2021年6月25日金曜日

私の考えが固まっていったプロセス 1

 私が精神分析に触れたのは、心を考えることを生業にしようと考えた医学部時代でした。しかしフロイトを読んだというわけではなく、唯一の例外は、医学生のころフロイトの夢判断を文庫で読んだという体験ですが、これには全く歯が立たないという印象でした。ただ心を分析する、という意味の精神分析は、フロイト理論だけではないとその頃は思っていましたので、精神分析に興味は持ち続けていました。

 本格的に精神分析理論を勉強したのは、やはり精神科の研修医になり、小此木先生の指導を受けるようになってからです。1982年からの3年間、慶応の精神分析セミナーに毎週通いました。小此木先生はまだ50代の前半で最も脂が乗りきっていた時期といっていいでしょう。そこでフロイト、クライン、ウィニコットやフェアバーンなどの対象関係論、カンバーグ理論などについて教えていただきました。個人的に「岡野君、岡野君」とかわいがってくれたという体験は私にとっての宝でした。なぜならセミナーは10人程度のメンバーでしたから、先生は顔を覚えてくれたのです。私にはこの体験はとても大きいものでした。なぜなら精神分析ではそれ以降父親的な優しさを与えてくれる先生にはあまり出会わなかったからです。そして実に不思議なことに、その頃私はクライン派に対する苦手意識はありませんでした。私はその当時はどの理論がどのようなことを主張しているかについて、一生懸命勉強して覚えこむのに精一杯でしたから、それらの個々の理論に対する意見を持てるような状態になかったわけです。私は2004年に帰国してからクライン派の理論には苦手意識を持つようになりましたが、それはアメリカで精神分析を勉強して帰ったという身でクライン派から一種の敵意やライバル視をされるという体験を持ってからのことです。勘の鋭い人間であれば、例えばクライン派とコフート派では全くの水と油ということはわかるはずですが、私は実際にクライニアンの先生方との情緒的な衝突を体験するまでそれがわからなかったという非常に鈍いところがありました。
 さてもう少し私が「今の考え」にいつ頃至ったかを考えると、1991年ごろ、35歳のレジデントの3年目には明らかにクライン派よりはコフート派にひかれていました。私がバイザーの先生方とどのような論争をしていたかを考えるとそれがわかります。この年は「治療者の自己開示」も書いて分析研究に掲載されたということは、もうこのころは私は確信犯だったといえるでしょう。
 さて精神分析にどのような理論があるのかについて一通りの文献に触れたのが1998年くらいでしょうか。トピーカのインスティテュートに入ることを許されて19941998年にレクチャーコースを修了するころには一通りの理論に触れていたことになります。さて私が新しい精神分析理論を書き上げた1999年には、ほぼ今言っていることをその本の中で言っています。脳科学のことはあまり出てきませんが、「無意識はあまりに解剖学的に複雑すぎて、私たちには太刀打ちができない」、などのことを書いていますから、基本的な概念は脳科学由来です。またこの本で紹介した「提供モデル」という概念は、私が分析研究に1998年に発表しています。しかしこの本にはまだ1998年に出された Hoffman の「儀式と自発性」からの引用はありません。それは私が2003年に出した、続編ともいえる「中立性と現実」にやや詳しく紹介してあります。