2023年7月25日火曜日

連載エッセイ 6の8

  ただしこの体外離脱体験の場合、「誰かに見られていました」というBさんの声が聞けないことも少なくない。普通はそうである。あくまでも体から離脱したという体験が語られることが多い。というのも体の方に残った意識の体験はしばしばボンヤリしたもので、記憶に残ることは少ないからだ。あるいは「何か夢を見ているようだった」と表現することが多い。つまり体験としての解像度は低く、そのスペックもかなり小さいということになるだろう。白黒画面で、それも視界にボンヤリ何かが映っているような、うつろな体験。寝ぼけている時の私たち、あるいは麻酔薬が効いていて朦朧としているような状態がこれに相当するであろう。そしてこの感覚の解像度の低下はとても重要な事であり、そもそもこの種の意識A,Bの解離は、痛みを軽減し、その為に心身を麻痺させるという目的があったからである。 

 さて以上は体外離脱という、多くの私たちが実際に体験する可能性のあるものである。そして意識A,意識Bとの間には解像度の差があり、どちらかが優勢で、もう一つの方はあまり記憶に残らないという傾向にある。しかしいわゆるDID(解離性同一性障害)等の場合、人格Aと人格Bはかなり対等で、主格の差がないような体験となることが多い。Aが現実の世界である体験をしている間Bはそれを傍観する。別の場面ではそれが逆転するという形をとるのだ。そしてAさんとBさんは別々に自分の体験を語ることになる。

  ここでも通常A,Bが混じることは普通は起きない。つまり「私はAとして相手を見ているのと同時に、Bの立場になって見られていました」という証言は得られない。あたかも二人の別々の人間が、別々の体験をしていることと同等のことが起きる。言い換えれば心は複数同時に存在することになる。

  解離性障害の脳科学的な理解は、まさにこのことから始まるべきなのである。ところがその糸口は事実上得られていない。何度か強調したことであるが、古今東西の哲学や文学や精神医学は、心は一つという前提や了解事項を抜け出していないのだ。私がこの連載でかつて5回にわたって論じた内容も、特に解離現象について論じなかったわけであり、結局は心が一つという前提を抜け出していなかったのである。意識やクオリアといった、心にとってあれほど本質的な事柄について論じた前回も、心の多重化などということについては私は全く触れなかったのである。


脳で何が起きているのか? コンピューターとのアナロジー


  さて解離とは何かを読者の皆さんにもなるべく直感的に分かってもらえるように、幽体離脱の例を挙げた。もし自分が、あるいは目の前の友人や家族が解離を起こした場合、それを体験的に理解しようとしたら体外離脱のようになる。これは体験としてそうなるという事ではあるが、その時に脳科学的に何が起きているのか、ということについては、本当のところ何もわかっていないとしか言いようがない。

 考えても見て欲しい。心は脳の活動から生み出される、というのが私たちの基本的な考え方である。前回も述べたいわゆる「随伴現象説」だ。そしてその心の存在は、その人の言葉や表情や行動により表される。これは常識的に私たちが前提としていることである。ところがその人は、ある時は私はAだ、と主張し、また別の時は自分はBだという。これをどう説明することが出来るだろうか。

 この議論を進めるにあたり、コンピューターのアナロジーに勝るものはない。そこで「自分はAだ」と名乗っている時には、Aというアプリ、ないしはプログラムが起動していると考えよう。そして今度は「自分はBだ」という時はBというアプリが起動している。このようなアナロジーを考える。このように考えると、人格が二つ存在するという状況を想像することは比較的容易だろう。

 おそらく一番好都合なのは、AというアプリとBというアプリが互いにスイッチするとという状態になぞらえることだ。このように考えると人間の脳の働きについて、何も特に新しいシステムを考える必要がない。人の心は常に各瞬間には一つの心しか起動していないことになる。

 ただしアプリAは、アプリBが立ち上がるや否や、あるいはその前の瞬間に終了しなくてはならない。昔のファミコンでいえば、二つの別々のゲームA,Bというカートリッジをさっと入れ替えることになるだろう。何しろ二つを同時に差し込むことなどできないのだから。このモデルを意識(ないしはアプリ)の「すり替わりモデル」と呼ぼう。

   ところが実際はこうではないことを私たちは知っている。それは幽体離脱を体験した人が証言することだ。Aさんの状態で「私は~と言いました」と言い、Bさんの状態で「私はAが~と言っているのを内側で聞いていました。」ということは、アプリAとアプリBは同時に起動していて、一方が他方を、あるいは互いに相手を観察しているということになる。これは「すり替わりモデル」では説明できないことだ。

 さてコンピューターの操作に慣れている私たちは、実はこのことに驚かないだろう。ユーチューブの音声だけを聞きながら、ワードで文章を作成する、などのことを私はしょっちゅうやっている。複数のアプリの同時の起動など当たり前のことなのだ。

 

2023年7月24日月曜日

連載エッセイ 6の7

 全体で12回(一年間)という約束でお引き受けしたこの連載も、今回が6回目である。すでに曲がり角に来たわけだ。最初はどのような方向に筆が向かうかを分からずに、ただ書きたいことはいくらでもあるだろうと思い、書き始めた。その後はだいたい前回の内容に連続性を持つ形で執筆することにしている。全体的な方向性はまだ見えてこないがあまり気にしていない。脳科学とは膨大な領域であり、しかもわからないことばかりだ。体系立てて論じようとしてもその手掛かりがつかめないのだ。そこで書いているうちに自然と方向が定まるだろうと思い、書いてきた。
 このようなあてどのない連載を読む方々には迷惑な話かもしれないが、実は書いている私は確実に考えが進んでいる。その結果として見えてきた部分とさらに見えなくなってきた部分自覚されるようになってきているのだ。
 ただしここまでの、心とは何か、脳とは何か、AIとどこが違うのか、というやや漠然とした議論よりもう少し具体的な話を読者は期待しているのではないだろうか。例えば精神医学の対象となるような病気について話題にした方が読者も興味を持つのではないかと思う。そこで今回は解離性障害について、それを脳科学との関りから論じたい。
 解離性障害、と言われてもピンと来ない方のほうが多いかも知れない。いまだに精神医学の中でも市民権を得たとは言えないのがこの解離性障害という疾患である。いや、ここで「疾患」と書いたが、実は解離はむしろ特殊能力と言った方がいいのかもしれない。特に幾つかの人格が主体性を持って振舞うという様子(いわゆる多重人格障害、ないしは解離性同一性障害、以下DID)を目の当たりにし、しかもそのような人々も私たちと同じ人間だということを実感するとそう感じる。解離とは私達の脳に潜在的に備わっている能力である可能性がある。そして特定の人の脳においては、それが非常に研ぎ澄まされた形で発現するらしいのだ。
 ただし解離性障害にはそれ相当のネガティブな面を伴うことも多い。それは症状がコントロールを失って暴走してしまう場合があるからだ。例えばいくつかの自己が複数混在したような状態(多重人格障害、あるいは解離性同一性障害とも言われる)では、当人は相当の混乱をきたし、社会的な機能が一時的に停止してしまうことさえあるのだ。
解離性障害の基本形としての体外離脱体験
 私が解離性障害について理解していることを伝えるときは、大概は体外離脱の話から始める。私は不幸にしてこれを経験したことがないが、たとえ解離性障害の基準を満たしていなくても、同様の体験を一度でも持った方はかなり多いはずだ。
 体外離脱体験とは、自分の肉体から抜け出た体験のことである。自分がある人から殴られているとする。その瞬間、心がすっと体から離れて後ろや上に浮かび上がる。そしてたたかれている自分を見下ろしているのである。この現象は脳の外傷、臨死体験、特殊の薬物の使用の際などに報告されるが、この例にあるようなある種のトラウマ的な体験に際して起きることもある。さらにはある事に熱中している時に起きることもある。ピアニストが演奏に没頭している時に、演奏をしている自分を見下ろすといった体験を聞くこともある。だからこれは決して病的な体験と決めつけることは出来ないのだ。
 この幽体離脱の体験は不思議としか言いようがないが、「なぜそのようなことが起きるのか?」という疑問への答えはまだまったく見つかっていない状態である。むしろ「(私達の脳や心においては)そのようなことも十分に起きうるのだ」と言うことを受け入れ、そこで何が起きているかをさらに知る必要があるのだ。
 ではこの体外離脱をもう少し深く観察すると何が分かるのかと言うと、実はこれは主体が二つに分かれる、いや、突然二つが共存するという現象だ。ここで私が思わず「分かれる」と思わず言いそうになったが、実際に昔の学者たちはそう考えたのだ。一世紀以上前のS.フロイトやP.ジャネは。この現象を「意識のスプリッティング(分割)」と捉えたのだ。1800年代の終わりに人々がこのような不思議な現象に注目するようになった時、まず心のエキスパートたちが考えたのは、「ああ、このようにして心は、意識は二つに割れるのだ」ということだった。実はこのスプリッティングというのは、実に悩ましい話だ。というのも古今東西人間は自分の心が一つであることにあまり疑問を抱かずに過ごしてきたからだ。誰だって「自分はもう一つの自分を持っている」というようなことは認めないであろうからだ。第一もう一つの自分がいたとしたら、この私はどうなってしまうのだろうと不安になってしまうだろう。
 上の幽体離脱の例を用いて、実際にどのようなことが起きているのかを考えよう。

最初からあった意識をAとしよう。それはある時身体から遠ざかった(離脱した)という体験を持つ。そして自分を外側から俯瞰するという、これまでにない体験を持つことになる。さて問題は、叩かれている意識、すなわち体に残っている意識Bも存在するということだ。これがどの様に、どこから生まれるのかが、精神医学的にも脳科学的にも実は全くわかっていないのである。ただしそれも意識として体験され得るということだ。
 解離に関する研究で有名な、柴山雅俊先生がいらっしゃる。彼の著書「解離性障害」(ちくま新書、2007年)という名著があるが、そのサブタイトルは「『後ろに誰かがいる』の精神病理」 というものである。先生は解離性障害の患者さんの多くが「誰かが後ろにいるような気がする」という体験を持つことを論じた。このことは上で論じた幽体離脱と実にうまく重なる現象だと思う。つまり後ろにいるのは「もう一人の自分」というわけだ。彼は「存在者としての私」と「まなざしとしての私」の分離という言い方もしている。(「解離の舞台 症状構造と治療 柴山雅俊、金剛出版、2017年)

2023年7月23日日曜日

連載エッセイ 6の6

 人間の脳は少なくともデュアルコアである

以下は前著(解離性障害と他者性、2022)のp.102以降の抜粋を多く含む。

 脳は右脳、左脳に分かれている。その組織は脳幹部や松果体という部分を除いてそれぞれ左右一対が備わっている。だから右脳も左脳も、それぞれが独立したシステムということが出来るのだ。ただし左右脳は脳梁という橋渡しにより連携している。脳梁は二つの脳の間を約二億本と言われるケーブル、すなわち神経線維による連絡路なのだ。下の図は脳の左右を押し開いて、その脳梁の部分が露出するように描かれている。

 この脳梁というケーブルにより、左右の脳はものすごい速さで情報をやり取りしているので、右の心と左の心という二つの心を持っているという自覚がない。 でも実際はそうなのだ。

図10-4) (Edelman, GM, Tononi, G, 2000) より

もしこの脳梁が切断されたとすれば、そのことが分かることが知られている。例えば一方の脳に発生した癲癇の波が他方の脳に広がらないようにするために、この脳梁が切断されるということがある。するとなんと左の脳 (右半身の体の活動に表される)と右の脳 (左半身の体の動きにより表される) がバラバラに機能するということが起きる。たとえば右手でボタンをかけようとしても、左手ではそれを外そうとするということが起きる。これはまるで二人の別々の人間が体の中に存在しているかのような事態である。そしてこのことは、実は私たちは自然な状態では二人の心を持っているものの、それらが脳梁により連絡を取り合っているために、両者の間での合意や妥協形成がなされ、結果として両者が一つになっているという錯覚を抱いている可能性があるのだ。そのような右脳と左脳は互いに葛藤関係になる可能性があるが、それは私たちが自分の心に起きていることを少し反省してみることである程度は自覚的になれるかもしれない。  例えばあなたがダイエットをしていて甘いものをなるべく控えようとしているとしよう。しかし夕食後についいつもの週間でチョコレートをひとつつまもうとする。すると心の中で「ちょっと待った! 間食はやめることにしたんじゃないの?」 とたしなめる自分の声がするだろう。いわゆる葛藤を体験することになるのだ。そしてその声を聞いた後に最終的にチョコレートを口に入れてしまおうか、それとも我慢しようかという結論を出すであろう。それは強い方の声に従った結果かもしれないし、そんなことでいちいち迷っていられないので心の中で適当にサイコロを振った結果かもしれない。ともかくもこのような葛藤は私たちが日常的に数多く体験していることのはずだ。そこではおそらく二人の自分が戦うということを意識することなく、妥協をして自分の中でその矛盾を収めることになる。ところが離断脳の場合はまさにその葛藤を体験できず、右脳と左脳がお互いに他者同志として共存し、異なる行動を取ろうとするのだ。

 ところで脳梁が脳梗塞や脳出血などで破壊されても、やはり左右脳の情報の交換が出来なくなって離断脳の状態になり、脳梁を切断された人と同様に、左右の脳はいわばバラバラに動き出す可能性がある。それがいわゆる「他人の手症候群 alien hand syndrome」と呼ばれる状態である。その場合には一つの手が自分の意志に逆らって勝手に動き出すという症状を示し、それは一般的には拮抗失行と呼ばれ、右手が随意的、意図的な行動を行おうとすると、左手がそれに関係ない、あるいは拮抗する動きを見せる。  さらにこの離断脳の状態は難治性の癲癇の治療のための外科手術により結果的に生じることもある。ただしこの脳梁の部分に麻酔薬を注入することで、この離断脳状態を一時的に人工的に作ることが出来る。

2023年7月22日土曜日

連載エッセイ 6の5

 人間の脳はタイムシェアリング型か、マルチコア型か?


 多重人格状態を私たちにとって最もなじみのあるパソコンにおける複数のプログラムが立ち上がった状態とすると、アナロジーとして二つある事は示した。もちろんパソコンと人間の脳は全く別物であり、このアナロジー自体が成り立たないほど異なっているかもしれないが、今のところ考えられるモデルとして示しているのだ。そしてだまし絵の類推からするに、タイムシェアリング型は恐らく成立しないことは示した。フロイトも考えた「すり替わり説」のことだが、その様な芸当は人間の脳では不可能らしい。人間の右脳を構成する神経系のスピードの速さとコンピューターの情報処理の速度を考えればいいだろう。たとえばCPUのスピードが1ギガヘルツなら、1秒間に10億回 1+1の演算をすることになる。それに比べて脳のニューラルネットワークは1秒間にせいぜい数百回程度得あるという。(一秒間に数百個の電気パルスを出すということだ)(前野隆司(2004)脳はなぜ「心」を作ったのか。―「私」の謎を解く受動意識仮説. 筑摩書房p.199)つまり計算の速度は100万倍以上の差がある事になる。これではすり替わったとしての目の粗さは歴然である。分身の術を使うために出来る限り素早く入れ替わったとしても、スピードが十分速くないと、「あ、二人いる」という錯覚は生まれないわけだ。というわけで人間の脳については、タイムシェアリング型はボツということになる。

 ではマルチコアはどうだろうか? ここでお断りしておくならば、人間の脳は生まれながらにしてデュアルコアなのである。それは脳が基本的には右脳と左脳に分かれており、それぞれがある程度独立して機能していると考えられているからである。


2023年7月21日金曜日

連載エッセイ 6の4

 さて、人間の場合はどうか。上記のタイムシェアリングとマルチコアは人間の右脳でも可能だろうか?おそらく私たちの脳に起きている可能性のあるのは、タイムシェアリングである。例えば私たちは他人に対して何かを言うとき、「これは聞いている方からはどう取られるだろう?」ということをよく考える。あるいは何かを言う前に、今私がこれを言ったら相手はどう感じるだろう?と考えることがある。ある種の共感能力といっていい。「相手の立場に立って考える」というのは私たちの心の基本的な性質や能力として備わっていると考えていいだろう。ただしこれがコンピューターのタイムシェアリングと違うのは、おそらく相手の立場に立って考えることには一定の時間を使うであろうし、おそらく一瞬の隙間時間では済まないであろうということだ。自分がある衝動に駆られて何かをしようとしているとき、相手がそれをどう感じるかを知るためには一定の時間や余裕が必要となったりするものなのだ。つまり脳におけるタイムシェアリングはパソコンのような瞬時の入れ替わりが不可能だということだろう。

その一つの例として私が挙げることが出来るのが、以下の騙し絵である。これは有名なルビンの壺であるが、二人の人間の横顔が向き合っていると取るか、それとも燭台を前にした一人の顔をとして見るかは、それぞれを一度しかできない。高速でスイッチして、両方が見える、という状態には至らないのである。

(Edelman, Tononi, 2000, p.25)Edelman, G., & Tononi, G. (2000). A Universe of Consciousness. New York: Basic Books.




実はこの件、前書(解離性障害と他者性、2022)で結構書いている。こんな内容だった。

「この様に考えるとスイッチングにより二つの意識状態を取ることが出来るというのはそれほど生易しいものではない。ちょうどこのだまし絵(図5-4、Edelman, Tononi, 2000 より)で、一人の顔を見ている意識状態と、二人の顔を見ている意識状態が「共存」しているとはとても言えない状態であるのと同様に、スイッチングにより二つの意識が共存しているような状態はとても作れないであろう。(同様の議論は、第7章を参照。)ちなみにこの二つの意識状態の素早い入れ替わりというアイデアは、すでにFreudが提出していることを思い起こそう。それが第3章でFreud の「振動仮説」として紹介したものである。(p。58)

「FreudとBreuerの考えの違いを追い、そもそもFreud はヒステリーの原因を一つに絞る上で、Breuer の類催眠—解離理論を捨てたという経緯があったことを以上に示した。Freud は「自分自身はこの類催眠状態を見たことがない」とし、代わりに内的な因子である性的欲動を中心に据えた理論を選択した。しかしFreud は解離や多重人格という不可思議な現象のことを本当に忘れたわけではなかった。
 実はFreud はこんなことを1936年に書いている。

離人症の問題は私たちを途方もない状態、すなわち『二重意識』の問題へと誘う。これはより正確には『スプリット・パーソナリティ』と呼ばれる。しかしこれにまつわることはあまりにも不明で科学的にわかったことはほとんどないので、私はこれについては言及することは避けなくてはならない。」(Freud, 1936. p245)

つまり Freud は解離を否定しつつも、多重人格状態に関する仮説的な考えを表明していたのだ。1912年の「無意識についての覚書」の中でフロイトは多重人格について、いわば「振動仮説」とでもいうべき理論を示している。

意識の機能は二つの精神の複合体の間を振動し、それらは交互に意識的、無意識的になるのである (Freud, 1912,p.263) 。
また1915の「無意識について」でもやはり同じような言い方をしている。

私たちは以下のようなもっととも適切な言い方が出来る。同じ一つの意識がそれらのグループのどちらかに交互に向かうのである。(Freud, 1915, p.171)

 ここで注目されるべきは、「ある一つの同じ意識 the same consciousness」という言い方だ。同じ一つの意識がそれらのグループのどちらかに交互に向かうのである。つまり結局意識は一つであり続けるという事になる(Brook,1992)。


2023年7月20日木曜日

社会的トラウマ 13

 私が一番最初に世に出したのは、「ある精神分析家の告白」という翻訳書で、1993年の出版だ。私が37歳の時だったが、作者のドクターストリーンというソーシャルワーカーに会いにニューヨークまで出向いた。その時に彼が「患者さんに自分が居眠りをしていることがバレることをなぜ恐れるか?」ということを話した。その理由とは「私が年を取って弱くなり、そのせいで居眠りをすると思われることを恐れるからだ」と言ったことが印象に残っている。私だったら治療者として怠けていると思われるのが嫌だと思うだろうに、不思議なことを考えるな、と思ったが、これが要するに male masculinity の問題とも絡むらしい。

ところで参考文献としては次のようなものを読んだことはすでに書いた。この本の抜粋を読むとかなりヤバい内容だ。

「有毒な男性性のトラウマ The Trauma of Toxic Masculinity.  Why you can trust us BY JARED YATES SEXTON

「私は男性が、自分たちと女性との性的な関りについて、女性にとって屈辱的な表現を用いてその詳細を話すのを聞いてきた。彼らは想像出来る限りの人種差別的で侮辱的な言葉を用いる。彼らは最悪な人種差別的、性差別的な言葉を用い、独裁的な権力への欲望を語る。そして中東の男女や子供を核爆弾で皆殺しにしてもかまわないし、奴隷制を復活することのメリットについて口にし、アドルフ・ヒトラーに対する崇拝を語る。それらの男性にとっては、人に何かを話すこととは、あることをなすための手段であり、良心やひ弱な感情に拘束されないという幻想を追求するための手段なのである。(ジャレッド・セクストンの同著からの引用。)」 

このセクストンの話の面白いところは、彼の父親が晩年近くになって、男性性という重圧について話すようになったというところである。そして結局男性性とは虚偽であるという理解に到達したという。そしてそれは脆弱にし、他の人たちに対してだけでなく、自分たちにとっても傷害的 injurious であるという。

 本書ではそれ以外にも、男性が概ね寡黙であり、自分の気持ちや感情を表現するのは「弱さ」の表現であると考える傾向などについても書かれている。この有毒な男性性という考え方は1980年代に心理学者が提唱したとされる。「男性はこうあるべき」というイメージに従う事の負の側面をさすというが、ある意味では男性もまたそれを重荷に関しているという可能性がある。しかし逆に言えば、西欧社会においてこの考えがいかに根強いかということとも関係しているであろう。(だからと言って、それ以外の国、例えばアラブ社会において、そのような傾向が西欧社会程には見られない、とは言えない。場合によってははるかに強い男尊女卑、女性蔑視の考え方がインドなどでも見られる。

概ね toxic masculinity の論調はこんな感じなようだが、あまり参考にならないような気がしてくる。日本と西洋ではやはり男性性の概念が微妙に異なるからか。 


2023年7月19日水曜日

連載エッセイ 6の3

 脳で何が起きているのか?

 さて解離とは何かを読者の皆さんにもなるべく直感的に分かってもらえるように、幽体離脱の例を挙げた。もし自分が、あるいは目の前の友人か゚家族が解離を起こした場合、それを体験的に理解しようとしたら幽体離脱のようになる。これは体験としてそうなるという事ではあるが、その時に脳科学的に何が起きているのか、ということについては、本当のところ何もわかっていないとしか言いようがない。考えても見て欲しい。心は脳の活動から析出する、というのが私たちの基本的な考え方である。いわゆる「随伴現象説」だ。そしてその心の存在は、その人の言葉や表情や行動により表される。これもいい。ところがその人は、ある時は私はAだ、と主張し、また別の時は自分はBだという。これをどう説明することが出来るだろうか。

 この議論を進めるにあたり、コンピューターのアナロジーに勝るものはない。そこで「自分はAだ」と名乗っている時には、Aというアプリ、ないしはプログラムが起動していると考えよう。そして今度は「自分はBだ」という時はBというアプリが起動している。このようなアナロジーを考える。そしておそらく一番好都合なのは、AというアプリとBというアプリが互いにスイッチすると考えることだ。このように考えると人間の脳の働きについて、何も特に新しいシステムを考える必要がない。人の心は常に各瞬間には一つの心しか起動していないことになる。

 ただしアプリAは、アプリBが立ち上がるや否や、あるいはその前の瞬間に終了しなくてはならない。昔のファミコンでいえば、二つの別々のゲームA,Bというカートリッジをさっと入れ替えることになるだろう。何しろ二つを同時に差し込むことなどできないのだから。これを「すり替わり説」と呼ぼう。実はこのすり替わり説は、かのフロイトが考えていたアイデアであった。フロイトは「心は一つ」主義者であったが、多重人格のことがどうしても気になったらしい。そして後年これについて次のように述べている。(挿入)「速い話が、人格Aと人格Bがあり、意識はそのどちらかに素早くスイッチしているだけだ。」

  ところが実際はこうではないことを私たちは知っている。それは幽体離脱を体験した人が証言することだ。「私は自分自身を外から見ていました。」「私は後ろに視線を感じていました。」 つまりこれが暗に示しているのは、アプリAとアプリBは同時に起動していて、互いを意識しているということになる。「カートリッジすり替えモデル」は現状に合わないのだ。

 さてコンピューターの操作に慣れている私たちは、実はこのことに驚かないだろう。ユーチューブの音声だけを聞きながら、ワードで文章を作成する、などのことを私はしょっちゅうやっている。複数のアプリの同時の起動など当たり前のことなのだ。

 この仕組みは次のようだ。昔コンピューターが一つのCPU(中央演算装置)しか持っていなかった時は、「タイムシェアリング」というテクニックを用い、ある瞬間にはアプリAを、次の瞬間はアプリBを、と行ったり来たりしていたのだ。つまりはフロイトの「すり替わり説」だったのである。どうりで昔のパソコンは、同時に二つのプログラムを立ち上げると、どちらも「遅く」あるいは「重たく」なったり、すぐフリーズしたりしたものだ。

 ちなみに最近ではコンピューターはマルチコアなので、デスクトップなどだとたとえば8つ積んでいたりする。するとそれぞれのコアが一つのアプリを担当して専門にやるということが出来る。こうなるといくつものアプリを立ち上げていても、どれもがサクサク動くのである。