2010年9月16日木曜日

自己開示 その2.  だって人の弱音や泣き言ってウザいでしょ

朝の通勤時はひどい雨. 一日の始まりとしては最悪.

精神分析では、治療者が自分の情報を患者側に伝える(漏らす)ことに非常にナーバスである。それはフロイトの唱えた「匿名性の原則」に反するからである。フロイトがこの原則を作ったのにはそれなりの根拠があったわけだが、それが誤解された場合は、それこそ治療者は白紙でいなければならないことになってしまう。それでは治療者としての力が半減してしまいかねないというのが私の立場だ。
でも私は基本的には「慎重派」である。治療者は自分に関することは、ほとんど何でも話せる用意をしておいて、そして口をつぐむのが理想だと思う。しかも治療に不必要だったり、不適切だったりすることに付いては語るべきでない、というのが私の立場だ。
なぜ自己開示に関して、治療者がなぜ慎重にならなくてはならないか。それは「品性」や「奥ゆかしさ」と関係する、と言ったのが 9月4日のブログであった。なんとなく気恥ずかしい内容だが、概ねはまちがっていないだろう。それとまったく関係がないというわけではないが、自己開示の最大の問題は、それがしばしば他人に不快感を与えるということであろうと思う。精神分析では、治療者が自分のことを語るのは、「匿名性の原則」に反し、患者が治療者に対していだくファンタジーや転移の可能性を制限する、と考えた。しかし私はこれはどうも「上から目線」の主張であると感じる。そもそも患者は治療者のことを常に、限りなく知りたがるという前提を設けているところがあるからだ。私は自己開示を戒めることの本質的な意義はもっとシンプルだと思う。それはそれが多くの場合ウザくて、はた迷惑だからだ。
およそあらゆる文化を超えて言えるのは、自分の体から出たものに関しては、不浄のものとして人目に触れさせないことである。特に消化管系から出たものはそれだけで周囲を汚染して迷惑を掛けるものとみなされる。人間が自分に関することについて垂れ流すことは、嘆きに関しても自慢に関しても、他人を汚染する可能性がある。それもそのはず自分から出てくる言葉や行動は、言わば排泄物のようなものだからだ。
自分に関しての語りは、どんな日常些細なことについても自慢が入り、他人への当て擦りや揶揄が込められる。人は基本的には吐息と一緒に毒ガスを振りまいていると言っていい。治療者はそのことを常に意識していなくてはならない。
自分に関しての語りは、どんな日常些細なことについても自慢が入り、他人への当て擦りや揶揄が込められる。人は基本的には吐息と一緒に毒ガスを振りまいていると言っていい。治療者はそのことを常に意識していなくてはならない。
では人はどうして他人の話に耳を傾け、自伝を読み、そのパフォーマンスをお金を出してまで観に来るのか。それは私たちが同時に他人に興味を持ち、刺激をうけることを望むという面を持つからである。つまり毒ガスを心地良く感じる聴衆が存在して初めて成り立つことだ。それ自体が実は非常に偶発的なことなのである。だから自分が好みの俳優の出ているドラマを他人に薦めても、たいていは迷惑がられるのだ。
それともうひとつ、表現者は自分の行う表現に人を感動し、心地良さを与えるような形式美を与えることが出来るからだ。
ところでこのブログ・・・・。かなりはた迷惑なことはわかっている。
(なんとなく中途半端なので・・・・続く)