2010年9月15日水曜日

怒らないこと その9.それでも人はなぜ怒るか?

怒りの問題も奥が深い。最近少し考えが進んだ気がする。私はいいオトナが怒ることといったら、ほとんどが何らかの形でプライドを傷つけられたことによる、いわゆる「自己愛憤怒」であるということを述べた。子供なら転んで膝をすりむけば泣くだろう。でもオトナはそんなことでなくわけはない、体にうけた傷など全然たいしたことはない。もっとつらいこと、それは自分のプライドにつく傷である。その時人は涙を流すし、その苦痛を怒りに置き換えるわけだ。
これは怒りを恥と自己愛の文脈から理解する方針だが、それ以外にも怒りを説明出来るように思える。最近私が繰り返している「強い存在には怒ってもいいのだ」という主張も、実は自己愛だけでは説明がつかないのでは、と考えるようになった。強い存在(こちらにハラスメントをしおおせる存在)は、ビクともしないと思えるからこそ、手ひどく批判をしたり攻撃したりできるわけだ。つまり後ろめたさを感じることがないからこそ怒りを表現できるというのであれば、人は攻撃性を本能の一部として持っているということになり、それではフロイトに戻ってしまう。これでは困る。
私は自分でも怒らない方だと思っているが、朝、夕の通勤時には、腹を立ててぶつぶつ言いながら歩いている。駅の通路の真ん中で通行人の流れを邪魔していることも忘れてケータイの画面を見つめながら歩いているおじさんを見ると、「バッカモーン!ケータイなんかしまって前を見てあるけ!!」などとつぶやいている。(もちろん相手には聞こえない程度に抑えている。)通行人は私とは何の個人的な関わりもないから、言わば「モノ」のような存在である。だからこうやって怒れる。やはり人は理由を見つけては怒りたいのか?
私はこの種の怒りを、攻撃性そのものよりは、いわゆるエフェクタンス動機づけ (effectance motivation, White, 1959)と結び付けたい.人は自分の意思や行動が世界に変化を与えるという
体験を無条件に求めるところがある。それがもっとも手っ取り早く得られるのが、人を傷つけ、苦痛を与えるという行為であろう。でもそれ自身が最終的な目的ではない。効果器動機付けが攻撃という形で生じるのは、相手がとてつもなく兄弟で、傷つくとは思えない時、相手がモノのように見えている時、ゲームなどのフィクションの世界の中で発揮される時である。でもこれは同様に人に幸せをもたらしたり、破壊する代わりに想像したり、傷つける代わりに癒したりすることでもこの効果器動機づけは働くのである。
もちろんサディスティックな人間の場合は話が別だ。その場合には怒りと攻撃により相手を傷つける行為は、それ自身が快楽的になってしまう。そうなると怒ること、相手を攻撃することは、もうその人の人生そのものになるだろう。
結局何を言いたいか。怒ることには、それがeffectance motivationの満足につながり、それ自体に快楽的な要素があるために、私たちはなかなかそれから逃れることが出来ない。快楽を伴う行動は、それを行う人をいくらでも自己正当化に向かわせる。こうして「汝怒る事なかれ」は非現実的で非人間的なスローガンと思われてしまうのだ。