私が一番最初に世に出したのは、「ある精神分析家の告白」という翻訳書で、1993年の出版だ。私が37歳の時だったが、作者のドクターストリーンというソーシャルワーカーに会いにニューヨークまで出向いた。その時に彼が「患者さんに自分が居眠りをしていることがバレることをなぜ恐れるか?」ということを話した。その理由とは「私が年を取って弱くなり、そのせいで居眠りをすると思われることを恐れるからだ」と言ったことが印象に残っている。私だったら治療者として怠けていると思われるのが嫌だと思うだろうに、不思議なことを考えるな、と思ったが、これが要するに male masculinity の問題とも絡むらしい。
ところで参考文献としては次のようなものを読んだことはすでに書いた。この本の抜粋を読むとかなりヤバい内容だ。
「有毒な男性性のトラウマ The Trauma of Toxic Masculinity. Why you can trust us BY JARED YATES SEXTON
「私は男性が、自分たちと女性との性的な関りについて、女性にとって屈辱的な表現を用いてその詳細を話すのを聞いてきた。彼らは想像出来る限りの人種差別的で侮辱的な言葉を用いる。彼らは最悪な人種差別的、性差別的な言葉を用い、独裁的な権力への欲望を語る。そして中東の男女や子供を核爆弾で皆殺しにしてもかまわないし、奴隷制を復活することのメリットについて口にし、アドルフ・ヒトラーに対する崇拝を語る。それらの男性にとっては、人に何かを話すこととは、あることをなすための手段であり、良心やひ弱な感情に拘束されないという幻想を追求するための手段なのである。(ジャレッド・セクストンの同著からの引用。)」
このセクストンの話の面白いところは、彼の父親が晩年近くになって、男性性という重圧について話すようになったというところである。そして結局男性性とは虚偽であるという理解に到達したという。そしてそれは脆弱にし、他の人たちに対してだけでなく、自分たちにとっても傷害的 injurious であるという。
本書ではそれ以外にも、男性が概ね寡黙であり、自分の気持ちや感情を表現するのは「弱さ」の表現であると考える傾向などについても書かれている。この有毒な男性性という考え方は1980年代に心理学者が提唱したとされる。「男性はこうあるべき」というイメージに従う事の負の側面をさすというが、ある意味では男性もまたそれを重荷に関しているという可能性がある。しかし逆に言えば、西欧社会においてこの考えがいかに根強いかということとも関係しているであろう。(だからと言って、それ以外の国、例えばアラブ社会において、そのような傾向が西欧社会程には見られない、とは言えない。場合によってははるかに強い男尊女卑、女性蔑視の考え方がインドなどでも見られる。
概ね toxic masculinity の論調はこんな感じなようだが、あまり参考にならないような気がしてくる。日本と西洋ではやはり男性性の概念が微妙に異なるからか。