2025年8月23日土曜日

精神分析と分析的精神療法のはざまで 2

 さて精神分析の目的そのものには疑いをさしはさむ余地はないと思いますが、現代に生きる私たちはこの精神分析をめぐって大きな問題を抱えています。それは大きく2つあると思います。 ①どのようにしてクライエントが「自分の無意識を知ること」を援助出来るのか、という方法論の問題。 ②クライエントが「自分の無意識を知ること」を何よりも求め、私たちのもとに来るのかという問題。  まずは①の方法論についての問題です。これまで提唱されてきた精神分析の治療法は、頻回にセッションを持ち、そこでは治療者は基本的には受け身的な姿勢を保ち、患者の自由連想を促し、それに対して主として解釈的な関わりを行うというものです。これを精神分析における「基本原則」と呼ぶことが出来るでしょう。  そもそもこれはフロイトが精神分析について語りだした当初から提唱したことであり、それは彼自身が催眠療法との訣別の中で生まれたやり方です。そして精神分析の主流に属する分析家たちはこれに対して特に異議を挟むことがなく、半ば無条件に受け入れてきたことです。ただし最近になり様々な考え方が精神分析の内部にも生まれるに至り、この方法論に懐疑的な見方もされるようになっています。その一つの理由は、この「基本原則」に従ったやり方がセラピストにもクライエントにも多かれ少なかれ心の負荷を与えるからでしょう。  週4回という頻度でセッションを行うことの時間的、経済的なコスト以外にも、セラピストがほとんど黙ったままで反応性に乏しいという状況がクライエントにとって必ずしも居心地が良くないということは否めないでしょう。クライエントの無意識を知ることという目標は動かなくても、それを達成するための他の、もう少しインターラクティブな方法もあるのではないかと考えても不思議ではありません。

②クライエントが「自分の無意識を知ること」を何よりも求め、私たちのもとに来るのかという問題。
 この問題も非常に込み入っています。それはクライエント自身が、自分が何を求めて来談しているかがしばしば不明だからです。セラピストの方は、自分たちのもとに来たクライエントは自分の無意識を知りたいんだ、と考えがちです。なぜなら彼らはフロイトの本を読んでそれが精神分析というものであり、自分の無意識を知ることは本質的なテーマであり、非常に重要だと考えるという一種のバイアスを持っているからです。
 これは実は精神分析について特に教えを受けていなくても、比較的容易に肯定される考えかも知れません。人々は無意識という言葉をよく知っていますし、「無意識的に~思っていたから~と言ってしまった」などの表現を日常的に用いているはずです。すると無意識を解明することは、自分の心の秘密を知るカギであり、自分の抱えた問題を根本的に解決する手段であると考えることにさほど抵抗はない方が多いでしょう。
 ところが私は臨床経験からほぼ確信を持っているのですが、多くのクライエントはある種の心の痛みや悩みを解決したいという思いから精神療法やカウンセリングを受けるのです。むろん自分自身の心に興味を抱き、「自分を知りたいから」という思いで治療を求める人もいますし、自分が分析家になるためのトレーニングとして分析を受けるという立場のクライエントの場合は別です。
 しかしこれらの例外を除けば、クライエントは精神分析の方法論についても知らず、悩みや苦しみを解決ないし軽減してもらうことを前提としてセラピストのもとを訪れるでしょう。そしてもしセラピストが「この治療は精神分析的に行うのであり、その目標は自分自身(の無意識)を知ることである」という教示を与えても、クライエントは、それが結局は自分の苦しみや悩みの解決につながるはずだと思い、とりあえず精神分析的な治療を開始するでしょう。その際にセラピストが非常に受け身的であり、様々な質問を投げかけてこないことに特に違和感を感じることなく、「精神療法とはこういうものだ」と思いつつ治療を続けるでしょう。