次に②の性依存についてである。こちらの場合それを満たすパートナーは不在である場合がほとんどだろう。一日中オーガスムを追い求めることを止められない男性の相手を務められるパートナーなどは普通は存在しない。したがって性依存はそのままポルノ依存などで問題となる。つまり他人を巻き添えにすることはそれだけ少なくなり、自分で苦しみ、その結果として家族なども巻き込むことになる。(ただし金銭的な問題が発生しにくいことは、ギャンブル依存などとは違うところだ。ただし毎日の風俗通いを止められないという場合には別であろう。)
さてこの性依存ないしは性依存症は、それが一つの疾患としてどの程度認定されているかについてはいろいろ議論がある。いちおうWHO発行のICD-11(2022年)には、CSBD(compulsive sexual behavior disorder 強迫性性行動症)として記載されている。ところがもう一つの世界的な精神科の診断基準であるDSM-5にはそのような病名の記載はない。巷で言われる性依存の状態は、通常の依存症、すなわち薬物やギャンブルや買い物などの依存症と同類に扱うことが出来ないというのがDSM-5の立場なのである。 以上二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である「一見普通の男性の起こす性加害行為」(以下は「男性の豹変」の問題と略記しよう)とこれらは関係しているのだろうか?私の見解としては、この問題は①,②に関連はしているが、別の問題であるということであり、新たに③として、つまり別項目として論じなくてはならないのである。
この「男性の豹変」の問題は、①②と異なり、おそらく病理とは言えない(あるいは普通はそう扱われない)という事情があるが、それはもっとなことだろう。何しろそこには多くの場合一見健康で普通の社会生活を送っている、そして特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっているからである。(もちろん、中居くんや山口くんや松本くんが、普通の人の仮面をかぶった犯罪者性格であったと主張する場合には、この限りではないが、私は彼らは少なくとも普通、ないしはさらに善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。)しかしこの「男性の豹変」は社会に大きな問題を引き起こし、また数多くの犠牲者を生み出している問題であり、しかもこれまで十分に光が当てられてこなかったのである。一見普通の人が起こす問題だけに、私たちにとって一種の盲点になっていたのだろうか。
臨床で出会う性被害の犠牲者たちがしばしば口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性からの被害にあってしまったという体験である。そしてそれだけに心の傷も大きい。信頼していた人からの裏切りの行為は、見ず知らずの他人による加害行為にも増して心に深刻なダメージを及ぼすというのは、トラウマに関する臨床を行う私たちがしばしば経験することである。
この「男性の豹変」を回避し、再発を防止する方法は決して単純ではない。通常の危険行為に関しては、危険な場所、危険な人との接触を避けることに尽きる。しかし「一見普通の男性」を回避するのに同じロジックは成り立たない。何しろそれは職場の上司や同僚として、あるいは指導教官や部活の先輩として、それこそ身の回りのいたるところにいるのだ。それらの人々との接触を避けるとしたら、それこそ学生生活や社会生活を満足に送ることが出来なくなってしまうだろう。ここにこの問題の深刻な特徴があるのだ。