2010年9月3日金曜日

仙台は暑かった

今日はこれから心理臨床学会に日帰りで出かけるので、ブログを書く時間は本来ないのだが・・・・。執筆の仕事が多く、ブログを書く暇はないのではないか、といわれるが、これは「余暇」なので、しっかり遊びの時間はとっています、ということだ。・・・・・・・。あるいは論文を書こうとして、なんとなくダラダラとネットを見てしまう、というのとも似ている。

ということで東京に戻ったのはもう夜10時近くになっていた。杜の都はものすごく暑かった。出来れば秋の気配漂う東北大学の雰囲気を味わいたかったのだが。でも人の心を救うための方法、つまり心理療法を学ぼうとする人々はどうしてこんなに多いんだろう。心理療法士が決して際立った高給取りではなく、また職場も決して売り手市場とは言えない以上、ここに働いているのは決して経済原則ではない。心理療法という仕事への憧れ、あるいは理想化もそこにはあるのだろうか。
小沢さんワッチング。今日のNHKで見た小沢さんは幾分リラックスし、いつもの硬い緊張をはらんだ雰囲気が影を潜めていた。やはり彼が聴衆の前で放つ独特のオーラのようなものは、彼自身の対人緊張から来ているのか。そして今は怒りに後押しされた臨戦態勢にあるので、そこから解き放たれているもかも知れない。
先日の小沢、菅対談について考えているが、共同記者会見での報道陣の果たした役割も面白い。質問者は、まるで治療者の直面化の機能を果たしているようだからだ。もちろん小沢さんを表立って挑発はできない。怒り出すとこわいし。質問者はその裏の裏の意図は別として、質問そのものはさらっと、感情を交えずに行う。すると小沢さんは、怒るに怒れない。そうやってたとえば、普天間基地の問題も「具体的な策はない」という言質を引き出した。小沢さんにしてみれば、「言わされた」感じで不快だった出あろうが、しょうがない。質問者はあくまでも小沢さんの先日以前の言葉を引用して、明確化したからに過ぎない。
治療者も同じように明確化を行うのだが、記者と違うところは、記者はニュースに膨らますことのできるような言質を相手から引き出すことを狙っているところだ。その意味では質問をされる側は、わなにかからないように注意することになる。質問者の側はあくまでも利己的な意図で(というよりは会社の利益のために)それを行うのだ。でも治療者はそうではない。政治家が言質をとられることで「はめられて、言わされた」と思うのであれば、治療者はその種の被害者意識を患者の側に持たれたら負けである。患者と治療者が共同作業をしている以上、患者の観察自我と治療者がともに協力して、患者の病的自我の言質をとる、という方が近いだろう。ただし観察自我と病的自我がそんなにはっきり別れているはずがない。直面化により自らが目をつぶっていたことを認めることに苦痛を伴わないわけがない。
ふと、私の小沢さんに対する見方は、ぜんぜん違っているのか、戸も思う。かなり読み込んでいるからだ対人恐怖傾向を持つもの同士の性とってもいい。
さてテーマは「禁欲原則」であった。確かに小沢さんは「壊し屋」なのだろう。結局は自分がその成立に関与した政党を割ってしまう。小沢さんが「懲りない」こととも関係している。ヨラさんが、小沢さんの持って生まれた佐賀だ、というようなことを一定敵が着いたのだが、まさにそういうところがある。そして、彼が分析を受けてもそれは換わらないだろう。ある点を越えたら、絶対に聞く耳を持たないからだ。