2021年6月10日木曜日

どのように伝えるか 推敲の推敲 1

 本論文では解離性障害の当事者に対して行う「実感と納得に向けた病気の説明」について論じるが、その背景には最近諸外国で論じられることの多い「共有意思決定Shared decision making (SDM)」という概念がある。これはいわゆるインフォームドコンセント(説明をした上での同意、以下IC)の先を行く概念であり、ICよりさらに丁寧な、いわばその患者寄りのバージョンと考えてもいいであろう。
 ICにおいては医者は患者に対して次のように語りかけるであろう。「このお薬は~などの効果と副作用がありますが、それをご理解なさった上で、よろしければこの書類にサインしてください」。それは以前にありがちだった「黙って私の出す薬を飲みなさい。」という医師の態度よりははるかに好ましいといえよう。しかしそれでもICの際に患者からは次のような不満が聞かれることも多い。「早口で説明されただけなので、実はあまりわかっていなかった。」「もっと時間をかけて分かりやすく、他にどのような薬があるのか、飲まなければどうなるかも説明して欲しい。」
 患者の側からすれば全くその通りであろう。そしてこれを目指すのがSDMというわけである。ただし医師の立場からすれば、SDMを実行することはとても手間と時間のかかることでもある。薬一つを処方するために最初に患者に説明すべきことはたくさんあるが、大概はそれだけでは終わらない。さらにその薬AをBに替える際には、Bの副作用のリストアップをして、またAからBに具体的にどのように切り替えるのか、Aの量をどのようにして減らしていき、どのタイミングでBを始めるか、など説明も必要になろう。ところがその説明の為に患者一人当たりの外来の時間を延ばす余裕はほとんどないというのが多くの臨床家の実情である。
 そこで私が本稿で述べる内容は、SDMのための時間が比較的潤沢にとれる際に行う患者への説明についての提案だとお考えいただきたい。なお類似の論考については岡野(2012)をご参照されたい。
1. 治療者が理解しておくべき前提-解離性障害の診断を惑わす要素

まず医師に対して私から「説明」をさせていただきたいことがある。それは解離性障害を理解し説明するに際してご理解願いたい事柄である。それはその診断を惑わすいくつもの要素があるという事だ。

解離性障害が含みうる症状が幅広いということ
 解離性障害の分類は徐々に精緻化し、細分化してきている。たとえば最新のICD-11の分類では、従来の「転換性障害」の代わりに「解離性神経症状症 Dissociative neurological disorder という呼称が与えられている。そしてそれはさらに以下の下位分類を持つ。
視覚症状を伴うもの、聴覚症状を伴うもの、めまいを伴うもの、その他の感覚変容を伴うもの、非癲癇性の痙攣を伴うもの、発話障害を伴うもの、脱力または麻痺を伴うもの、歩行症状を伴うもの、運動症状(舞踏病、ミオクローヌス、振戦、ジストニア、顔面けいれん、パーキンソニズム、のうちのいずれか)を伴うもの、認知症状を伴うもの。
 すなわちこれは解離症状が神経の障害のあらゆる表現形態を呈する可能性があることを表している。それは精神科のみならずあらゆる身体科の症状と、見た目は類似する可能性がある。精神疾患の中で、そのような性質を有するものは解離性障害をおいてほかにない。そして大概の場合症状が現れた時点で神経内科や身体科を受診することとなり、そこで診断がつかずに精神科に送られ、最終的に解離性の病理が同定されるケースも多い。
 解離性の身体症状の中でも痙攣はしばしば精神科医と神経内科医の両方にとって混乱のもととなっている。これが従来偽性癲癇、ないしはNon-epileptic seizure (NES, 非癲癇性痙攣)と呼ばれる病態であるが、この偽性癲癇の患者の50%は真正の癲癇を伴うという報告もあることだ(Mohmad, et al. 2010)。すなわち真性癲癇と偽性癲癇は共存する可能性が高いという、診断する側にとっても非常にややこしい事情がある。
統合失調症のような症状を呈すること
 解離性障害のもう一つの問題は、それがしばしば精神病様の症状を伴うために、診断を下す立場の精神科医の目を狂わす可能性が高いということである。しばしば語られることであるが、DIDのケースは「シュナイダーの一級症状」を統合失調症以上に満たすとされる(Kluft, 1987)。考案者のK.Schneider は「(一級症状)が異論の余地なく存在し、身体的基礎疾患を見いだすことができない場合、われわれは臨床上、謙虚さを持ちつつ統合失調症と呼ぶ」としたとされる(Schneider, 2007)。以来長きにわたってこの一級症状は統合失調症を臨床的に診断する上での決め手と考えられてきた。特に「させられ体験」と「会話しコメントする声」は、DSM-Ⅲに始まりICD-10に至るまで、統合失調症の診断の一部に組み込まれたくらいである。(ちなみにDSM-5においては大きく方針が変更となり、一級症状を重んじる立場は見られなくなった。)
 多くのDIDのケースを手掛けたKluftは、この一級症状のうち特に「させられ体験」(特に感情領域について)、「考想奪取」、「思考吹入」等が多くみられる一方では、「考想化声」、「考想伝播」、「妄想知覚」については一例も見られないとした(Kluft,1987)。この主張は筆者の臨床経験とも一致するが、一つの大きな疑問を呈してもいる。果たしてSchneider が見ていたのは、統合失調症の患者だったのか、それともDIDとの混合だったのか、という点である。DIDの概念が当時の精神科医の間でほとんど整備されていなかったことを考えると、E.Bleuler やSchneiderが扱っていたケースにはSchizophrenia に交じって解離症状を呈する多くの患者が含まれていた可能性もあるのである(O'Neil, 2009)。
 私がここで強調したいのは、統合失調症のようなメジャーな疾患でさえも、その診断基準や分類はその時代により大きく変わり、それまでの常識が覆ることもあるということだ。(破瓜型、妄想型、緊張型などの精神科医にとってはなじみ深かった分類がDSM-5で消えてしまったことを考えればそれがよく分かる。)その意味では「幻聴と聞いたら統合失調症」という従来の精神医学的な常識も疑い直さなくてはならないのである。
 実際にはDIDにおける幻聴や周囲の人々との体験に関係念慮的なニュアンスが加わることもあり、それは重症対人恐怖症における精神病様症状の鑑別の難しさに通じるところがある。結局DIDの診断には症状の縦断的な流れを聴取することがとても重要になるのだ。幼少時から生じている解離様症状については、それがDIDの症状であるという可能性をより強く考えつつ、場合によっては統合失調症との併存を考え、少量の抗精神病薬を用いて反応を見ることも試みることも考えるべきであろう。通常解離性障害における精神病様症状は抗精神病薬にあまり反応しないが、DIDの方で抗精神病薬を少量服用することでより安定する場合がある。
詐病のようなふるまいをすること
解離性障害について理解を深めるうえで重要なのは、その症状のあらわれ方が、時には本人によりかなり意図的にコントロールされているように見受けられることである。その理由についてはすでに述べた通り、解離性の症状が精神科のみならず身体科のあらゆる症状を示す可能性があるからであり、このため一般科の医師のみならず本人にとってもどこまでそれを意図的にコントロールしているかがわからなくなってしまう場合もある。
 ある患者は台所でネギをトントンと刻んでいるうちに足も同じリズムでガクガク言い出し、ついには両足が痙攣のような動きをし始め、コントロールが出来なくなってしまったという。その患者は一時は救急車を呼ぶことも考えたというが、その症状はほどなくして治まった。しかしそのような訴えを聞いて「自作自演ではないか」という疑いの目を向ける精神科医も少なくないのではないか? また別のケースではあるDIDの患者が診察室を一歩出た際に、それまでの幼児人格から瞬時に主人格に戻って受付で普通に会釈をした。その様子を観察していた看護師から、患者がそれまでは幼児人格を装っていたのではないかと疑われた。
 これらの事情から解離性障害は詐病扱いをされたり、虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)を疑われたりする可能性が高い。また一般に解離性障害の患者は、自分の障害を理解して受容してもらえる人には様々な人格を見せる一方で、それ以外の場面ではそれらの人格の姿を消してしまうという様子がしばしば観察され、それも上記のような誤解を生む一因となっているのであろう。治療者はその様な扱いを患者が受け続けてきた可能性も含めて話を聞き、それまでの苦労に理解を示すことも重要になってくるであろう。そして何よりも解離性障害を扱う臨床家は、そのような「疑い」の気持ちを起こさせる傾向を自分たちの中に見出すことも大切である。