2021年6月16日水曜日

オンラインと精神療法 7

 4.「テレプレゼンス」の問題とOSの新たな可能性

  最後にいわゆるtelepresence というテーマで論じたい。このテーマはOSに固有の問題であり、あえて言えばOSのメリットともデメリットともなりうる。発想としては、私のセラピーやSVを受けている方々の中には、多少時間がかかっても、あるいは感染の危険性を冒しても、私のもとに通い、対面でセッションを設けたいという人がいるという事である。私がその理由を尋ねると、彼らにとっては、OSでは私と会っているという実感がわかないというのだ。そして私の中の微妙な逆転移反応に耳を傾けてみると、私が個人的に会っていて心地よいクライエントやバイジーが直接対面を望むことは私自身にとってもうれしい体験となることに気が付いた。確かに対面では相手と会っている、接している、触れ合っているという実感があり、それはOSには欠けている可能性がある。ただし私はここでOSでは対面状況に比べて何かが欠けている、不足しているという見方には留まりたくない。おそらく実際の対面とOSの両者は別物であり、互いに異質であるという見方をしたい。ここで私はtelepresence という用語を用いたいのであるが、このような概念がすでにみられ、この概念が私がここで考えている対面とOSでの相手の互いの在り方の違いを比較的うまくこの言葉に乗せることができるように思えるからだ。

 ちなみにZhaoはこのテレプレゼンスについて、次のように定義する。

「これは一種の人間の同時的存在であり、それぞれが別々の場所に居て、身体的な意味で身近であるphysical proximity代わりに、電子的な意味で身近であるelectronic proximityことである。彼らはそれぞれの肉眼で見える距離の外にあるが、それでも電子的な通信ネットワークにより互いにすぐ傍にいるのである。

 A form of human colocation in which both individuals are present in person at their local sites, but they are located in each other’s electronic proximity rather than physical proximity. Although positioned outside the range of each other’s naked sense perception, the individuals are within immediate reach of each other through an electronic communications network (Ahao, 2003, p.447)

  このように定義されたテレプレゼンスの概念は、これも立派な身近に存在するあり方であるということを保証してくれている。そしてプレゼンスでもテレプレゼンスでも、分析的な治療は成立するのだ、と言われているような気がするのだ。ただし私が注目したいのは、ちょうど私の一部のバイジーさんたちのようにOSでなく対面の方をどうしても選択するという人たちとは別に、OSの方をあえて選択する人たちもいるという事だ。すなわち彼らにとっては、プレゼンスよりもテレプレゼンスによる交流がより好ましく感じられているようなのである。
 私のあるバイジーさんのクライエントは、それまでの対面からZOOMを用いたセッションになり、自分がそれ以前よりはるかに自分の気持ちを話すことが出来ることに気が付いたという。その方は特に治療者に対しての考えを伝えやすくなったという事だ。その他にもOSにすることで何となくリラックスできるという体験を持つ方は多くはないとしても一定の割合でいらっしゃるようである。ではOSによるテレプレゼンスの何が、クライエントやバイジーにリラックスしてより心を開く効果を及ぼしたのであろうか。
 そこで私が思い浮かべるのは、すでに視線の問題でも触れた点である。OSにおいては両者の視線は原理的に合わせられないようになっている。そしてそれだけでなく相手がすぐそばにいる場合にはノンバーバルで伝わってくるもの、あえて言葉にすれば「気配」のようなものが、テレプレゼンスの場合には希薄になっているのではないだろうか。対面場面ではその相手の存在感presence に伴う気配に圧倒されてしまう人が、OSにおいてはそれに被爆しなくて済む。テレプレゼンスは、その視線が自分に合わせてくる可能性(危険性?)を含めた「気配」が希薄となるのではないかというのが私の考えである。
 ここではプレゼンスとテレプレゼンスの違いとして、被曝することとか、視線を合わせてくる危険性、とかいう言い方をしているが、それはこれが一種の対人恐怖や羞恥心の感覚ともつながる問題だと私が実感するからである。私個人は対面場面で視線の交わし合い(避け合い?)から生じる緊張感に時には苦痛を感じるが、TPはそれを軽減することにより、リラックス効果を与えるのではないか、それにより話者はより「素」になれる場合があるのではないか、というのが私の考えである。
 ここでテレプレゼンスにおいては「気配オフ」になるという事情に触れたが、実はこの気配は、相手のそれがオフになるだけではない。対面状況では相手に伝わるであろう自分の気配に関しても、OSではオフになるのである。対人恐怖者は自分が相手に及ぼす気配をも恐れる。私は対人恐怖の人がヘッドフォンで音楽を聴いている時には店に自由に入れたり店員と会話ができたりする一つの理由は、自分の立てる足音を含めた自分自身の気配のモニタリングが低下するためであることを見出した。これは考えてみれば自己視線恐怖の心性にもつながる、自己の「気配」への敏感さとも関係していると言えるのだ。
 この「気配」の問題に関して私が最近興味深いと思ったのは、学校でもオンラインの授業が取り入れられることにより、一部の登校拒否の生徒たちはとても大きな恩恵を被っているという事である。一部の生徒はオンラインの授業が開始されることで、新しい学びを得たり課題をこなしたりという事に喜びを感じているという。不登校の中にはこのように対人恐怖的なバリアーが取り払われることで、周囲の気配や自分の気配に脅かされることなくタスクをこなすことが出来る。
 このように考えるとOSを体験することは、おそらくそれにより初めて心を開放できるクライエントもいるという気付きを与えてくれるのではないかとも思う。フロイトは100年以上前に寝椅子を用いだし、患者の視線をオフにした治療を編み出したわけであるが、私たちがOSに特有の性質、TPの方を選択するような治療があってもおかしくないのではないかと思う。ただしそれは通常私たちが知っている精神分析とはかなり異なるものになるかもしれないが。