2010年9月9日木曜日

不可知性 その13. 陰陽師と不可知性

昨日、NHK で奈良時代の占い師である陰陽師についてやっていた。貴族の日常生活に、戦乱時の戦略の選択に、彼らの存在は欠く事ができなかったという。これは不可知性との関係で興味深い。私たちの祖先が自然界の不可知性とどのように戦っていたのか、ということを教えてくれる。
私たちは日々平穏に毎日が過ぎることを願う。ところがおおむね穏やかで何事もない日々は、時々とんでもない最悪により揺り動かされる。そして再び平穏が訪れる。
おそらく古代人の毎日というのは、いつも怯えながら、災厄が降りかかることへの心の準備も忙しく、生活をしていたのであろう。自分の身体とは、自然とは予想不可能なもの、という感覚は私たちよりはるかに大きかったに違いない。たとえば昨日の関東の豪雨。24時間前に予想することなど、古代人には絶対に不可能だったはずだ。ところが今の私たちは、あれほど予想を超えた動きをする台風9号も、レーダーである程度追うことが出来、その振る舞いも予測できていたのだ。
では私たちの世界の不可知性が低下したのかといえば、案外そうでもない。台風だって、その動きが読めれば読めるほど、不可知な部分が細かくなっていくだけだ。気象庁に「木曜の朝には太平洋側に抜けるって雨は止むって予報していたのに、外れたじゃないか。おかげで傘を持たずに家をでたからずぶ濡れになったぞ。」と苦情が舞い込み、「すみません。台風の動きというのは、予想外ですので」という言い訳が聞かれるだろう。より正確になれば、それに従って生活も合わせようとし、結局わずかな不可知性も、同じように大きなものに感じられてしまうだろう。そのうち「おい、予報では雷は4時14分に落ちることになっていたじゃないか。2分早く落ちたからコンピューターのスイッチを切っていなくて、黒焦げになったぞ。弁償ししろ。」「すみません、何しろ雷の予想はなかなかつかめず、常に予想外のことが・・・・・。」
陰陽師の役割は、自然が不可知であればあるほど、重要になる。予想可能なものの観察をして、そこに見える予想外の動きを捉え、例えば都に起きる災いを予想する。最低限予想可能なところまで降りて、そこからすこしでも不価値な自然をコントロールしようとする。一番ブレないのは天体だ。すると「彗星の尾が西に傾いたから不吉だ」ということになる。
これをやるのは、現代に生きる私たちも同じだ。ただ私たちは予測可能な自然を自分の中につくる。陰陽師たちが見ていた天体を、私たちは自分の中に作り上げようとする。そしてそれをコントロールすることで、本来は予測不可能な周囲の世界をコントロールする。験担ぎとはそれだ。いつもと同じ手順で準備体操をする。勝った時と同じ方の足からグラウンドに出る。毎日昼にはカレーを食べる・・・・。結局イチローさんの話になってしまった。