2010年9月1日水曜日

怒らないこと その6    怒りが人を動かし、歴史を作る

最近小沢さんワッチングをしていると飽きない。

私は基本的には内向的であるが、思考の材料は常に外側の世界に実際に生きている人たちにある。人間観察は非常に面白い。人が何に突き動かされているかを見る。既存の理論はいったん頭からはずす。(というより、あまり勉強していないから知らないのが実情。)ただし身近な人はそれだけ細かく観察することが出来るが、書くことは出来ない。ところが著名人はいくらでも批判して、料理してかまわないので気が楽である。材料はマスコミがいくらでも提供してくれるし、守秘義務については私に責任はない。それに著名人は「強者」であることが多く、そのために私も心置きなく批判ができるのである。

その中でも現在は小沢一郎さんが実に面白い。色々な要素を備え、また私が関心を持つ「恥ずかしがり屋のナルシシスト」のプロフィールにしっかり合致している。

これまで「汝怒るなかれ」、などと書いてきたが、はっきり言って怒りほどその人を突き動かし、夢中にさせるものはない。あの引っ込み思案で何を考えているのか分からなかった小沢さんが、人前で堂々と論戦を交えようとしているではないか。菅さんの言葉(「しばらくおとなしくしていただきたい。」)が小沢さんに火をつけたのである。
昨日も書いたが、怒りは対人恐怖傾向を帳消しにする。私にも体験があるが、米国でも相手に馬鹿にされた、挑発された、と感じたときは、なれない英語を操りながら、いつもの気弱な性質はどこへやら、いくらでも相手に挑戦的になれたのを思い出す。その意味で理不尽な人に囲まれ、馬鹿にされる、という体験はむしろ対人恐怖的な殻から抜け出る上で大切であったりするのだ。
ただしその怒りは、基本的にはtoxic (毒のある)で傍迷惑な怒りである。それは他人を害し、貶めることでしか治まらない。その人個人には勇気を与えてくれるが、社会の人々のためになるとはとても思えない。小沢さんはその怒りの刃で噛み付き、破壊することでしか止まることはないのである。
しかしそれを見ているものは、興味津々である。「恥と自己愛の精神分析」の一つのテーマは、「引っ込み思案の目立ちたがり屋ほど複雑で、また面白い存在はいない」というのであった。それはまたとんでもない人騒がせな人たちでもある。小沢さんは、いくつの党を壊してきたのだろうか?
1993年に自民党を離れた小沢氏は、新生党、新進党、自由党などさまざまな政党を結党しては消滅させてきた。小沢氏の党運営をめぐって党内対立が激化する中で行われた97年の新進党党首選では、後に公明党代表となった神崎武法氏や岡田現外相らが推した鹿野道彦氏(現民主党衆院議員)を破ったものの、直後に同党を解党し、政界を驚かせた。(以上はネットの記事からの無断引用。)

 ここに怒りというものの持つパラドックスも明らかになっている。怒りは精神を蝕み、他人のみならず自分を不幸にすることが多い。しかし怒りはまた本人が自分の殻を抜け出し、自分の思いを表現するための媒体でもある。怒りの表現は他者の憎悪を掻き立てる。丁度菅さんの「小沢、すっこんでろ」がとてつもないエネルギーを小沢さんに与えたように。それは望むと望まざるとに関わらず、私たちの精神生活の一部に複雑さと彩を与えるのである。