私にとって関係論的な転回がいつ起こったのか?
年代から言えば私が最年長という事で口火を切らせていただきますが、私が精神分析に触れたのは、心を考えることを生業にしようと考えた医学部時代でした。しかしフロイトを読んだというわけではなく、唯一の例外は、医学生のころフロイトの夢判断を文庫で読んだという体験ですが、これには全く歯が立たないという印象でした。ただ心を分析する、という意味の精神分析は、フロイト理論だけではないとその頃は思っていましたので、精神分析に興味は持ち続けていました。
本格的に精神分析理論を勉強したのは、やはり精神科の研修医になり、小此木先生の指導を受けるようになってからです。このようなパーソナルな触れ合いというのは決定的ですね。目の前に偉大なロールモデルがいて、声をかけてもらえるという体験です。そしてその人のようになろうと思ったり、その姿に一歩でも近づこうとするわけです。1982年からの3年間、慶応の精神分析セミナーに毎週通いましたが、小此木先生はまだ50代の前半で最も脂が乗りきっていた時期といっていいでしょう。そこでフロイト、クライン、ウィニコットやフェアバーンなどの対象関係論、カンバーグ理論などについて網羅的に教えていただきました。小此木先生は百科全書のような人でしたから、何を聞いてもわかりやすく答えてくれる、しかも熱意をもってという感じでした。個人的に「岡野君、岡野君」とかわいがってくれたという体験は私にとっての宝でした。なぜならセミナーは10人程度のメンバーでしたから、先生は顔を覚えてくれたのです。私にはこの体験はとても大きいものでした。なぜなら精神分析ではそれ以降父親的な優しさを与えてくれる先生にはあまり出会わなかったからです。そして実に不思議なことに、その頃私はクライン派に対する苦手意識はありませんでした。私はその当時はどの理論がどのようなことを主張しているかについて、一生懸命勉強して覚えこむのに精一杯でしたから、それらの個々の理論に対する意見を持てるような状態になかったわけです。
その様なわけで私は最初はどの理論にも特に親和性を覚えていたわけではありません。ですから1987年(31歳)で渡米した段階では私の頭はまっさらで、すなわち全く無知で、だから「関係論的展開」も何もなかったのです。そしてそれから12年後の1999年には43歳で「新しい精神分析理論」を書きましたが、そこに書かれていることは、今の私の主張とほぼ同じです。その本にはホフマンも出てきていますし、「無意識はあまりに複雑すぎて、私たちには太刀打ちができない」などのことを書いていますから今と大体同じようなことをすでに言っていたわけです。という事は1987年に渡米してから10年間のうちに「展開」が訪れたという事になります。
さてもう少し私が「転回」にいつ頃至ったかを絞って考えると、1991年ごろ、35歳のレジデントの3年目には明らかにクライン派よりはコフート派にひかれていました。私はクライン派のバイザーのとらえ方に明らかに違和感を持っていましたし、レジデントの最終年度は自分に会ったバイザーを選ぶことが出来ましたので、コフート派の先生であるドクターキューリックを選びました。この年は「治療者の自己開示」も書いて分析研究に掲載されたということは、もうこのころは私は確信犯だったといえるでしょう。
という事は時期としては1987年から1991年までに、少なくとも好き嫌いははっきりしていったわけです。そしてこれ以降は
(1991年 治療者の自己開示 (これは匿名性についての再考です)
1996年 禁欲原則の再考 (これは文字通り禁欲原則の再考です)
1997年 自己開示再考、治療者が自分を用いること (これはある意味では治療者の受け身性に関する再考です。)と発表しました。
すなわちフロイトの基本原則、つまり匿名性、禁欲原則、受け身性についてことごとくそれをそのままでは受け入れるべきではないという立場を表明し、それぞれが「新しい精神分析理論」の主だった章になったという事は、私は1990年代前半にこの立場を形成したという事になります。そうしてこのような基本原則に対する相対的な立場に近い理論としてはコフート理論や関係論があったという事でごく自然に関係論に結びついていったという流れになります。