2010年9月4日土曜日

自己開示について 1. 自己開示と品性

今日もまた・・・・。
小沢さんワッチング:「普天間の問題をもう一度」とか、「消費税はしばらく上げずに無駄を省く努力を」とか。もし菅さんとの差別化を図るために言っているのであれば、本当にとんでもないことだよね。おそらく政治家にとっての言葉は本当はどうでもいい代物なんだろう。いくらでもレトリックを用いて言い逃れることが出来るから。それにしても小沢さんの「(普天間についての)アイデアがあるとは一言も言っていませんよ。」という開き直りにはびっくりする。
こんなブログを書いていてさえ、何をどこまで書くかは大事な問題であり、かなり配慮しているつもりである。もちろん自分に関わっている人は、カミさん(ブログを読まない)と犬のチビ(字が読めない)以外にはかなり気を使い、迷惑はかけないようにしているわけだが、自分についてもこれでもどこまで書くかには注意している。
といって「これ以上知られたらまずいから」ということではない。私は普段品行方正であるから、知られたまずいことはあまりないのだ。むしろ自分をどこまで出すかは品性の問題だからだ。(この私が言うのもナンだけれど。)「気弱」な人間は、自分の事を周囲に知られるのは、なんとなく汚染する、迷惑をかけるという気持ちが先に走る。小沢さんでさえ、怒っていない時は、人前に顔をさらすとき、そんな気持ちが頭を掠めるだろう。引っ込み思案の心理だろう。
私は基本的には人は他人の情報を疎ましいものだと思う。自分のパーソナルスペースに入ってくるものはたいてい煩わしいものだ。満員電車に乗ると、アカの他人とだた接近しているだけで、あれほど不快ではないか。アルコール臭い息を吹きかけられなどしたら、最悪だ。そして他人に関する情報もそうである。もちろん特定の他人について知りたくなることもある。しかしそれは関心を持っている人、自分にとってのアイドル、ないしは自分に馴染んでいる人についてである。
それにもかかわらず人は自分の情報を他人に伝えることにあまり頓着しないことが多い。それにより周囲が煩わしく思っていることにも注意を払わないことが多い。となれば自分が自分をいかに表現せず、自分だけでとどめておくかは、むしろ対人スキルやエチケットの部類に属することになる。あるいは熟練や品性が要求されるような、一種の芸のようなものかも知れない。
さて治療者の自己開示の問題。やはりこの延長上にある。患者が「私は●●県出身です」、といい、患者が偶然同郷だと知った治療者が「そうですか、実は私もなんです」と思わず言ったとしても、また出かかった言葉を呑み込んだとしても、そこには非常に多くのファクターが関係している。「治療者は自らを示すなかれ」といういわゆる精神分析の匿名性の原則は、それをあまりに単純化した原則でしかない。