2025年8月21日木曜日

精神分析と分析的精神療法のはざまで 1

 多くの分析的療法家たちが、「本来の」、週4回以上のカウチを用いた治療が出来ないことに後ろめたさを感じています。その問題をどう考えるべきでしょうか? 「精神分析こそ本質的である。精神療法はそれを水増ししたものに過ぎない」という考えに私たちはなぜこれほどまでにさいなまれるのでしょうか。かくいう私もそうです。そして療法家たちと同様の悩みを持ちます。私は分析家で週4回以上も経験しているが、それでも「自分はその道をはたして本当に極めたと言えるのか」などと考えてしまうのです。本当にフロイトは罪作りな人です。私たちはよく、精神分析の本質は何か、と自分たちに問いかけます。それは精神分析ないしは精神分析的療法の本質は何か、ということです。そしてそれについて私たちは仮の答えを用意できているようです。それは「自分を知ること」なのです。私もさすがにこれにはまったく異存はありません。なにしろそれはフロイトが精神分析の定義として示したことですし、自分を知ることの意義深さを誰も疑わないと思います。 ただしフロイトは「自分を知ること」と言わずに「自分の無意識を知ること」としました。そしてそれは自分の真実を知る事には様々なネガティブな感情が伴うため、私たちは通常はそれを抑圧しているのだとフロイトは考えたわけです。そしてそれ以来私たちは精神分析について論じる際はそのような考え方を前提としていることになります。ちなみに私はここで「抑圧」という概念を用いましたが、私たちが通常はあることを意識化できない時に、そこに働くのがフロイトが考えた抑圧だけとは限らないでしょう。でも私たちは精神分析の文脈ではこの抑圧という考え方を主として用いているのは確かです。 さて精神分析の目的そのものには疑いをさしはさむ余地はないと思いますが、現代に生きる私たちはここに大きな問題があります。そしてこちらの方がより私たちにとって重要な意味を持っているかもしれません。それは大きく二つあると思います。