そこで私の中に展開が起きたのは、渡米してからの3,4年間の間、という事になりますが、そこで最も私が関心を持っていたのは、精神分析におけるセントラルドグマ、すなわち匿名性、禁欲原則、受け身性などの治療原則が、どうして当てはまる場合とそうでない場合があるか、という事の一点にかかっていました。関係論、というよりはむしろそちらの方が気になっていたのです。そしておそらくそれらの問題意識を持つ一番の源流は、おそらくメニンガーの病棟で患者さんたちのインタビューをしたことです。当時は「しがない国際留学生」という立場で、後からは精神科のレジデントとして、私はメニンガーで精神分析を受けている沢山の患者さんの生の声を聴きましたが、彼らは一様に自分たちの主治医やセラピストに対して憤慨していました。メニンガーでは患者はすべて分析的な治療を受けています。そして私はその彼らが持つ不満を聞き取る役になったのです。国際留学生は正式なセラピストの資格がありませんし、言葉のハンディキャップもありますから、エラそうな治療者としての振る舞いも出来ません。最初は自己紹介から始めるわけです。「私は日本から見学性としてここに来ました。よろしくお願いいたします。」とあいさつをすると、患者の一人は、「おお、君は普通に自分のことを話すんだね。」と驚きました。その男性の患者さんは自分のセラピストが黙ったままで何も言ってくれないので腹が立って仕方ないという話をしました。そして若い精神科のレジデントが来ている薄いピンクのシャツについて、「おしゃれですね」とコメントしたところ、そのレジデントは「それは貴方の隠れた同性愛傾向を意味していますね」と解釈をされて激怒したという話をしてくれました。彼らはメニンガーで医師たちから幾分見下されている感じがし、私たちのような立場の見学性と同一化する傾向があるようでした。私は精神分析的治療やメニンガーでの試みについて理想化し、期待も大きかったので、このように内側で起きていることを知ることで、精神分析的な治療とはいったい何なんだろうと考えるようになりました。精神分析では治療者は患者に対して、分析的な治療原則に沿った独特なスタンスでアプローチをするわけですが、それが多くの場合逆効果を生んでいるのを見て深く考え込んだわけです。
そして得た結論は、治療者が自分を隠すか、開示するか、患者の願望を満たすか満たさないか、等はことごとく相対的な問題であり、治療状況で異なるという事実でした。そしてそれをもとに書き上げたのが「新しい精神分析理論」でした。