健康な苦痛と不健康な苦痛
状況A: ある男性が奴隷的な境遇に置かれて、苦役を強いられて重い荷物を運ぶことを想像しよう。当人はそれを一種の虐待と感じ、そのような運命を恨むことになるだろう。その苦行を一生忘れまいと考えるであろう。これは一種のトラウマだろうか。おそらく。
状況B: ある男性が筋トレに励んでいる。彼はアームレスリング道にはまり込み、世界大会に出て入賞することを夢見る。重い荷物、ならぬバーベルを一日何百回も持ち上げる。これもある種の苦行であるが、彼はそれを嫌がっていない。それどころか毎日何回バーベルを持ち上げるかを決めていて、それを遂行しないことに我慢が出来ない。彼は夢に向かって歩んでいると感じ、バーベルを何度持ち上げようと、平気だと感じるかもしれない。
状況A,Bでその男性は同じ苦痛を味わっているだろうか。これについてはいろいろな意見があるであろうが、私はこれを一応等号で結びたい。苦しいものは苦しいのである。
あまりうまくない思考実験だがいくつか考えてみた。状況Bで一日100回バーベルを上げると決めていた人は、100回を超えると途端につらくなるかもしれない。「今日の分は終わったのに。」あるいは自分が全く鍛える必要のない筋肉に負荷をかけるトレーニングとなるととたんにやる気をなくすかもしれない。あるいは週に一日完全にオフと決めて楽しみにしていたとしたら、その日に急にトレーニングとなるときついかもしれない・・・・。うーん、あまり説得力がある話が出来ないが、要するに私は健康にいい苦痛と悪い苦痛を分けようとしているのだ。自分の為になっている苦痛か、為になっていない苦痛か、という違い。この議論は以前にした、冷房がない時代の暑さと、冷房がある(のに誰かのせいで使えない)時の暑さの違いとも似ている。あるいは階段で一人で足を踏み外して捻挫をした時と、誰かに押されて倒れて捻挫した時の違い。被害者意識が伴うことで苦痛は大きくなる。というよりは被害者でない時は苦痛そのものでもないのかもしれないとさえ思う。それはあえて言えば「現実」にしか過ぎない。昔の人は喉が渇いて水を飲みたいと思ったら、井戸端まで足を運び、筋肉を使って水をくみ上げた。これは一つの労働、労作である。今なら水道をひねるだけでいいだろう。いきなり断水になって、水を近くのコンビニに買いに行くとなったら面倒くさい、苦痛だと感じるだろう。でも井戸に水を汲みに行った時代の人は、これを苦痛と感じただろうか。単なる「現実」ではないだろうか。