2010年9月13日月曜日

恥と自己愛 その11.  「わかったふうなことを言わない」ことの難しさ

イチローが10年連続200本安打まで、あと19試合で14本のところまで来ているという。そろそろ本気で期待していいのだろう。何しろこれほど純粋に喜べ、自己価値感が高まることはない。「イチローは天才である。そして彼は日本人男性である。ちなみに私も日本人男性だから、私もエラい」というかなり無理な論理だが、完全な誤りというわけでもない。それに一応タダである。(それに比べると巨人は困ったものだ。夏になってから「巨人なんて知らないモン」モードに入るのに苦労したじゃないか!イチローはそういう裏切り方をここ10年しないでいてくれるのである。)
アメリカにいるときも、日本に帰ってからも、精神科医が気に食わない、という患者の話を散々聞いた。以前にあったことのある精神科医について患者から尋ねると、いい話などほとんど出てこなかった。私の同僚のメキシコ人の精神科医は、ちょっとシャイで言葉が少ないところがあった。かなり知的で持って回った話し方はするが、根はいいやつであった。しかし患者の目からは「気取っていて、何を言っているかわからない。患者を馬鹿にしているような雰囲気があった」となる。もちろん私も自分自身について「偉そうにしている」とある患者が言っているという話を聞いた。(ただし言葉の不自由な東洋人の精神科医が、「偉そうにする」のは結構難しいはずだったのだが。)米国では少なくとも私が勤めていたクリニックは生活保護 disability の給付を受けている人が多く、医師はたいてい彼らに比べて高学歴で裕福である。するとよほどのことがない限り、「あの医者は自分たちを下に見ている」となる可能性がある。デフォールトがこうなのだ。何もしないと、普通なら偉そうにして人を見下している、と思われるのであるから、それがいやならよほど腰を低くしていないとそれを代償できない。それもかなりエネルギーを発揮して、無理をしてへりくだる必要があり、そうなるともう「そういうものなのだ」とあきらめることになる。

ただ私が常に考えているのは、患者に対してなるべく「わかった風なことを言わない」ことにしようということだ。外見から判断されることはどうしようもない。オヤジは見た目で既に人を威圧したり、怖がらせたりするものだ。しかし話し方まで「偉そうに」はしたくないものだと思う。ところが気がつくと「偉そうに」「わかった風な口のきき方」をしている自分に気がつくのだ。

それに50歳を超えると、何もしていなくても「落ち着いている」「ベテランだ」「安心できる」などといわれることが多くなる。若い頃は何をしても、何を言っても信用されない気がしていたのに、年をとると逆に見た目でなんとなく信用してもらえる。「自己愛のフリーラン」がおきる条件はほぼ整っているのであるのだ。

ここでまた小沢さんを思い出す。彼はたしか68歳。貫禄があり、コワモテだ。彼がギロリと睨むと泣く子も黙る。でもそれに頼るのはよろしくない。というか私には納得できない。あの顔で頭のてっぺんから甲高い声を出したりでもしたら、効果は半減するだろう。

私の場合はアメリカにいるときは、何しろ言葉が威厳を保つことを邪魔にしていたので、もっともらしさを演出できなかった。人と言語的に交流することそのものがストレスであり、緊張の連続であった。でも日本に帰ってからはそれが急になくなり、人と話すことが昔に比べたら苦痛でなくなってきている。それにもともと姿勢が悪く、人の話を聞きながらいつの間にか足を組んだり、頬づえをついたりする。ひどく横柄であるが、見方によっては余裕たっぷりでリラックスしきっているように見えるらしい。すると多少自信がなくても、患者さんの話に「うーん、確かにそういうことはあるかもしれないですね。」などというと「年配の精神科医が、同意してくれた」ように聞こえるらしい。「それはね、たぶん~ということなんだろ思いますよ。」などというと、これがまたもっともらしく物事を説明しているように聞こえてしまうようなのだ。

見た目その他の余計な要素に頼ることなく、人とコミュニケーションを行ない、メッセージを伝えたいと思う。あのタケシなどのスタンスにもそのような意志を感じる。