総合考察—母子関係の二タイプと複数の含意 implication
この論文では日本における子育てについて、甘えの概念を含む精神分析的な文脈に即して論じた。そしてこの世界では漠然とした、しかしそれなりに歴史のある二つの子育て観が併存していることを示した。それを土居の文脈で表現するならば、
「日本型」の子育て 甘え(受身的愛 passive love)への反応性の高さに特徴づけられる。
「西欧型」の子育て 甘え(受身的愛 passive love)への反応性の低さに特徴づけられる。
すなわちこれらは二つの別々のもの、というよりは甘えニーズへの反応性の高、低により便宜的に分けられたことになる。そこでこのように子育て観を二つに分けたことにどのような意味があるのだろうか? この論文の冒頭で述べたように、私はこれらのどちらかに優劣をつける目的も、またどちらかの二者択一的な選択を促すという目的も持たない。それは物事を理解する上での一つの区分という意味合い以上を持たない、と述べた。精神分析的な文脈でこれを考える場合、これらのいずれかが正しいということにはならない。それはウィニコットの子育てにみられるように、どちらもありであり、その時々の判断で母親が決めていくことなのである。しかしそうはいってもこれらは両極端の子育てとして、白か黒かという形で取り入れられることが多く、それが問題を生む。その要因をいくつか挙げることで総合考察に替えたい。それらとは文化的な意味合い、生物学的な意味合い、民俗学的な意味合い。これらがスプリッティングを起こしてしまっている。
「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生じる。ところで感謝は常に恥と混じり合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」(p.96)Scholar Juan Luis Vives (1492- 1540) :“「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96)People in the West,however,as
the Vives quotation suggests,seem to feel that thanks carry with
them shame,which in turn hinders the feeling of
gratitude. In the attempt to wipe out the sense of shame the Westerner,one
might suspect,has striven for long years not to feel
excessive gratitude, and thus passive love.(Anatomy
of D, p.86)」
土居は欧米の母子関係において、甘えという概念や言葉を欠いていることを「文化的条件付け」と言い換えているが、それにより欧米人は「甘えによる交流」を日本の母子関係ほどスムーズに行えないという。つまり「愛して欲しい、という形での愛」を感じることに欧米人は非常に鈍感であるともいう。しかし土居はまた甘えがフェレンチやバリントの「受身的対象愛」と同等なものと述べ、それが日本文化に独特のものであることは否定してもいる。
土居はこのように述べるときに西欧の鈍感さというネガティブな側面について論じているという印象を与えるが、逆に日本人の在り方をネガティブに表現してもいる。たとえば日本人は「結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとしている」「西洋的自由の観念は甘えの否定の上に成り立っている」という言い方をして、あたかも日本人が対人関係に甘えを持ち込むことで個の独立が阻まれていると言っているようである。ただしおそらく土居が言っている「個が独立せず、甘えている日本人」というのは、西欧的な意味での個の独立、という事なのだろう。すなわち日本人は日本社会ではそれなりにこの独立を成し遂げていると考えるべきである。西欧では幼い子はあまり自分のニーズを汲んでもらえないという体験を持つであろう。そして自分がして欲しいことを表明するようになる一方では他者に先回りして欲求を満たしてもらうという期待をあまり持たなくなるだろう。そしてこのことは、自分も他者の要求を知る努力をあまりしない、という事になる。非常にドライでそっけなく、しかし分かりやすい対人関係がそこに成立するわけだ。それと比較して、日本での「個」なら相手のニーズをある程度先取りして満たすと同時に自分のニーズも先取りして満たしてもらうことを期待する(つまり甘える)。つまりこのギブアンドテイクの人間関係の中で生きていくのが、日本における「個」の在り方だ。そしてそのような「個」の在り方とは違うタイプの「個」の在り方が成り立っている社会に属することになれば、当然カルチャーショックを起こすことになる。自分は甘ったれていたんだ、となるだろう。でもそこから日本人は外国人対する態度を変えることで適応していくのが普通だ。 このように考えると土居先生の議論は一貫しているのだ。日本人は西洋における個の独立は達成していなくても、おそらくそれはまだその文化に適応していないだけであり、やがて英語と日本語を使い分けるようにして両文化でそれぞれうまくやっていくのであろう。とすると「日本型」として発信すべきは甘えの感受性の高さについて肯定的な意味付けを行うと同時に、西洋における個の独立に備える必要があるという事を主張することにとどめるべきなのだろう。結局日本人と西欧人は、生まれ持って他者の甘えニーズに対する敏感さに違いを持っている.