり、その目標は自分自身(の無意識)を知ることである」という教示を与えても、クライエントは、それが結局は自分の苦しみや悩みの解決につながるはずだと思い、とりあえず精神分析的な治療を開始するでしょう。その際にセラピストが非常に受け身的であり、様々な質問を投げかけてこないことに特に違和感を感じることなく、「精神療法とはこういうものだ」と思いつつ治療を続けるでしょう。


2025年8月22日金曜日

FNDの世界 推敲 4 

 言うまでもないことだが、FNDの”F”は機能性 functional であり、器質性 organic という表現の対立概念であり、検査所見に異常がない、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。変換症(転換性障害)と呼ばれてきた疾患も、時間が経てば、あるいは状況が変われば機能を回復するという意味では機能性の疾患といえる。だからFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。
 またFNDの”N”すなわち神経症状 neurologicalとは、神経症症状との区別が紛らわしいので注意を要する。ここでの神経症状とは通常は脳神経内科で扱うような症状、例えば手の震えや意識の混濁、健忘などの、知覚、感覚、随意運動などに表われる異常である。変換症が示す症状はこれらの知覚、感覚、随意運動などに表われる異常であることから、それらは神経症状症と呼ぶことが出来るのだ。それとの対比で神経症症状 neurotic symptoms とは、神経症 neurosis の症状という意味であり、不安神経症、強迫神経症などをさす。
 ところで以上述べたのはDSM-5における変換症 conversion という疾患についてであるが、変換(転換)という呼び方そのものを廃止しようという動きは、2022年の ICD-11の最終案ではもっと明確に見られた。こちらでは変換症 conversion という名称は完全に消えて「解離性神経学的症状症 Dissociative neurological symptom disorder」という名称が採用された。これはDSMにおける機能性 functional のかわりに解離性 dissociative という形容詞が入れ替わった形となるが、実質的にFNDと同等の名称と言っていいだろう。
 この conversion という表現の代わりにFNDが用いられるようになったことは非常に大きな意味を持っていた。その経緯を以下に示そう。

 なぜ conversion (変換、転換)が消えていくのか?

 DSM-5においてなぜconversion (変換、転換)という言葉そのものについて問い直すという動きがあったのだろうか? これについてはFNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone の論文(2010)を参考に振り返ってみる。本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味で、この言葉を用いた。ちなみにFreud が実際に用いたのは以下の表現である。「ヒステリーでは相容れない表象のその興奮量全体を身体的なものへと移し変えることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したい。」(Freud, 1894)
 しかし問題はこの conversion という機序自体が Freudによる仮説に過ぎないのだと Stone は主張する。なぜなら心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからだという。もちろん心因が常に意識化されているとは限らず、心因が存在しないことを証明することも難しいが、その概念の恣意性を排除するという意味でもDSM-5においては conversive disorder の診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのである。
 

<以下省略>

2025年8月21日木曜日

精神分析と分析的精神療法のはざまで 1

 多くの分析的療法家たちが、「本来の」、週4回以上のカウチを用いた治療が出来ないことに後ろめたさを感じています。その問題をどう考えるべきでしょうか? 「精神分析こそ本質的である。精神療法はそれを水増ししたものに過ぎない」という考えに私たちはなぜこれほどまでにさいなまれるのでしょうか。かくいう私もそうです。そして療法家たちと同様の悩みを持ちます。私は分析家で週4回以上も経験しているが、それでも「自分はその道をはたして本当に極めたと言えるのか」などと考えてしまうのです。本当にフロイトは罪作りな人です。私たちはよく、精神分析の本質は何か、と自分たちに問いかけます。それは精神分析ないしは精神分析的療法の本質は何か、ということです。そしてそれについて私たちは仮の答えを用意できているようです。それは「自分を知ること」なのです。私もさすがにこれにはまったく異存はありません。なにしろそれはフロイトが精神分析の定義として示したことですし、自分を知ることの意義深さを誰も疑わないと思います。 ただしフロイトは「自分を知ること」と言わずに「自分の無意識を知ること」としました。そしてそれは自分の真実を知る事には様々なネガティブな感情が伴うため、私たちは通常はそれを抑圧しているのだとフロイトは考えたわけです。そしてそれ以来私たちは精神分析について論じる際はそのような考え方を前提としていることになります。ちなみに私はここで「抑圧」という概念を用いましたが、私たちが通常はあることを意識化できない時に、そこに働くのがフロイトが考えた抑圧だけとは限らないでしょう。でも私たちは精神分析の文脈ではこの抑圧という考え方を主として用いているのは確かです。 さて精神分析の目的そのものには疑いをさしはさむ余地はないと思いますが、現代に生きる私たちはここに大きな問題があります。そしてこちらの方がより私たちにとって重要な意味を持っているかもしれません。それは大きく二つあると思います。

2025年8月20日水曜日

男性の性愛性の問題 推敲 2

  次に②の性依存についてである。こちらの場合それを満たすパートナーは不在である場合がほとんどだろう。一日中オーガスムを追い求めることを止められない男性の相手を務められるパートナーなどは普通は存在しない。したがって性依存はそのままポルノ依存などで問題となる。つまり他人を巻き添えにすることはそれだけ少なくなり、自分で苦しみ、その結果として家族なども巻き込むことになる。(ただし金銭的な問題が発生しにくいことは、ギャンブル依存などとは違うところだ。ただし毎日の風俗通いを止められないという場合には別であろう。)

 さてこの性依存ないしは性依存症は、それが一つの疾患としてどの程度認定されているかについてはいろいろ議論がある。いちおうWHO発行のICD-11(2022年)には、CSBD(compulsive sexual behavior disorder 強迫性性行動症)として記載されている。ところがもう一つの世界的な精神科の診断基準であるDSM-5にはそのような病名の記載はない。巷で言われる性依存の状態は、通常の依存症、すなわち薬物やギャンブルや買い物などの依存症と同類に扱うことが出来ないというのがDSM-5の立場なのである。  以上二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である「一見普通の男性の起こす性加害行為」(以下は「男性の豹変」の問題と略記しよう)とこれらは関係しているのだろうか?私の見解としては、この問題は①,②に関連はしているが、別の問題であるということであり、新たに③として、つまり別項目として論じなくてはならないのである。

 この「男性の豹変」の問題は、①②と異なり、おそらく病理とは言えない(あるいは普通はそう扱われない)という事情があるが、それはもっとなことだろう。何しろそこには多くの場合一見健康で普通の社会生活を送っている、そして特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっているからである。(もちろん、中居くんや山口くんや松本くんが、普通の人の仮面をかぶった犯罪者性格であったと主張する場合には、この限りではないが、私は彼らは少なくとも普通、ないしはさらに善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。)
 しかしこの「男性の豹変」は社会に大きな問題を引き起こし、また数多くの犠牲者を生み出している問題であり、しかもこれまで十分に光が当てられてこなかったのである。一見普通の人が起こす問題だけに、私たちにとって一種の盲点になっていたのだろうか。
 臨床で出会う性被害の犠牲者たちがしばしば口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性からの被害にあってしまったという体験である。そしてそれだけに心の傷も大きい。信頼していた人からの裏切りの行為は、見ず知らずの他人による加害行為にも増して心に深刻なダメージを及ぼすというのは、トラウマに関する臨床を行う私たちがしばしば経験することである。
 この「男性の豹変」を回避し、再発を防止する方法は決して単純ではない。通常の危険行為に関しては、危険な場所、危険な人との接触を避けることに尽きる。しかし「一見普通の男性」を回避するのに同じロジックは成り立たない。何しろそれは職場の上司や同僚として、あるいは指導教官や部活の先輩として、それこそ身の回りのいたるところにいるのだ。それらの人々との接触を避けるとしたら、それこそ学生生活や社会生活を満足に送ることが出来なくなってしまうだろう。ここにこの問題の深刻な特徴があるのだ。

2025年8月19日火曜日

FNDの世界 推敲 3

 ヒステリーの外傷説の火付け役だったシャルコー

ヒステリーに対する上記のような偏見を取り去り、それを医学の土俵に持ち込んだのが、シャルコーだったことについては異論の余地はない。シャルコーはそれまでに様々な神経疾患に関する業績を残したすぐれた臨床観察を行う研究者でもあったが、1962年にパリのサルペトリエール病院の「女性けいれん病棟」を担当したことが大きな転機となった。そのころのけいれん発作が脳波異常を伴ったてんかんによるものか、ヒステリー性(すなわち解離性)のものかを区別する手立てはなかったが、シャルコーはそれらを一律に説明する概念としてヒステリーの大発作という概念を提出した。そしてこの大発作が四つの段階(「類てんかん期」「大運動発作期」「熱情的態度期」「譫妄期」)を示すと考え、それを詳細に記載したのである。こうすることでヒステリーのさまざまな症状は、この大発作の部分的な現われや亜系であると説明することが出来たのである。しかし先程も述べた事情から、サルペトリエールの観察対象にはてんかん患者を混入させていた可能性が高かったため(Webster, 1996)この病型を分類することにどのような意味があったかは不明である。さらには彼の臨床講義に出て様々なヒステリー症状をでモンストレートする患者の中には、あらかじめ病棟でいろいろ指導や打ち合わせをして症状を演じていたということがわかったことである(Ellenberger, 1979)。
 シャルコーは「催眠は身体的な現象である」と述べたが、彼の客死後は忠実だったババンスキーも(いわゆる「バビンスキー反射」で有名なフランスの神経学者である)、師の神経学的な業績のみ受け継ぎ、催眠については暗示によるものであり、一種の詐病と一緒だ、という論文を書くようになったということである。
現在の観点からシャルコーのヒステリーに関する臨床研究を振り返った場合、そこにあったひとつの過ちは、シャルコーがヒステリーを自分の専門の神経学に属する疾患として整理し理解しようとしたことになるが、現在のFNSの概念の見直しの趨勢を見ると、それを神経疾患と見なそうとしたシャルコーにもそれなりの先見の明があったと考えることもできるだろう。ただし問題はところがヒステリーや解離性障害の場合、それはあまりにたくさんの表現形態をとり、どれか一つに絞ることは出来ない。極めてアモルファスでとらえどころのない病気といえるのだ。しかも解離症状は一種のブランクスクリーンのような性質を持ち、たとえば目の前の治療者が、「あなたは~という症状を示すはずである」と示唆した場合にはそれを実現してしまいかねないところがある。つまり患者はシャルコーが「これがヒステリーのあり方だ」と結論付けたものをそのまま示して見せたという可能性が高いわけだ。それがヒステリーの有する被暗示性の表れであり、この疾患の本質であるということにシャルコーは気がつかなかったのである。

このような批判はあっても、シャルコーがヒステリーの研究に非常に大きな貢献をしたことも確かである。例えばシャルコーはヒステリーは女性特有のものではなく、男性についても起きることを、実際に男性の患者を供覧することにより示した。またシャルコーは、ヒステリーが心的外傷一般、すなわちたとえば思春期以前の性的外傷によっても、そのほかの外傷(鉄道事故とか、はしごからの転落事故など)に対する情緒的な反応によっても起きることを主張したとされる。そしてこのヒステリーの外傷説が、フロイトの理論形成に大きな影響を与えたのである。ただしそれでもシャルコーはある意味ではヒステリーに関する俗説をそのまま引き継いでいるというところも否めなかった。そしてこれもフロイトが引き継いだ部分でもあった。

新時代の解離性障害及びFND

さてここまではもっぱらヒステリーについて論じてきたが、これは1980年代以降は「解離性障害」という名前になる。その意味では解離性障害 dissociative disorder」という診断名の歴史は意外に浅いのである。精神医学の世界で解離性障害が市民権を得たのは, 1980年の米国におけるDSM-IIIの発刊が契機であることは,識者がおおむね一致するところであろう。「解離性障害」がいわば「独り立ち」して精神科の診断名として掲載されたのは,この時が初めてだからだ。しかもややこしいことに、ここにFNDに該当するものは含まれず、実は今でもDSMではFNDは解離性障害に入らないという事態が続いている。
 むろん用語としての「解離 dissociation 」は以前から存在していた。1 952年のDSM初版には精神神経症の下位分類として「解離反応」と「転換反応」という表現が見られた。1968年のDSM-IIにはヒステリー神経症(解離型転換型)という表現が存在した。ただしそれはまだヒステリーという時代遅れの概念の傘の下に置かれていたのである。さらに加えるならば. Jean-Martin Charcot, Pierre Janetらが解離概念を提唱し,フランス精神医学において一世を風廃したのは19世紀のことであった。しかし彼らは精神医学の教授ではなかった。大学の精神医学においては解離は外形的な言動と子宮との根拠のない関連を推測してヒステリーと分類されており.これが上述のDSM-1, 11にも引き継がれていたのである。
しかしDSM-III以降. DSM-III-R (1987), DSM-IV (1994), DSM-5(2013)と改定されるに従い,解離性障害の分類は.少なくともその細部に関して多くの変遷を遂げてきた。またDSMに一歩遅れる形で進められた世界保健機榊(WHO)のICDの分類においても,同様の現象が見られた。そして同時にヒステリーや解離の概念にとって中核的な位置を占めていた「心因」や「疾病利得」ないしは「転換」などの概念が見直され、消えていく動きがみられる。
 世界的な診断基準であるDSM(米国精神医学会)とICD(国際保健機構)は,精神疾患一般についての理解や分類に関してはおおむね歩調を合わせつつある。そしてそれにともない従来見られた解離性障害と統合失調症との診断上の混同や誤診の問題も徐々に少なくなりつつあるという印象を持つ。
 ただし従来の転換性障害を解離性障害に含めるかどうかについては顕著な隔たりがある。すなわちDSMでは転換性障害は、「身体症状症」に分類される一方では、ICD-11では解離症群に分類されるのである。

変換症を身体症状症に含めるという方針はDSMでは1980年のDSM-III以降変わってはいないが2013年のDSM-5において、この名称の部分的な変更が行われたことは少なからぬ意味を持っていた。すなわちDSM-5では「変換症/転換性障害(機能性神経症状症)」(原語ではconversion disorder (functional neurological symptom disorder)となった。つまりカッコつきでFNDという名前が登場したのである。
 さらに付け加えるならば、10年後の2023年に発表されたDSM-5のテキスト改訂版(DSM-5-TR)では、この病名が「機能性神経症状症(変換症)」となった。つまりFNDの方が前面に出る一方では「変換症」の方がカッコ内に入るという逆転した立場に追いやられ、さらに「転換性障害」という言葉は「癲癇」との混同の懸念もあって削除されてしまったのである。
 こうして転換性障害は正式な名称からもう一歩遠ざかったことになるのだ。そして将来発刊されるであろう診断基準(DSM-6?)では「転換性障害」どころか「変換症」という名称も消えてFNDだけが残されるのはほぼ間違いないであろう。かくしてFNDが登場することとなったのである。

2025年8月18日月曜日

解離症の精神療法 2

 現病歴を聞く

解離症の現病歴は、社会生活歴との境目があまり明確でないことが多い。通常は現病歴は発症した時期あるいはその前駆期にさかのぼって記載されるが、それが幼少時のトラウマ体験に関わっている場合には、すでに物心つくころには症状の一部は存在している可能性がある。それらは幻聴であったり異なる人格の存在を感じ取る体験であったりするだろう。ただし通常は現病歴の開始を、日常生活に支障をきたすような解離症状が始まった時点におくのが妥当であろう。
 解離症の現病歴を聴きとる際に特に注意を払うべきなのは記憶の欠損である。
 患者に記憶の欠損の有無を問うことは、精神科の初診面接ではとかく忘れられがちであるが、その有無が解離症の存在の決め手となることが多い。人格の交代現象や人格状態の変化は、しばしば記憶の欠損を伴い、患者の多くはそれに当惑したり不都合を感じたりする。しかし患者も周囲もそれを「もの忘れ」や注意の散漫さに帰することが多い。面接者の尋ね方としては、「一定期間の事が思い出せない、ということが起きますか? 例えば昨日お昼から夕方までとか。あるいは小学校の3年から6年の間の事が思い出せない、とか。」「知らない間に自分が遠くに行ってしまったことに気が付いたことはありませんか?」等の具体的な問いを向けるのが適当であろう。
 交代人格の存在に関する聴取はより慎重さを要する。多くの DID の患者が治療場面を警戒し、交代人格の存在を安易に知られることを望まないため、初診の段階ではその存在を探る質問には否定的な答えしか示さない可能性もある。他方では初診の際に、主人格が来院を恐れたり警戒したりするために、かわりに交代人格がすでに登場している場合もある。診察する側としては、特に DID が最初から強く疑われている場合には、つねに他の人格部分が背後で耳を澄ませている可能性を考慮し、彼らに敬意を払いつつ初診面接を進めなくてはならない。「ご自分の中に別の存在を感じることがありますか?」「頭の中に別の自分からの声が聞こえてきたりすることがありますか?」等はいずれも妥当な質問の仕方といえるだろう。

自傷行為については、それが解離性障害にしばしば伴う傾向があるために、特に重要な質問項目として掲げておきたい。「カッティング」(リストカットなど自傷の意図を持って刃物で自分の身体を傷付ける行為の総称)は、それにより解離状態に入ることを目的としたものと、解離症状、特に離人体験から抜け出すことを目的でとしたものに大別される(岡野、2007)。いずれの目的にせよ、そこに痛覚の鈍磨はほぼ必ず生じており、その意味ではカッティングは知覚脱失という意味での転換症状の存在を前提としていることになる。

 転換性障害を疑わせる他の身体所見にも注意を払いたい。感覚や運動症状が突然生じては止み、脳神経内科的な所見がみられない場合などは特にその可能性がある。視力喪失、失声、手足の一時的な麻痺等は、ストレスに関連してしばしば聞かれる。
 なお解離症の存在をより詳しく知るためには 患者にDES(解離体験尺度)を記入してもらうことも有用であろう。それ以外にも知覚の異常、特に幻聴や幻視があるかどうかも解離症の診断にとって重要な情報となる。その際幻聴が人生の早期から生じていたり、その声の主を本人がある程度同定できることは、それが解離性のものであると判断する上で比較的重要な手がかりとなる。また幻視は統合失調症では幻聴に比べてあまり見られないが、解離性の幻覚としてはしばしば報告される。それがイマジナリー・コンパニオン(想像上の遊び友達)のものである場合、その姿は外界の視覚像として体験される場合もある。

生育歴と社会生活歴

解離症の多くに過去のトラウマや深刻なストレスの既往が見られる以上、その聞き取りも重要となる。特にDID のように解離症状がきわめて精緻化されている場合、その症状形成に幼少時の深刻な体験が深く関連している可能性がある。ただしトラウマの体験やその記憶は非常にセンシティブな問題を含むため、その扱い方には慎重さを要する。特にDID において幼少時の性的トラウマをはじめから想定し、いわば虐待者の犯人探しのような姿勢を持つことは勧められない。またDID において面接場面に登場している人格部分が過去のトラウマを想起できない場合や、家族の面接からも幼少時の明白なトラウマの存在を聞き出せないこともまれではない。さらには幼児期に何が甚大なインパクトを持ったストレスとして体験されるかは、大きな個人差がある。繰り返される両親の喧嘩や、親からの厳しい叱責や躾けが、深刻なトラウマを形成することもしばしばある。
 成育歴の聞き取りの際には、そのほかのトラウマやストレスに関連した出来事、たとえば家族内の葛藤や別離、厳しい躾け、転居、学校でのいじめ、疾病や外傷の体験等も重要となる。その当時から想像上の友達が存在した可能性についても聞いておくとよいであろう。

2025年8月17日日曜日

解離症の精神療法 1

 本稿は解離症の精神療法というテーマで論述を行う。ここで扱う精神疾患は機能性神経症状症 functional neurological disoder または変換症 conversion disorder (以下FND) を含む解離症一般であるが、その中でも解離性同一性症 (dissociative identity disorder、以下DID)、解離性遁走( dissociative fugue、以下DF)については臨床上の特異さもあり、特に詳しく論じることにする。

1.解離症の患者との初回面接

 最初の声かけ

精神科医が一般の臨床で実際に出会うことは決して少なくない。しかしまだ解離症についての精神科医の認知度は高いとは言えず、見逃されるケースも少なくない。解離症の初回面接においては、患者は自分の訴えをどこまで理解してもらえるかについて不安を抱えていることが多い。面接者は患者にはまず丁寧にあいさつをし、初診に訪れるに至ったことへの敬意を表したい。DIDの患者は多くの場合、すでに別の精神科医と出会い、解離性障害とは異なる診断を受けている。またそのような経験を持たなかった患者も、その症状により周囲から様々な誤解や偏見の対象となっていた可能性を、面接者は念頭に置かなくてはならない。
 解離症の患者が誤解を受けやすい理由は、解離(転換)の症状の性質そのものにあると考えられる。DIDのように心の内部に人格部分が複数存在すること、一定期間の記憶を失い、その間別の人格としての体験を持つこと、あるいは転換性障害のように体の諸機能が突然失われて、また回復することなどの症状は、私たちが常識的な範囲で理解する心身のあり方とは大きく異なる。そのためにあたかも本人が意図的にそれらの症状を作り出したりコントロールしたりしているのではないか、それにより相手を操作しようとしているのではないか、という誤解を生みやすい。そして患者はそのように誤解されるという体験を何度も繰り返す過程で、医療関係者にさえ症状を隠すようになり、それが更なる誤解や誤診を招くきっかけとなるのだ。
 初診に訪れた患者に対してまず向けられる質問は、患者の「主訴」に相当する部分であろう。筆者の経験ではそれは「物事を覚えていない」「過去の記憶が抜け落ちている」などの記憶に関するものが多い。それに比べて「人の声が聞こえてくる」「頭の中にいろいろな人のイメージが浮かぶ」などの幻覚様の訴えは、少なくとも主訴としてはあまり聞くことがないが、これも解離症の存在を示す重要な訴えである。

2025年8月16日土曜日

男性の性愛性の問題 推敲 1

 今回の対談と同時並行的に様々な文献に当たりつつ思ったのは、男性の性の問題は複雑多岐であり、かなり込み入った問題であり、その多くは解明されず、語られることは少ないということである。そしてこの「一見普通の男性の豹変」の問題はほとんど論じられてこなかったということだ。

すこしここで問題を整理してみたい。男性の性の問題は精神医学の世界でももちろん議論の対象となっていることは確かである。その点は確認しておきたい。それは一種の精神障害としてとらえられ、概ね二つに分類される。それらは①パラフィリア(性嗜好異常)、②性依存の二つである。
先ず①に関しては以前は性倒錯という呼び方が一般的であったが、1980年のDSM-III以降 paraphilia パラフィリアという呼び方に代わった。(para = deviation philia attraction という意味)それは「倒錯 perversion」という呼び方が有する差別的な含みが問題とされた結果である。パラフィリアは性的な興味が通常とは異なる行為や対象に向かうことであり、露出症、フェティシズム、窃触症、小児愛、性的マゾヒズム、性的サディズム、服装倒錯的フェティシズム、窃視症などが挙げられる。これらは極端に男性に偏る傾向にあり、おそらく男性の性愛性の持つ何らかの特徴に関係していると思われる。

このパラフィリアは性加害とどのように関係してくるかはケースバイケースといえよう。つまり本来のテーマである「一見普通の男性の起こす性加害行為」にも関係してくる可能性がある。なぜならこれらは多くは異性を対象としたものであり、そこに相手の了解が得られずに衝動的に行われる可能性が高いからである。(たとえば相手に合意を得た上での露出行為や覗き、という行為が考えにくいという風に。)


2025年8月15日金曜日

FNDの世界 推敲 2

 さてヒステリーに関する精神医学の歴史をひも解く、ということになるが、これを純粋に精神医学の歴史上のあり方として切り分けることは簡単ではない。というのも昔から精神科と神経内科 (neurology、最近では脳神経内科という表現が一般的) は混然一体になっていた。ちょうどヒステリーについて現代的な医学の立場から唱え始めたシャルコーは神経学者だし、それを引き継いだフロイトやジャネは精神科医だったが、フロイトは元々は神経解剖学者だったという風にである。さらには病理学者(解剖をして顕微鏡で調べる学者)と臨床医の区別も漠然としていた。

 さらに問題となるのは、シャルコーやフロイト以前に「精神医学」が本来あるべき姿として存在したのか、という点である。よく知られているように、ヒステリーは子宮遊走によるという説が、ギリシャ時代からあったとされるが、これはそもそも「学問」的な理解なのかということも疑わしくなる。
 ヒステリーは人類の歴史のかなり早期から存在していた可能性がある。その古さはおそらくメランコリーなどと肩を並べるといってもいい。ヒステリーに関する記載はすでに古代エジプトの時代すなわち紀元前2000年ごろには存在していたとされるのだ。

紀元前5世紀には古代ギリシャの医聖ヒポクラテスがヒステリーを子宮の病として記載している。そもそもギリシャ語の「ヒステラ」(Gk. Hystera)「子宮」を意味することは広く知られている。かの哲学者プラトンもまた、ヒステリーについて次のように記載している。「子宮は体の中をさまようことで、行く先々で問題を起こす。特に子宮が丸まって胸や器官に詰まってしまった場合は、それが喘ぎや息苦しさを引き起こす。」「この病は子宮の血液や汚物の鬱滞のせいであり、それは男性の精巣から精子を洗い出すのと同じようにして洗い流さなくてはならない。」(Maines, 1998, p.24

同じく古代ギリシャの医学者のガレノスは、紀元一世紀になりヒステリーについての理論を集大成した。それによるとヒステリーは特に処女、尼、寡婦に顕著に見受けられ、結婚している女性に時折見られることから、情熱的な女性が性的に充足されない場合に引き起こされるものであるとされた。ヒステリーのこのような扱われ方は、主としてヒステリーの持つドラマティックな身体症状が人々の注目を集めていたからであると考えられる。「子宮が体中を動き回る」ことによって引き起こされていたのは、主として身体面の様々な症状だったのである。

Maines, R.P. (1998). The Technology of Orgasm: "Hysteria", the Vibrator, and Women's Sexual Satisfaction. Baltimore: The Johns Hopkins University Press

岡野憲一郎(2011)続・解離性障害 岩崎学術出版社

ガレノスは非常に具体的な治療法について書いている。それによると治療とは既婚女性は性交渉を多く持つこと、そして独身女性は結婚すること、それ以外は性器への「マッサージ」を施すこと(これは今で言う性感マッサージということになるのだろう)と記載されている。驚くことにこの治療法がそれから二十世紀近くまで、すなわちシャルコーの出現まではヒステリーの治療のスタンダードとされるのだ(Lamberty, 2007))。にわかには信じがたい話である。
Lamberty, G.J.(2007) Understanding somatization in the practice of clinical neuropsychology. Oxford University Press.

ガレノスの説がこれほど長く続いたということは、それが当時抱かれた「ヒステリー」というイメージの本質に迫った説明の仕方であったことを示唆している。その一つの特徴は、それが事実上子宮を有する女性にのみ限定される病気であるとみなされたことである。そしてそれは従来社会でまた女性が直面していたタブーとも関係していた可能性があるのだ。 一般的に文明が未発達であからさまなタブーが存在する社会においては、解離性の症状が一種の社会現象の形を取りやすい。文明の恩恵をまだ十分に受けていない文化において、さまざまな形での文化結合症候群が見出されてきたことは周知の通りである。そして女性の性愛性について語ることは、おそらく長年社会における最も大きなタブーのひとつであった可能性がある。ヒステリーを女性の性の抑圧と結びつける傾向もそれらの事実と関連があるものと思われる。
このヒステリーに関する理論の中で特に興味深いのが、男性との性交がその症状を軽減する、という考え方である。再び好著「オーガスムのテクノロジー」の記載から17世紀の医学者による同様の記載も引用しよう。
「妻たちは処女や寡婦たちより健康状態がいい。なぜなら彼女たちは男性の種と自らの分泌物によりリフレッシュされる。それにより病気の原因が取り去られるのだ。それはヒポクラテスの言葉のとおりである。」(Nicolaas Fonteyn, 1652)(Maines, 1998, p29)
今の時代からはとても考えられないことではあるが、当時はそれがまことしやかに考えられていたのだ。そして私はそこには男性の側のファンタジーが明白な形で介在している可能性があると考える。つまり「女性は常に男性との性的なかかわりを望んでいる」という男性の側の願望ないしは論理が、結果的にヒステリーに関するこのような間違った観念を存続させていたとも考えられるのではないか?
ちなみにこれから検討するフロイトの理論がしばしばさらされていた批判、すなわちあまりに性欲説に傾いているという批判も、実はヒステリーに関して長く信じられていた理論を考えればある程度納得できるものではないかと思われる。たとえばフロイトが治療した症例ドラ(Freud, 1905)は、後にフロイトの不適切なかかわりについて批判される際にしばしば用いられるケースとなった。特にフロイトがドラに関して下した判断、すなわち彼女が実はMr.Kに対して向けていた性的な願望を抑圧していたためにそれがヒステリー症状に表れていたという下りは不興を買っている。しかしこのような考えは、実はヒステリーに関して十数世紀にわたって信じられてきたことを図らずも踏襲した理論に過ぎなかったともいえるのである。つまりはフロイトだけがとんでもなく極端というわけでもなかったのだ。
さて話の順番としてはここからシャルコーの話になるわけだが、シャルコーについて振り返っておくことは、それに引き続いて起きたジャネとフロイトの因縁の対立を理解する上で必要となる。ある意味ではジャネとフロイトという二人の人間のすれ違いが、そのまま精神分析と解離理論とのすれ違いの原因となったとも考えられるのだ。またそれが心理学にそれだけの幅と深みを与えた、と考えることもできるかもしれない。そこでこれを探ってみたいと思う。

2025年8月14日木曜日

対談を終えて 9

なんだか強迫との関連で深みにはまってしまったようだが、嗜癖のように元に快感が伴った場合は、ドーパミンのメゾリンビック(中脳辺縁)系で、強迫のようにそもそも快感がなかった場合には、メゾコルコルチカル(中脳皮質)系が関係しているということだ。性依存のように、もはや快感が伴わない場合には、それはいよいよ強迫に近付く、と考えていいだろう。
ここで忘れないうちに、この問題と男性のどうしようもなさとの関連について書いておこう。Toates の言うように、男性の性がsystem 1 とsystem 2 で成立しているということは、「男性はデフォルトが性的満足を得ることを我慢している存在」ということになる。つまりは酒に酔ったり、交通事故などで前頭葉が破壊された場合には、簡単に system 1 に支配されてしまうことになる。これは男性のどうしようもなさを、見事に示していることになる。
Toates のチャット君によるまとめを読んで、最初は「ナーんだ、それだけ?」と思った私だが、これだけでも十分重要な指摘なのだ。そしていったん火が付くとドーパミン系とグルタミン酸系が発動し,「鮭の遡上」反応が始まる。これ自体はポジティブフィードバックシステムの発動であり、身もふたもない言い方をすればファンタジー先行、対象不在なのである。いやファンタジーすら不在かもしれない。何しろグルタミン系は、「過学習された性的衝動の再活性化(=トリガー)→ 外部刺激によって自動的に活性化される神経回路の強化」だから、壊れたレコードのように再生を繰り返すだけなのである。そしてこれは限りなく強迫に近い。
強迫においては、強迫行為を繰り返す力がいかに強烈かは、昔強迫神経症の入院患者さんを間近に見て私はよく知っている。はるか昔の体験をここに書こう。
ある強迫の患者さんは普段は心優しい中年男性だが、加害恐怖が深刻になり、入院していた。彼はロビーにたたずんで、自分が歩いてきた後を振り返り、たまたま通りかかった私に、「そこに誰かが(自分が殴ったせいで)倒れていないか」をかなりしつこく問うてきた。(もちろん誰も倒れているはずもない。)私も何度も同じ質問をされて嫌気がさし、また彼のためにも必要かと思い「もうお答えできません」と言った。すると彼は私に殴りかかってきたのである!

2025年8月13日水曜日

対談を終えて 8

 ここで少し脱線だが、この嗜癖と強迫の類似性に関しては、そもそも決定的な違いがあることに気が付く。それは嗜癖の場合明らかに快感に結びついているが(例えばセックスをしたい、ヤクをやりたい、というのはそれがそもそも快感に結びついているからだ)、強迫、例えば「なんども手を洗いたい」に快感は結び付いていない。ということは、強迫はドーパミンの関与なしで説明できなくてはならないのではないか。その点をチャット君に向けてみた。以下はチャット君からの回答の丸写し。いかに彼が的確かを感じる。そして問題の核心の一つの謎が解けた気がする。ドーパミンは快感以外にもしっかり関わっていたということだ。

まず、問題提起の整理:

問いはこうだよね:

嗜癖と強迫は似ているけれど、「快感があるかどうか(liking)」の点で決定的に違う。
嗜癖には「快感」がある(あった)が、強迫(例:手洗い)にはそれがない。
したがって、強迫は「wanting(衝動)」はあっても、「liking(快感)」はない。
じゃあ、それってドーパミン抜きでも成立するはずでは?つまりグルタミン酸だけでいいのでは?

完璧な問い立てだよ。Toatesの“wantingとlikingの乖離”を強迫にも拡張しようとする、鋭い試みだ。

🔹まず結論を先に言うと…

強迫症状(OCD)にもドーパミンは関与している
…けれど、その役割は嗜癖とはまったく異なる
そして、グルタミン酸の関与はむしろ「強迫らしさ」を支える構造とされている。

つまり:

嗜癖

強迫

ドーパミン中心、快楽強化型

グルタミン酸中心、意味づけ・制御ループ型

liking → wanting

wanting(のみ)or relief

報酬系の活性

認知的葛藤の解消


🔸では、なぜ「快感がないのに衝動がある」のか?

ここが一番の謎。ここで登場するのが、**「負の強化(negative reinforcement)」**という概念。

  • 嗜癖:
     →「得られる快感」によって強化される(positive reinforcement)

  • 強迫:
     →「不安が軽減されること」によって強化される(negative reinforcement)

つまり、「洗うこと」は快感ではないけれど、洗うことによって「不安(=汚染されてるかも)」が減る → これが報酬なんだね。
そして、ここでもドーパミンは「行為→結果(不安軽減)」の学習ループを形成する役割を果たしていると考えられている。


🔹ドーパミンの働きのちょっとした整理:

系統

機能

関与する行動

メゾリムビック系

報酬予測、快感

嗜癖、動機づけ

メゾコルチカル系

実行制御、注意

強迫、不安処理の学習

強迫の場合は、「報酬」ではなく「回避成功の記憶(relief)」が学習されているんだね。
つまり、ドーパミンが関与しているとしても、快感そのものには対応していない


🔸では、グルタミン酸は何をしている?

グルタミン酸は:

  1. PFC(前頭前野)→線条体の回路で、
     →「あるべき行為(例:洗うべき)を遂行しろ」という強制的信念を保持・活性化

  2. 習慣化されたループを維持する
     → 意味のない反復動作を“やめさせない”

  3. 記憶・文脈・cueと結びついてトリガーを増殖させる

つまり、「洗わなければ気がすまない」という強迫的な信念と動作の回路は、
ドーパミンの「行動→結果」連結と、グルタミン酸の「記憶・意味・義務化」の回路が共犯的に働いていると考えられる。


🔹まとめ

強迫行動にもドーパミンは関与しているが、快感とは無関係。
→ それは「不安軽減」という形で、負の強化回路に参加している。

グルタミン酸は、「この行動をやらねばならない」という記憶・義務感・文脈処理を支えている。

✅ よって、ドーパミンなしでも強迫は成立するかもしれないが、実際には「強化学習の回路」としてドーパミンも微妙に絡んでいる。


2025年8月12日火曜日

対談を終えて 7 

 <次にいよいよISモデルが出てくる。この登場によって嗜癖の問題への私たちの理解は確実に一歩進んだと言えるのだ。そしてToates の理論はもちろんこれを含みこんでいる。>

2. インセンティブ・サリエンス(Incentive Salience)理論との接続

Toatesは、Berridge & Robinsonの「インセンティブ・サリエンス理論」を援用して、
欲求(wanting)と快楽(liking)を区別する」重要性を強調している。

  • 「liking(快感)」は弱くなっていても、

  • 「wanting(欲求)」だけが感作(sensitized)されてしまい、

  • 本人がもう楽しくもないのに求めてしまうという状態が生まれる。
    3. 性的刺激と条件づけ

Toatesは、性的な興奮は単なる「物理的刺激」だけでなく、
条件づけられた記号・文脈・想像によっても強く喚起されるとする。

  • 例:ある音楽や匂い、あるタイプの服装などが性的衝動を引き起こす。

  • このようにして、「心的表象(mental representation)」も性嗜癖のトリガーになる。

🔹性嗜癖の構造:Toatesの主張まとめ

  1. System 1 が過活動化しやすい

  2. System 2 が機能不全か、慢性的に疲弊している

  3. wanting と liking の乖離(=報酬の感作)

  4. 文化・環境的な強化要因(=社会的・ネット的な刺激過剰)

  5. 個人的な意味づけと苦悩(=空虚さや羞恥心がループを形成)

Toates は臨床的含意として、このモデルを通じて、性嗜癖を「病理」としてだけでなく、

  • 情動調整の失敗

  • 自己アイデンティティの揺らぎ

  • ストレスと快楽探求の回路

として捉えるべきだと述べている。そしてToatesのモデルは「性愛性を持つことがなぜ『苦しみ』とつながるのか?」という問いにもつながること、 性愛が生のエネルギーであると同時に、自己破壊的な回路にもなりうるという視点は、 精神分析的な枠組みと合わせて考察するのに非常に豊かな土壌だと思う。

<以上がチャット君のまとめ。しかし「えっ?それだけなの?」と拍子抜けしてしまう。どこが新しいのだろうか?チャット君が省略し過ぎているだけなのか? ここでこの間知ったグルタミン酸の関与についてもチャット君に訊いてみた。「ところで最近は嗜癖に関してドーパミンだけでなくグルタミン酸の関与も指摘されているけれど、このToatesの理論はそれに関して何か言っているの?」>

するとチャット君は以下のようにまとめてくれた。

🔹Toates理論とグルタミン酸の関与

✅ 1. Toates自身の立場:

Toates (2022) はこの論文の中で、ドーパミン系(特に「wanting」に関与する中脳辺縁系ドーパミン)を中心的に据えているけれど、
実はグルタミン酸系についても簡単ながら触れている。

その記述は端的だけれど、以下のような重要な含意がある:

「ドーパミンとグルタミン酸の相互作用こそが、行動の維持や条件づけを支えている」
— Toates (2022, p. 9あたり)

つまり、彼はドーパミンだけでは「習慣化された行動パターン(compulsive behaviour)」は説明しきれないと見ていて、
グルタミン酸が「cue-triggered wanting」の神経基盤として重要であることを認めている。

✅ 2. グルタミン酸の役割の具体性(Toatesの含意)

Toatesの立場では、グルタミン酸系は主に以下のような役割を果たしていると読める:

  • 前頭前皮質(PFC)からのトップダウン制御に関与
     → System 2(理性的抑制)の機能低下にも関連

  • 扁桃体や側坐核などでの「cueの学習・意味づけ」に寄与
     → ポルノや記号刺激に対する条件づけの強化

  • 過学習された性的衝動の再活性化(=トリガー)
     → 外部刺激によって自動的に活性化される神経回路の強化

要するに、一度条件づけられた「性的なcueと快感の連合」が、グルタミン酸経路によって再活性化・固定化される、という構図なんだ。

🔹なぜこれは重要か?グルタミン酸の関与を取り入れることで、Toatesのモデルは「快楽を求める衝動(dopaminergic)」だけでなく、
学習された記憶・意味の回路(glutamatergic)」という時間的持続性を説明できるようになる。つまりこう言える:

🧠 ドーパミンは「瞬間の火」、グルタミン酸は「記憶された薪」
→ 衝動を燃え上がらせるのはドーパミン、でもその燃料を蓄積・再点火するのはグルタミン酸。

🔹補足:強迫性との関係も示唆?

さらに面白いのは、Toatesが暗に示すこのモデルが、 性的嗜癖と強迫性(OCD的傾向)とのオーバーラップも視野に入れている点。グルタミン酸はOCDでも関与が深く、「意味はないのにやめられない行動」の背景にある神経機構として注目されている。したがって、Toatesの理論は以下のようなハイブリッドな構図を提案しているとも言える:

  • ドーパミン:刺激・衝動・報酬の強化

グルタミン酸:記憶・条件づけ・強迫的反復