2021年6月17日木曜日

母子関係 推敲 4

 総合考察—母子関係の二タイプと複数の含意 implication

この論文では日本における子育てについて、甘えの概念を含む精神分析的な文脈に即して論じた。そしてこの世界では漠然とした、しかしそれなりに歴史のある二つの子育て観が併存していることを示した。それを土居の文脈で表現するならば、

「日本型」の子育て  甘え(受身的愛 passive love)への反応性の高さに特徴づけられる。

「西欧型」の子育て  甘え(受身的愛 passive love)への反応性の低さに特徴づけられる。

 すなわちこれらは二つの別々のもの、というよりは甘えニーズへの反応性の高、低により便宜的に分けられたことになる。そこでこのように子育て観を二つに分けたことにどのような意味があるのだろうか? この論文の冒頭で述べたように、私はこれらのどちらかに優劣をつける目的も、またどちらかの二者択一的な選択を促すという目的も持たない。それは物事を理解する上での一つの区分という意味合い以上を持たない、と述べた。精神分析的な文脈でこれを考える場合、これらのいずれかが正しいということにはならない。それはウィニコットの子育てにみられるように、どちらもありであり、その時々の判断で母親が決めていくことなのである。しかしそうはいってもこれらは両極端の子育てとして、白か黒かという形で取り入れられることが多く、それが問題を生む。その要因をいくつか挙げることで総合考察に替えたい。それらとは文化的な意味合い、生物学的な意味合い、民俗学的な意味合い。これらがスプリッティングを起こしてしまっている。

  文化的な意味合い
 文化的な意味合いに関しては、まぎれもないことであろう。赤ちゃんはお母さんの肩におぶさっていた。お母さんはそうやって仕事をしていたのである。すると母子の進呈的な密着はほぼ文化的な要請があったとみていいだろう。もちろん今では乳母車を使う母親も増えたので、状況は変わってきたが。しかしそのような身体的、物理的な意味合いだけでなく、心理文化的psychoculturalな含みはどうか。例えば日本文化においては、人々は甘えニードを感知する能力が高い(西欧人は相対的に低い)という可能性があるだろうか。実はそれを提案していたのがほかならぬ土居健郎であった。

(ここにすでに書いた部分を嵌め込むのである。)

 「甘えの構造」(1971)でアメリカにわたってさほど長くない時期にそこでの医療に触れた感想について、彼は以下の記述を行っている。 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである。American psychiatrists were extraordinarily insensitive to the feelings of helplessness of their patients. patients. In other wordsthey were slow to detect the concealed amae of their patients.」(p.16) つまり患者の苦しみを汲み取ろうとしていないと驚くのだ。そして多くの精神科医の話を聞いて彼が以下の結論を下したという。「精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。(p.16) つまり自分から助けを求めない人を先回りをして何かをするというのは彼らの精神にあわないのだという。そして言う「私は自立の精神が近代の西洋において顕著となったことを示す一つの論拠として、『神は自ら助けるものを助ける』(p.17)という諺が17世紀になってからポピュラーになって事実を指摘した。」「実際日本で甘えとして自覚される感情が、欧米では通常、同性愛的感情としてしか経験されえないという事実はまさに我彼の文化的相違を反映する好材料と考えられたのである(p.17)」「甘えるという事は結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるとは言えないだろうか?(p.82)」幼少時の甘えが正常であることに対し、成人後は甘えるという事が母子分離の否認、という事だという。「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている(p.96)」 つまり自分が「好きなことをする」自由は、他の人の「好きなことをする」と抵触しないという前提がある。だから好きなことをする自由は他人によって与えられるものではない。自由と責任ないしは代償が一つになっているという事を土居先生は言わんとしている。「好きにさせて!」には重い責任が付きまとうのだ。そして土居はルネッサンス期に活躍した学者 Juan Luis Vives (1492~1540)の文章を以下に引用する。
 「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生じる。ところで感謝は常に恥と混じり合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」(p.96Scholar Juan Luis Vives (1492- 1540) :“「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96People in the Westhoweveras the Vives quotation suggestsseem to feel that thanks carry with them shamewhich in turn hinders the feeling of gratitude. In the attempt to wipe out the sense of shame the Westernerone might suspecthas striven for long years not to feel excessive gratitude and thus passive love.Anatomy of D, p.86

 この文章は、一見極端で意味が通じにくいが、誰かに「ありがとう」という事には気恥ずかしさが伴うことは確かだ。そしてこのVivesのいう恥を「負い目」と読み替えるのであれば意味が通じる。他人から何かをしてもらうことで恩恵を被るという事は、自分の中の不足な部分、至らない部分を認めることになる。目の前に食べ物を差し出されて心から「有難う!」と言えるとしたら、その人はお腹が空いていることになる。その意味で自分の弱さ needinessを認めることになる。西欧人はこれを認めることを良しとしないという事になる。
 土居は欧米の母子関係において、甘えという概念や言葉を欠いていることを「文化的条件付け」と言い換えているが、それにより欧米人は「甘えによる交流」を日本の母子関係ほどスムーズに行えないという。つまり「愛して欲しい、という形での愛」を感じることに欧米人は非常に鈍感であるともいう。しかし土居はまた甘えがフェレンチやバリントの「受身的対象愛」と同等なものと述べ、それが日本文化に独特のものであることは否定してもいる。
 土居はこのように述べるときに西欧の鈍感さというネガティブな側面について論じているという印象を与えるが、逆に日本人の在り方をネガティブに表現してもいる。たとえば日本人は「結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとしている」「西洋的自由の観念は甘えの否定の上に成り立っている」という言い方をして、あたかも日本人が対人関係に甘えを持ち込むことで個の独立が阻まれていると言っているようである。ただしおそらく土居が言っている「個が独立せず、甘えている日本人」というのは、西欧的な意味での個の独立、という事なのだろう。すなわち日本人は日本社会ではそれなりにこの独立を成し遂げていると考えるべきである。西欧では幼い子はあまり自分のニーズを汲んでもらえないという体験を持つであろう。そして自分がして欲しいことを表明するようになる一方では他者に先回りして欲求を満たしてもらうという期待をあまり持たなくなるだろう。そしてこのことは、自分も他者の要求を知る努力をあまりしない、という事になる。非常にドライでそっけなく、しかし分かりやすい対人関係がそこに成立するわけだ。それと比較して、日本での「個」なら相手のニーズをある程度先取りして満たすと同時に自分のニーズも先取りして満たしてもらうことを期待する(つまり甘える)。つまりこのギブアンドテイクの人間関係の中で生きていくのが、日本における「個」の在り方だ。そしてそのような「個」の在り方とは違うタイプの「個」の在り方が成り立っている社会に属することになれば、当然カルチャーショックを起こすことになる。自分は甘ったれていたんだ、となるだろう。でもそこから日本人は外国人対する態度を変えることで適応していくのが普通だ。 このように考えると土居先生の議論は一貫しているのだ。日本人は西洋における個の独立は達成していなくても、おそらくそれはまだその文化に適応していないだけであり、やがて英語と日本語を使い分けるようにして両文化でそれぞれうまくやっていくのであろう。とすると「日本型」として発信すべきは甘えの感受性の高さについて肯定的な意味付けを行うと同時に、西洋における個の独立に備える必要があるという事を主張することにとどめるべきなのだろう。結局日本人と西欧人は、生まれ持って他者の甘えニーズに対する敏感さに違いを持っている.