2010年9月17日金曜日

怒らないこと その10. 叱責は違う ただし怒りと似た回路が働いている

汝怒るなかれ、のテーマを続けている。「怒る」のと似て非なるのが「叱る」である。
怒るのが苦手な私は叱るのも苦手である。叱るのは明らかに上から目線であるし、よほど自分の主張に確信がない限りは出来ない。私はそれだけ自分に自信がないのであろうが、、人が人を叱っている姿を見ると、これはアリだな、と思う。例のヒメチョウゲンボウも、実はまだ未熟な雛をドツきながら、「叱って」いる、という方が近い気がする。時には叱責が人を変えるし、それが愛情表現だったりする。でも叱ることは時には「怒る」と紙一重だったり、区別ができなかったりする場合があるのだ。
先週日曜の龍馬伝の中に、龍馬が、芸子のお元を叱責するシーンがあった。薩長連合について江戸幕府の関係者に密告するお元に、その行為をやめさせようとして、龍馬が「俺はお前さんのことを思って言っているんだよ!」(土佐弁でどういう言い方だったか忘れた)と一括するシーンだ。
一応龍馬伝の龍馬の生き方は肯定してかかることにしている私も、相手に「お前のためだ」と叱りつけるのは胡散臭いと感じた。しかしそれでも説得力はあった。相手にしっかりメッセージを伝えたい時、人の声は大きくなり、目は見開き、あたかも叱りつける様になる。でもそれは相手に対する熱意ではあっても怒りとは違う。いやまったく違うというわけではない。どこか怒りと回路が共通している(精神科医のくせにこの曖昧な言い方はなさけないが。)叱責も相手のある面を否定し、変化をすることを強要する。「余計なお世話」かも知れないし、叱る側の独断やエゴイズムの表れかもしれない。でもエゴイズムを差し引いても残る部分があるとき、叱責は人を救い導く。
でも叱責と怒りは生理的にも似ているためにそれを区別しない人が、叱責の形をとって怒りを表明する。それが問題なのだ。お前のため、と言いながら人を傷つけている。いつの間にか自分の快感になってしまう。だた親は、師匠は叱責が怒りに踏み込んでしまうことををあまり気にしないんだろう。叱責≧怒りならOKとするのだ。しかしこれが逆になると、つまり怒り≫叱責となると、そしてそれについて本人が気がつかないと・・・・・それが虐待になるのだ。