2025年8月19日火曜日

FNDの世界 推敲 3

 ヒステリーの外傷説の火付け役だったシャルコー

ヒステリーに対する上記のような偏見を取り去り、それを医学の土俵に持ち込んだのが、シャルコーだったことについては異論の余地はない。シャルコーはそれまでに様々な神経疾患に関する業績を残したすぐれた臨床観察を行う研究者でもあったが、1962年にパリのサルペトリエール病院の「女性けいれん病棟」を担当したことが大きな転機となった。そのころのけいれん発作が脳波異常を伴ったてんかんによるものか、ヒステリー性(すなわち解離性)のものかを区別する手立てはなかったが、シャルコーはそれらを一律に説明する概念としてヒステリーの大発作という概念を提出した。そしてこの大発作が四つの段階(「類てんかん期」「大運動発作期」「熱情的態度期」「譫妄期」)を示すと考え、それを詳細に記載したのである。こうすることでヒステリーのさまざまな症状は、この大発作の部分的な現われや亜系であると説明することが出来たのである。しかし先程も述べた事情から、サルペトリエールの観察対象にはてんかん患者を混入させていた可能性が高かったため(Webster, 1996)この病型を分類することにどのような意味があったかは不明である。さらには彼の臨床講義に出て様々なヒステリー症状をでモンストレートする患者の中には、あらかじめ病棟でいろいろ指導や打ち合わせをして症状を演じていたということがわかったことである(Ellenberger, 1979)。
 シャルコーは「催眠は身体的な現象である」と述べたが、彼の客死後は忠実だったババンスキーも(いわゆる「バビンスキー反射」で有名なフランスの神経学者である)、師の神経学的な業績のみ受け継ぎ、催眠については暗示によるものであり、一種の詐病と一緒だ、という論文を書くようになったということである。
現在の観点からシャルコーのヒステリーに関する臨床研究を振り返った場合、そこにあったひとつの過ちは、シャルコーがヒステリーを自分の専門の神経学に属する疾患として整理し理解しようとしたことになるが、現在のFNSの概念の見直しの趨勢を見ると、それを神経疾患と見なそうとしたシャルコーにもそれなりの先見の明があったと考えることもできるだろう。ただし問題はところがヒステリーや解離性障害の場合、それはあまりにたくさんの表現形態をとり、どれか一つに絞ることは出来ない。極めてアモルファスでとらえどころのない病気といえるのだ。しかも解離症状は一種のブランクスクリーンのような性質を持ち、たとえば目の前の治療者が、「あなたは~という症状を示すはずである」と示唆した場合にはそれを実現してしまいかねないところがある。つまり患者はシャルコーが「これがヒステリーのあり方だ」と結論付けたものをそのまま示して見せたという可能性が高いわけだ。それがヒステリーの有する被暗示性の表れであり、この疾患の本質であるということにシャルコーは気がつかなかったのである。

このような批判はあっても、シャルコーがヒステリーの研究に非常に大きな貢献をしたことも確かである。例えばシャルコーはヒステリーは女性特有のものではなく、男性についても起きることを、実際に男性の患者を供覧することにより示した。またシャルコーは、ヒステリーが心的外傷一般、すなわちたとえば思春期以前の性的外傷によっても、そのほかの外傷(鉄道事故とか、はしごからの転落事故など)に対する情緒的な反応によっても起きることを主張したとされる。そしてこのヒステリーの外傷説が、フロイトの理論形成に大きな影響を与えたのである。ただしそれでもシャルコーはある意味ではヒステリーに関する俗説をそのまま引き継いでいるというところも否めなかった。そしてこれもフロイトが引き継いだ部分でもあった。

新時代の解離性障害及びFND

さてここまではもっぱらヒステリーについて論じてきたが、これは1980年代以降は「解離性障害」という名前になる。その意味では解離性障害 dissociative disorder」という診断名の歴史は意外に浅いのである。精神医学の世界で解離性障害が市民権を得たのは, 1980年の米国におけるDSM-IIIの発刊が契機であることは,識者がおおむね一致するところであろう。「解離性障害」がいわば「独り立ち」して精神科の診断名として掲載されたのは,この時が初めてだからだ。しかもややこしいことに、ここにFNDに該当するものは含まれず、実は今でもDSMではFNDは解離性障害に入らないという事態が続いている。
 むろん用語としての「解離 dissociation 」は以前から存在していた。1 952年のDSM初版には精神神経症の下位分類として「解離反応」と「転換反応」という表現が見られた。1968年のDSM-IIにはヒステリー神経症(解離型転換型)という表現が存在した。ただしそれはまだヒステリーという時代遅れの概念の傘の下に置かれていたのである。さらに加えるならば. Jean-Martin Charcot, Pierre Janetらが解離概念を提唱し,フランス精神医学において一世を風廃したのは19世紀のことであった。しかし彼らは精神医学の教授ではなかった。大学の精神医学においては解離は外形的な言動と子宮との根拠のない関連を推測してヒステリーと分類されており.これが上述のDSM-1, 11にも引き継がれていたのである。
しかしDSM-III以降. DSM-III-R (1987), DSM-IV (1994), DSM-5(2013)と改定されるに従い,解離性障害の分類は.少なくともその細部に関して多くの変遷を遂げてきた。またDSMに一歩遅れる形で進められた世界保健機榊(WHO)のICDの分類においても,同様の現象が見られた。そして同時にヒステリーや解離の概念にとって中核的な位置を占めていた「心因」や「疾病利得」ないしは「転換」などの概念が見直され、消えていく動きがみられる。
 世界的な診断基準であるDSM(米国精神医学会)とICD(国際保健機構)は,精神疾患一般についての理解や分類に関してはおおむね歩調を合わせつつある。そしてそれにともない従来見られた解離性障害と統合失調症との診断上の混同や誤診の問題も徐々に少なくなりつつあるという印象を持つ。
 ただし従来の転換性障害を解離性障害に含めるかどうかについては顕著な隔たりがある。すなわちDSMでは転換性障害は、「身体症状症」に分類される一方では、ICD-11では解離症群に分類されるのである。

変換症を身体症状症に含めるという方針はDSMでは1980年のDSM-III以降変わってはいないが2013年のDSM-5において、この名称の部分的な変更が行われたことは少なからぬ意味を持っていた。すなわちDSM-5では「変換症/転換性障害(機能性神経症状症)」(原語ではconversion disorder (functional neurological symptom disorder)となった。つまりカッコつきでFNDという名前が登場したのである。
 さらに付け加えるならば、10年後の2023年に発表されたDSM-5のテキスト改訂版(DSM-5-TR)では、この病名が「機能性神経症状症(変換症)」となった。つまりFNDの方が前面に出る一方では「変換症」の方がカッコ内に入るという逆転した立場に追いやられ、さらに「転換性障害」という言葉は「癲癇」との混同の懸念もあって削除されてしまったのである。
 こうして転換性障害は正式な名称からもう一歩遠ざかったことになるのだ。そして将来発刊されるであろう診断基準(DSM-6?)では「転換性障害」どころか「変換症」という名称も消えてFNDだけが残されるのはほぼ間違いないであろう。かくしてFNDが登場することとなったのである。