2023年7月24日月曜日

連載エッセイ 6の7

 全体で12回(一年間)という約束でお引き受けしたこの連載も、今回が6回目である。すでに曲がり角に来たわけだ。最初はどのような方向に筆が向かうかを分からずに、ただ書きたいことはいくらでもあるだろうと思い、書き始めた。その後はだいたい前回の内容に連続性を持つ形で執筆することにしている。全体的な方向性はまだ見えてこないがあまり気にしていない。脳科学とは膨大な領域であり、しかもわからないことばかりだ。体系立てて論じようとしてもその手掛かりがつかめないのだ。そこで書いているうちに自然と方向が定まるだろうと思い、書いてきた。
 このようなあてどのない連載を読む方々には迷惑な話かもしれないが、実は書いている私は確実に考えが進んでいる。その結果として見えてきた部分とさらに見えなくなってきた部分自覚されるようになってきているのだ。
 ただしここまでの、心とは何か、脳とは何か、AIとどこが違うのか、というやや漠然とした議論よりもう少し具体的な話を読者は期待しているのではないだろうか。例えば精神医学の対象となるような病気について話題にした方が読者も興味を持つのではないかと思う。そこで今回は解離性障害について、それを脳科学との関りから論じたい。
 解離性障害、と言われてもピンと来ない方のほうが多いかも知れない。いまだに精神医学の中でも市民権を得たとは言えないのがこの解離性障害という疾患である。いや、ここで「疾患」と書いたが、実は解離はむしろ特殊能力と言った方がいいのかもしれない。特に幾つかの人格が主体性を持って振舞うという様子(いわゆる多重人格障害、ないしは解離性同一性障害、以下DID)を目の当たりにし、しかもそのような人々も私たちと同じ人間だということを実感するとそう感じる。解離とは私達の脳に潜在的に備わっている能力である可能性がある。そして特定の人の脳においては、それが非常に研ぎ澄まされた形で発現するらしいのだ。
 ただし解離性障害にはそれ相当のネガティブな面を伴うことも多い。それは症状がコントロールを失って暴走してしまう場合があるからだ。例えばいくつかの自己が複数混在したような状態(多重人格障害、あるいは解離性同一性障害とも言われる)では、当人は相当の混乱をきたし、社会的な機能が一時的に停止してしまうことさえあるのだ。
解離性障害の基本形としての体外離脱体験
 私が解離性障害について理解していることを伝えるときは、大概は体外離脱の話から始める。私は不幸にしてこれを経験したことがないが、たとえ解離性障害の基準を満たしていなくても、同様の体験を一度でも持った方はかなり多いはずだ。
 体外離脱体験とは、自分の肉体から抜け出た体験のことである。自分がある人から殴られているとする。その瞬間、心がすっと体から離れて後ろや上に浮かび上がる。そしてたたかれている自分を見下ろしているのである。この現象は脳の外傷、臨死体験、特殊の薬物の使用の際などに報告されるが、この例にあるようなある種のトラウマ的な体験に際して起きることもある。さらにはある事に熱中している時に起きることもある。ピアニストが演奏に没頭している時に、演奏をしている自分を見下ろすといった体験を聞くこともある。だからこれは決して病的な体験と決めつけることは出来ないのだ。
 この幽体離脱の体験は不思議としか言いようがないが、「なぜそのようなことが起きるのか?」という疑問への答えはまだまったく見つかっていない状態である。むしろ「(私達の脳や心においては)そのようなことも十分に起きうるのだ」と言うことを受け入れ、そこで何が起きているかをさらに知る必要があるのだ。
 ではこの体外離脱をもう少し深く観察すると何が分かるのかと言うと、実はこれは主体が二つに分かれる、いや、突然二つが共存するという現象だ。ここで私が思わず「分かれる」と思わず言いそうになったが、実際に昔の学者たちはそう考えたのだ。一世紀以上前のS.フロイトやP.ジャネは。この現象を「意識のスプリッティング(分割)」と捉えたのだ。1800年代の終わりに人々がこのような不思議な現象に注目するようになった時、まず心のエキスパートたちが考えたのは、「ああ、このようにして心は、意識は二つに割れるのだ」ということだった。実はこのスプリッティングというのは、実に悩ましい話だ。というのも古今東西人間は自分の心が一つであることにあまり疑問を抱かずに過ごしてきたからだ。誰だって「自分はもう一つの自分を持っている」というようなことは認めないであろうからだ。第一もう一つの自分がいたとしたら、この私はどうなってしまうのだろうと不安になってしまうだろう。
 上の幽体離脱の例を用いて、実際にどのようなことが起きているのかを考えよう。

最初からあった意識をAとしよう。それはある時身体から遠ざかった(離脱した)という体験を持つ。そして自分を外側から俯瞰するという、これまでにない体験を持つことになる。さて問題は、叩かれている意識、すなわち体に残っている意識Bも存在するということだ。これがどの様に、どこから生まれるのかが、精神医学的にも脳科学的にも実は全くわかっていないのである。ただしそれも意識として体験され得るということだ。
 解離に関する研究で有名な、柴山雅俊先生がいらっしゃる。彼の著書「解離性障害」(ちくま新書、2007年)という名著があるが、そのサブタイトルは「『後ろに誰かがいる』の精神病理」 というものである。先生は解離性障害の患者さんの多くが「誰かが後ろにいるような気がする」という体験を持つことを論じた。このことは上で論じた幽体離脱と実にうまく重なる現象だと思う。つまり後ろにいるのは「もう一人の自分」というわけだ。彼は「存在者としての私」と「まなざしとしての私」の分離という言い方もしている。(「解離の舞台 症状構造と治療 柴山雅俊、金剛出版、2017年)