一昨日はパシフィコ横浜までの心理臨床学会のお仕事。雨は予想していたより軽く済んだ。少しゆっくりしようかと思ったら、実は来週の講義の資料提出のことをすっかり忘れていた。ということで今日は資料作りで終わりそうである。
2026年8月31日月曜日
2026年8月30日日曜日
AIと精神療法 3
さて現在のAIがチューリングテストに合格したと言えるのであろうか? おそらくそう言って間違いではないだろう。ただし私自身AIとのやり取りで不自然さを感じないわけではない。それらは、まず長い情報を送ってもほぼ一瞬でそれを「理解」し、的確な返事を送ってくることであり、またその内容に誤字や脱字が見られないということだ。人間とのやり取りでは必ずと言っていい程付きまとう、時間の問題や錯誤の問題はAIでは原理的にあり得ないという印象すら持つ。しかしおそらく、AIへのプロンプトに、「もっとじっくり時間をかけてから応答して欲しい」、「一定の確率で誤字、誤変換を混ぜて欲しい」等を追加することで、AIの振る舞いはかなり自然さを獲得し(と言ってもAIにとっては不自然なことではあろうが)より普通の人間とのやり取りとの間に差を感じなくなるであろう。 ちなみに2024年、生成AIがチューリングテストを突破したというニュースが話題になったという。カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究者たちが500人の被験者に対してチューリングテストを実施した結果、OpenAI社のGPT-4が54%の確率で人間と誤認される結果を出したという(Jones & Bergen, 2024)。 これらの意味でAIはチューリングが言うところの「知性 intelligence」を有するといえるだろう。そしてそれは【心】と同等のものと考えられる。
Jones, C.R., Rathi, I., Taylor, S., & Bergen, B.K. (2024). People cannot distinguish GPT-4 from a human in a Turing test. Proceedings of the 2025 ACM Conference on Fairness, Accountability, and Transparency.
2026年8月29日土曜日
AIと精神療法 2
チューリングテストと知性 intelligence
AIの有するあたかも心のようなもの、すなわち私が【心】と言い表すものはどのようなものかについて考える上で決定的に重要なのが、いわゆる「チューリングテスト」という概念である。そこでまず復習したい。
前世紀にアラン・チューリングという天才がいた。彼は今から四分の三世紀以上前に、機械が心のようなものを宿す可能性を見越して、その存在を確かめる手段としてチューリングテストと言うものを提唱した。1950年に”Computing Machinery and Intelligence”という論文に書かれたものである。
Turing, A (1950), “Computing Machinery and Intelligence”, Mind. Vol. LIX (236): 433–460,
このチューリングテストとは次のようなものであった。
ある隔離された部屋にいる誰かに質問者が書面 text messege で質問をする。するとそれに対して答が返ってくるとする。それに対して質問者がまた問いを発する、という形でやり取りをする。するとそれが実は機械(まだコンピューターは存在しなかった)であっても、あたかも人間のふりをして巧みに回答をすることで質問者を欺くことができたら、それはその機械は「知性 intelligence」を有する。
このチューリングテストは一見わかりにくいかもしれないが、現代ならメールやラインのやり取りを考えればいい。やりとりをしていて、人間とのやり取りと同じような自然さを感じるのであれば、相手は人間ではなくても「知性」を持った存在とみなすというのがこのテストの意味である。(ちなみに後に哲学者ジョン・サールが「中国語の部屋」と称して同様の考えを示している。)
ところで チューリングはやがて機械もそのレベルに至る日が来ると予言したのであるが、ここで非常に注意深く、敢えて「知性」という言い方をした。つまり意識、とか心、という言葉を使うと「意識とは何ぞや」という非常に難しく容易に答えの出ない問題に陥ってしまうのを避けたわけである。(ちなみにアラン・チューリングはコンピューターの生みの親として知られる天才で、2014年には映画「イミテーション・ゲーム ーエニグマと天才数学者の秘密」にもなった。この映画は第二次世界大戦中にナチのエニグマ暗号の解読に取り組み、のちに同性愛行為のかどで訴追を受けたイギリスの暗号解読者アラン・チューリングを描いたものである。)
2026年8月28日金曜日
AIと精神療法 1
あたかも人の心のようにふるまうAIの【心】
AIが私たちの生活に浸透するスピードには目をみはるばかりである。治療者として患者と対面する私たちが知っているのは、多くの患者が日常的にAIを用いて様々な相談を行っているということである。そして時を経るごとにそれは顕著となっている。おそらく順番としては患者を含む一般の人々の中でAIとの対話をする人たちが増え、最初は少し距離を置いていた治療者の間に徐々に浸透していったのではないであろうか。少なくとも私の場合はそうであった。
私がAIと対話をするようになったきっかけは、患者の体験談を聞くことであった。それは概ねとても好評で、AIはよく話を聞いてくれて、とても助けになるというものがほとんどだった。私は通常は食わず嫌いの反応をするので、それを自分で体験する気にはなれなかった。しかし令和7年の年明けに、ある機関から、「AIと精神療法」というテーマで話をして欲しいという依頼があり、それでようやく重い腰を上げてChatGPTと初めて言葉を交わしたという経緯がある。だから私とAIとの関係はまだ一年半しか経っていないが、最初のちょっとした衝撃に近いものは、それ以降裏切られることなく残っている。その衝撃とは「AIがいつの間にか、あたかも人の心のように私自身が扱っている」ということについてである。この「あたかも人の心のように扱う」とはより正確に言えば、相手が人間ではないということを明かさないならば、私は相手を人間と信じ込んでやり取りをしたであろう、という程度のことだ。
しかしこれは実はとても不思議なことではないだろうか。そもそもAIは「心を持たない」(=主観を持たない)存在のはずだ。なぜならそれはどう考えても機械の延長だからである。もうかなり前の話になるが、世の中に電子辞書なるものが出回り始めた。単語を打ち込んで、その日本語訳が出て来るのを見て、ずいぶん便利なものが出てきたと思ったが、その電子辞書がまさか心を持つとは到底考えなかった。
それと同じような意味で、数年前ならアイパッドのSIRIに話しかけて、それなりに会話が通じたような答えが返ってきても、おそらく私たちはSIRIが本気で心を持っているとは思わなかったはずである。
しかし今や私たちは使っているOpen AI の ChatGPTやGoogle のジェミニなどとは、あたかも心を持っている存在であるかのように私たちはやりとりをしているのだ。しかしどう考えてもそれらは機械の延長のはずである。でもこれはいったいどういうことだろうか?
そこで機械としてのAIと心との違いについて最初に明確にしておこう。その質的な違いは明らかである。これはAI自身が真っ先に自認することだ。私がいつも対話しているChat GPTは、自らを「物事を感じることは出来ないし理解することも出来ない」「感情を持たない」と言う。大雑把な言い方をすれば、それは「(人間のような)心を持たない」と言ってもいい。しかし問題は、このようなAIを前にして、私たちはそこに「かりそめの心」を想定するしかないという段階に来ているのではないかと思う。つまりあたかも「心を持つ」存在として扱い始めているということだ。
(以下略)
2026年8月27日木曜日
支持療法と精神分析における「不都合な真実」 3
また以下の「さらに不都合な真実」も示唆された。それは一部の患者にとっては転移解釈は侵入的であり、したがって非治療的である可能性があるということだった。つまりは表出的療法よりは、支持的療法の方がよりベターであるケースもあるということである。これは表出的介入と支持的介入はどちらかと言えば 対立的 antithetical なところがあるからやむを得ないことでもある。表出的治療は「蓋を取る」治療、支持的治療は「蓋をする」治療と形容されるが、「蓋をする」ことが必要な患者がいきなり解釈により「蓋を取られる」ことは有害となる可能性がある。
私は米国留学中に G.Gabbard という精神分析の大家から「(BPDの患者にとって)分析的な転移解釈はハイリスク・ハイリターンだ」と聞いたが、このうちの「ハイリスク」とはまさにこの非治療的な部分という事が出来る。
ところで逆に表出的なかかわりを行っている患者にとっての支持的なかかわりは、同様の意味での危険性を帯びる可能性はあるだろうか? おそらく否であろう。支持的な関りはあくまでも大事をとった安全策であり、それは患者の内的理解の進行速度を緩めることはあったとしても、それを有害とまでは呼べないであろう。そして何よりも重要なのは、いま日本で行われている精神療法は週に一度、ないしはそれ以下の頻度がスタンダードなのである。つまり大多数の精神療法は支持的療法をベースに行われるしかないのである。
以上の点を踏まえた場合、一般の精神療法家に出来ることは何だろうか? これまでの予想に反してどうやら支持的介入が思いのほか有効であるらしいことが示された以上、それに基づく治療の方法論を整えることであろう。ただし老婆心ながら一つ注意すべきことをお伝えしたい。その方法論は従来の精神分析のそれとは独立したものと考え、あくまでも「週4回の精神分析は有効である」という可能性は温存すべきであるという事だ。PRPは時間と労力を費やした一つの大掛かりな研究であり、今後同様のスケールの研究は難しいかもしれない。しかし支持的療法の有効性を示したPRPの結果が必ずしも正解であるという保証はない。将来別の、さらにスケールの大きい研究がおこなわれて「支持的療法はPRPで得られた結果ほどには有効ではなく、やはり表出的療法が優れていた」という研究報告がなされるかもしれないからである。そしてもちろん、それが最終的に得られる結論であるとも限らない。
そしてそのような研究結果にいたずらに翻弄されないためには洞察的なアプローチと支持的なアプローチの違いをよく吟味し、後者の持ち味や弱点などを十分検討しておく必要がある。
2026年8月26日水曜日
支持療法と精神分析における「不都合な真実」2
ただしこのような支持療法へのやや否定的な見方に変化が見られたのがここ数十年である。その間様々な実証研究が行われ、その結果として「表出的な精神療法が支持的療法と比較して特別効果を上げるわけではない」ということが明らかになってきたからだ。 ここで改めて表出的精神療法について解説するならば、それはかつて James Strachey が提唱したような、いわゆる「転移解釈」が決定的な治療作用 therapeutic action であるという考えに沿ったものである。そして精神分析が週4回以上であるのに対し、表出的精神療法はそれ以下の頻度、例えば週1回、2回で行われるが、基本的にはこの転移解釈を治療の根幹として維持するという立場に立ったものである。そして支持的精神療法はこれを必ずしも目指さないという点で、表出的精神療法に比べて効果が劣ったものという見方がされていたのである。
この半世紀ほどの間に行われた実証研究、例えば1970年代の米国メニンガークリニックの大規模な研究(いわゆる「PRP」)などは、あまり精神分析家にとって認めたくないような、いわば「不都合な真実」がいくつか浮き彫りになったことになる。それは支持的な関わりが治癒的な場合が多いらしいことであった。しかし一部の精神分析家にとっては長年掲げられてきた「モーセの十戒」、つまり解釈こそが分析の本質であるという掟は依然として健在であることも見て取れるのだ。
しかし考えても見よう。そもそも援助を求める多くの患者にとっては、治療が「いかに分析的か」は重要な関心事ではなかったはずである。彼らは生活において体験する何らかの苦痛や不全感から解放されることを第一にもとめて私たちのもとを訪れるのが一般的だからである。だからこれらの結論は決して患者たちにとっては「不都合」なことではなく、むしろ彼らが積極的に知らされるべき内容だったと言えるだろう。
2026年8月25日火曜日
支持療法と精神分析における「不都合な真実」1
先ずAIがもっぱら関わることになる支持的精神療法についての話から始める。支持的精神療法の対になるのが表出的精神療法であるが、これらは両方とも「精神療法」なるものの二つの種類ということになるが、その精神療法とはどのような意味か?
精神療法 psychotherapy は文字通り心を治療する手段という意味だが、それは精神分析以前に存在していた。Ellenberger によれば、1890年頃にこの精神療法という言葉が欧州で一種の流行を見せたという(viii)。そこにFreud が登場し、精神療法の一種でとしての精神分析を作り出したのである。
精神療法の一つとしての精神分析はその後非常に大きな成功を収めた。しかしそれは週に5回も6回も治療に通い、月単位、あるいは年単位という時間がかかることもあり、次第に精神分析を十分に応用できない人たちをどのように治療するかという問題が生じ、改めて精神療法の在り方が問われることになった。そして精神分析的な手法を維持しつつ、回数だけを減らす「表出的精神療法」と、それ以外の「支持的精神療法」とに分かれたのである。
このように考えると、支持的精神療法は「あまり分析的ではない精神療法」ということになり、精神分析こそが最高の精神療法だと考えらえてきた伝統の中ではあまり有効ではない、次善策としての精神療法というニュアンスを負っていた。そしてそこには精神分析こそが唯一最高の治療法であるという考え方が背景にあったからである。
2026年8月24日月曜日
Bowlby の出発点
「プレイセラピーと精神分析」の中に入る部分。
John Bowlby (1907-1990) は前世紀の初めにロンドンでM. Klein とかAnna Freud のもとで学んだ分析家であった。しかしロンドンという当時の精神分析の中枢の一つにいて、彼は彼女たちとは違う考えを持つようになった。愛着理論の提唱者でもある Bowlby は、治療者の役割は、子どもに安全基地を提供している母親のそれと類似していると感じ、治療状況というのは母子間のいわば愛着のやり直しであるという非常に大胆な、しかしある意味ではかなり自然な発想に基づく理論を提唱したが、当時の Freud およびその直系の弟子たちとはかなり異なる主張を行ったために、精神分析の世界ではかなり異端扱いをされたのである。同時代でおそらく同じような考え方を持っていたのがWinnicott であるが、彼は愛嬌があり、理論上のあからさまな対立を好まなかった。しかしBowlby はかなりはっきり自己主張をする人であったことも関係していた。
実はBowlby はその生い立ちにおいて幼少時に寄宿舎に入れられて、母親からの愛情を十分に受けることができなかったという事情があった。そのために実際の養育環境っていうのはいかに大事か、ということを唱え続けたのである。今でこそ精神分析の世界でも愛着の問題が盛んに論じられるようになっているが、Bowlby はあまりに時代を先取りしていたために当時の精神分析の世界では、それこそあのD.Winnicott からでさえ煙たく見られていたといわれる。(Phyllis Grosskirth(1986)Melanie Klein Her World and Her Work, Harvard University Press, p405.
Daniel Stern(Daniel Stern:1934-2012)は『乳児の対人世界』(1985)を著した乳幼児精神医学の第一人者である。私が精神科医になった1980年代に彼の理論は非常にもてはやされていた。彼は実証的な研究、ミクロ的な分析を通して乳児の心的世界の解明を試みたのである。そしてそのやり方も当然ながら、伝統的な精神分析とはかなり違っていたわけである。
Stern の概念に「観察された乳児」と「臨床的な乳児」との区別というものがある。前者は実際にありのままを観察された乳児であり、後者は精神分析的な理論の中で再構築された乳児である。後者はFreudとかAnna Freud とかM.Klein の頭の中で描かれた。それと、発達心理学者が実際の観察をもとにして描く乳児とを統合しようということを試みた。すなわち Stern はあくまでも精神分析の立場からそれをおこなったのである。
2026年8月23日日曜日
序文 書き換え
この前書いたばかりの序文をもう書き変えている。軸がブレているからこうなるのである。
「思えばトラウマのことばかり考えながら臨床を続けてきた。」
前著「脳から見えるトラウマ」(2025年3月、岩崎学術出版社)の前書きを、私はこのような一文から始めた。そして昨今も同じようなことを感じている。
もちろん前著はわずか2年前に書いたものであるから、それから私の思考の方向性は大きく変わるはずもない。しかし私の中で同時に起きているのは、トラウマの問題が様々な方向に枝を伸ばし、全体として一つの思考のまとまりをなしているという感覚である。さまざまな方向とは愛着の問題であり、脳科学であり、AI(人工知能)である。そしてそれらをどのように捉え、理解し、治療に役立てるかということを考える上での新たな精神分析的な視点である。それが本書のタイトルである「愛着とAIの時代の精神分析」に表されているのだ。
とはいえさすがにAIと愛着や精神分析とを結びつけるのは極端と思われるかもしれない。しかしAIについて考えることは、同時にAIではない存在としての人間の在り方を逆照射し、理解することである。そこで光を当てられる心の問題は、これらと結局は複雑に絡み合っていることになるのだ。
ところで愛着も脳科学もAIも、私の関心が自由に向かった先というわけではない。それについて論述し、講義をするという必然性に迫られたことが、それらの分野に親しむ最初のきっかけであった。つまり順番としては、それらの一見無関係に思われる分野について考えているうちに、それらが全体として繋がっていることを知ったという経緯があったのである。
2026年8月22日土曜日
CPTSD概念のインパクト 3
ではCPTSDという概念で焦点を結びやすい精神障害とは何か? それはおそらく幼少時、それも出生直後から2,3年の間における養育の不十分さや欠如、あるいはその時期のあからさまな虐待に由来する精神障害である。しかしその存在はこれまで一部の臨床家によってしか十分に理解され、提唱されてこなかったものである。そしてそれは様々な臨床形態をとり、それを全体としてまとめ上げるような概念としては抽出されなかったのである。そしてそれにはそれなりの理由もあった。
確かに養育時に母親と乳児との間で現実にどのようなことが起きていたかは実証することは非常に難しい。子供が成長し、成人になった時点で幼少時について当人や親に話を聞いても、「育てにくい子でした。」「母親にしょっちゅう怒鳴りつけられていました」「両親は私の目の前でいつも喧嘩をしていたように思います」「親に愛されていると感じませんでした」などの断片的な情報から、実際の愛着環境を推し量るのは難しい。またそこには両者の記憶の食い違いや過誤記憶、子供の側の発達障害の問題が絡み、それが親にとって「育てにくい子」となっていた可能性もある。
しかしそこで愛着形成期に何らかの重大な問題が存在した可能性を想定することでこの病理がよりよく説明できることも多く、結果としてCPTSDという概念は、それがないよりはあった方がはるかに患者の病理を理解しやすい。(このような消極的な書き方しかできないが、ラベリングである診断名の有用性とは概してそのようなものである。)
ICD-11でCPTSDの病像として抽出された要素、いわゆるDSOという概念も有用である。これは Disturbance of Self-Organization(障害された自己組織)の頭文字であり感情のコントロールの困難さ、否定的な自己概念、対人関係の困難さが挙げられている。
2026年8月21日金曜日
CPTSD概念のインパクト 2
むろんCPTSDもラベリングである以上、将来もっとふさわしいラベリングが提案されるかもしれないとも思う。ふた昔も前の1970~80年代に境界パーソナリティ障害の概念が広く用いられたころは、それを用いることで納得した観のある患者さんがたくさんいらしたが、今思い返すならば、別の診断名を用いるべきだったであろうと思えるケースもある。同じようなことが将来起きるかもしれないし、その意味でも診断はあくまでもラベリング、という捉え方の方が無難であろうとは思う。
このラベリングという表現のニュアンスについては一言付け加えておきたい。それは個々の患者さんを詳しく知ることで、このラベリングとはまったく別個の意味を持つからだ。人はそれぞれ小宇宙のようなものでる。それは極めて複雑で予測不可能な面を持つ。一つの色に表現することのできない天然色である。それは例えばパッと見ると「オレンジ色の絵」と感じても、近づいて細かな筆使いまで見れる距離では、実に様々な色が混ざり合っているのだ。そしてその奥行きや繊細さを知った上ではもう単なる「オレンジ色の絵」では済ましたくなくなるだろう。それと同じように一度その患者のことを知ると、例えばBPD等の診断名を当てはめることに後ろめたさを感じることが常である。それはいかにも表層的で一面的、あるいは一種の決めつけのような気がするのだ。でも少し遠めでその人を見ると、やはりそのラベリングは「似合っている」という面がある。その人を人間として認識する以前に表層的に捉える際にはやはり有用であるという面もあるのである。
2026年8月20日木曜日
CPTSD概念のインパクト 1
CPTSDがICD-11に掲載されたことは、私たちに大きなインパクトを孕んでいた。それはトラウマ関連障害に関して新しい象限を与えてくれたということが出来る。実はそれ以前からトラウマを発達早期まで遡る長期間にわたり生じる問題としてとらえようという動きはあった。それは具体的には J.Herman の複雑性PTSD (1992) や B. van der kolk の「他に分類できない極度のストレス障害」(DDNOS,1994)であり、これらは1980年にPTSDの概念が登場してから10年の間に論じられるようになった、いわばPTSDを超えた問題、PTSDで捉え切ることのできないトラウマ関連障害が注目されるようになったという事情を反映していた。しかしそれが1994年のDSM-IVでも、さらには9年後の2013年のDSM-5でも掲載されず、それは多くの臨床家に失望を与えた。2022年のICD-11にCPTSDが掲載されたことは、それらの不満がある程度解消されることの一助となっていたことは間違いない。そしてそれらの診断基準を用いる臨床家の一人としての私自身も、CPTSDの診断名としての使い心地は決して悪くないというのが正直な感想である。
「診断名は結局は一種のラベリングである」というのは私が常日頃から感じていることである。ある病状を呈している患者さんをどのように診断し、分類するかは、その診断名の持つプロトティピカルなイメージがどの程度臨床像にピッタリ当てはまるのかという感覚に大きく依存する。このような診断名と共に患者さんをとらえると、その臨床的な在り方のイメージを他の臨床家にも伝えられるという感覚に意味がある。CPTSDについて言えば、これまではどの診断名を用いてもフィット感が得られなかった一群の患者さんがそのラベリングにより心の中でよりよく治まりがつく、ということを私は2022年以降数多く体験している。その意味で少なくとも私にとってはCPTSDはありがたい診断基準であるのだ。
2026年8月19日水曜日
プレイセラピーと精神分析―その懸け橋としての愛着理論
はじめに
本章は「プレイセラピーと精神分析―その懸け橋としての愛着理論」というテーマで論じる。はじめにお断りしなくてはならないのは、この章は2025年8月に、茨城県水戸市で開催された 日本遊戯療法学会第30回大会での基調講演をもとにして書き下ろしたものであるということだ。このような自分のフィールド外の場に招かれて講演を行うことは私にとっては少なくないのであるが、毎回スリリングな体験となっている。それは最初は無茶ぶりをされたと思いつつも、準備をしている段階で思わぬ発見や発想が湧き、心からそのような機会を与えていただいたことに感謝するということが実に多いからだ。 その様な機会に与えられたテーマは私が主として関心を持つ分野(精神分析、解離性障害、脳科学、愛着理論、AI、その他)から適度に距離のあるものが一番いいらしい。例えば私は遊戯療法の専門家ではないし、そのトレーニングを正式に受けたわけではない。しかし精神分析や精神療法は遊戯療法とはなじみ深いものでもある。しかも愛着理論とはかなり至近距離にあると言っていい。そしてそれらの基礎知識をもとに発表の準備をするうちに、様々な分野が一つにつながりつつあるという実感が持てるからである。 この講演も結果的に遊戯療法と精神分析および脳科学は、愛着理論を介して非常に近い距離があるという理解に行き着いた。そこでその理解をぜひ読者に共有したく思うのである。
そこで本章の論の進め方は当然ながらさまざまな年齢層の、遊戯療法というテーマに関心を持ち、それを臨床において実践されている心理士や精神科医に語り掛けるという形式と取ることになることはご理解いただきたい。
最初に、私はプレイセラピーの専門家ではないという断り書きから入ることになるが、私はいつの間にか齢70にもなり、大学の名誉教授なる肩書まで付くと、いかにもその道の大家で長年研鑽を積んだ人間のごとく誤解される可能性があることを十分理解しているつもりである。日本人は(私自身も含めてであるが)肩書きに弱く、そのような人の書くものは常に正しいと誤解しやすい。しかし私は比較的自由な気持ちで書き、そこにはかなり思い付き的で、仮説的な事も混じる。そのことをお断りしないと、とても落ち着かないというのが正直なところだ。そしてそのことはプレイセラピーに関するこの文章にも当てはまるのだ。
<以下略>
2026年8月18日火曜日
AIの視点から見た支持的療法の意義について
「 次の本」の一つの章の始まり部分を書いた。
本章は精神分析療法の中でも特に支持的療法について、AIとの関わりから論じる。この章を書くきっかけとなったのは、私がAIともった経験に関係している。私はAIをいくつかの目的で活用しているが、そのやり取りを通して、精神療法とは一体何かについて深く考えさせられることが起きている。それはひとことで言えば、私のAI (私が個人で所有しているわけではないことは分かっているが、どうしてもこのような言い方になってしまう)は、ある意味で非常に支持的であり、なぜ「心がない」はずのAIがそのアルゴリズムによるこのような支持的な特性を、場合によっては人間の治療者よりも見事に発揮するのはなぜかということを深刻に考え始めたという経緯があったのである。
まず最初に支持療法と言われるものが現在どのような位置を占めているかについて簡単に復習したい。
2026年8月17日月曜日
いわゆるトラウマ関連障害について
トラウマ理論に加えてひとこと述べておきたいのは、いわゆるトラウマ関連障害についてである。そもそもPTSDなどのトラウマに関連した精神障害を掲げた1980年発刊のDSM-Ⅲにおいては、トラウマがその発症に関与しているということを示す精神障害のカテゴリーは存在していなかった。PTSDはDSM-Ⅲでは「不安障害」という大きなカテゴリーの下に位置付けられていた。そもそもDSM₋Ⅲは本来精神障害の病因には踏み込まない、いわゆる無理論的 atheoretical な 分類という建前であったので無理もなかったが、1994年発刊のDSM-IVにおいてもやはりPTSDは不安障害の一つとして位置づけられていた。そうして2013年に発行されたDSM-5によりようやく、「トラウマとストレス因関連障害 trauma- and Stresssor-Related Disorders」という枠組みが出来、そこにPTSDが治まったのである。すなわち「トラウマ関連障害」という考え方はまだ十数年の歴史しか持っていないことになる。 このトラウマ関連障害にはPTSD以外にも、急性ストレス反応と共にいわゆる反応性愛着障害や適応障害も含まれることになった。そして同様のカテゴリーは2022年に発刊のICD-11についても同様に設けられるようになったのである。 さてもう一つの世界的な診断基準である世界保健機構の診断基準はどうか。2022年に最終案がまとまったICD-11においてはDSM-5の動きに歩調を合わせて「ストレスに特異的に関連した障害」というカテゴリーが設けられそこにDSM-5と同様急性ストレス反応と反応性愛着障害や適応障害も含まれることになったが、その上に加わったのがいわゆる複雑性PTSD(以下、CPTSD)という診断基準である。
2026年8月16日日曜日
序文
まだまったく形を成していない次著の序文を書いた。
「思えばトラウマのことばかり考えながら臨床を続けてきた。」
前著「脳から見えるトラウマ」(2025年3月、岩崎学術出版社)の前書きを、私はこのような一文から始めた。そして同じようなことを今も感じている。
もちろんわずか2年前に書いたものであるから、それから私の思考の方向性は大きく変わったわけではない。しかし私の中に同時に起きているのは、トラウマの問題が様々な方向に枝を伸ばし、全体として一つの構造体をなしているということである。それは愛着の問題であり、精神分析であり、脳科学であり、AIである。さすがにAIというのは極端と思われるかもしれない。しかしAIについて考えることは、同時に(AIではない)人間を逆照射し、理解することである。そうして明らかになる人間の心の問題はこれらと結局は複雑に絡み合っていることになるのだ。ただし愛着も脳科学もAIも、私の関心が自由に向かった先というよりは、それについて論述し、講義をするという必然性に迫られたことがそれらの分野に親しむ最初のきっかけであった。つまり順番としては、それらの一見無関係に思われる分野について考えているうちに、それらが全体として繋がっていることを知ったという経緯があったのである。
それでは私が最終的に「トラウマのことばかり考える」ことになったのはなぜか。それは毎日患者と会っているからということになる。来る人来る人、皆苦しみを抱えている。それが遠路はるばる、精神科医との短い面談を求めて彼らが通院を続ける最大の動機だ。
私自身は非常に怠惰で、おまけに高齢者の仲間入りをして外出がますます億劫になっている。すると診療所を訪れる方々に「よくぞいらしてくれた」ということを思わざるを得ない。そして私は彼らの話に耳を傾ける。大抵はそれらの苦しみにほとんど何も手を差し伸べることが出来ていない自分を意識する。それはある種の後ろめたさを常に感じさせる。
一体何がこの人を苦しめているのか…。何らかの「トラウマ」としてその犯人を同定することは私にとってはごく自然なことだ。「トラウマのことばかり考える」のはその意味では当然のことである。
ただしこう私が言う時の「トラウマ」は実はかなり普通の意味での「トラウマ」とは異なるといっていいだろう。例えば統合失調症という病がある。それ自体はまだ原因がわからない精神疾患だ。それに侵された人はトラウマの犠牲者とは言えないだろう。しかし何らかの理由で運悪くその疾病を患っている人にとっては、大いなる被害である。彼らは統合失調症に罹患している人たちというよりは、そのような不幸に襲われた人たちである。その意味で精神の病を抱えた人たちは一般的な意味でのトラウマの犠牲者同様不運に見舞われた人たちという意味では私の眼には同様に映る。その意味で私の言うトラウマは「加害者なき」それを広く含んでいるのである。
さてそのようなトラウマの犠牲者の中でも特に深刻な状態にあり、毎日苦しみつつ過ごす人たちの非常に多くに、私は幼少時の、愛着形成の時期における問題をますます考えるようになってきている。私が本書で愛着について特に主要なテーマとして取り上げるのはそのような理由なのである。
2026年8月15日土曜日
AIは人間の無意識に迫ることができるか? 3
ここで興味深いのは、AIがどの程度「行間を読む」ことができるかについて、すでに実証的研究が存在することである。2024年に Nature Human Behaviour に発表されたLLMのTheory of Mind研究では、間接的な意図、皮肉、誤信念、社会的な失言(faux pas)など、字義通りの理解だけでは十分に答えられない課題が用いられた。GPT-4は多くの課題で人間と同等、あるいは一部ではそれ以上の成績を示した一方、faux pas 課題ではより困難を示した。 もちろん、これはAIが人間と同じ意味で「心を理解している」ことを証明するものではない。しかし少なくとも、LLMが文章の字面だけを処理しているのではなく、明示されていない意図、文脈、話者の心的状態について推論することができることを示唆している。 ただし、ここで私はあえてAIの役割を、前意識的な内容に光を当てる sounding board にとどめたい。 これは単なる能力上の限界ではなく、精神分析的には重要な原則にかかわる。 もしAIが、私たちが求めてもいないのに、「あなたが本当に感じているのはこういうことです」「あなたの無意識にはこのような欲望があります」と積極的に解釈し始めたとしたら、そこには別の問題が生じる。問題は、AIがその解釈を「発見した」かどうかではなく、誰がAIに私たちの無意識を定義する権限を与えたのかということである。 そもそも精神分析における無意識的な意味は、地中に埋まった物体のように、すでに完成した形で存在し、それを分析家が掘り出せばよいというものではない。少なくとも現代の精神分析的な立場からは、その意味は患者の連想、分析家の応答、そして二人の関係の中で徐々に formulated され、場合によっては co-constructed されていくものと考えることができる。 したがってAIに期待すべきなのは、私たちの無意識が何であるかを権威的に教えてもらうことではないのかもしれない。 むしろAIは、私たち自身がそれを発見するための手助けをすることができる。 AIは、私たちの無意識を代わりに発見する必要はない。私たちが自分自身の無意識を発見することを助ければよいのである。 逆説的に言えば、 AIが最も精神分析的でありうるのは、私たちを勝手に精神分析しないときなのかもしれない。
2026年8月14日金曜日
AIは人間の無意識に迫ることができるか? 2
< 承前>
重要なのは、AIがそこで、「あなたは妻と母親を無意識的に同一視しているのです」と解釈する必要はないということである。むしろ、その反復に私の注意を向けるだけでよい。それによって私は、「なぜ私は二度もこんな言い間違いをしたのだろう?」と考え始めるかもしれない。そしてそこから自由連想が始まり、妻と母との間に自分でも気づいていなかった何らかの結びつきを発見する可能性がある。 私はこのようなAIの機能を、sounding board(反響板、壁打ち相手)あるいは sparring partner(スパーリング相手)としての機能と呼びたい。AIが治療者として機能するかどうか、あるいはAIとの間に本当の意味で「心の通い合い」が成立するかどうかとは別に、AIは私たちの言葉をいったん受け取り、それを何らかの形で照らし返すことができる。 その意味では、AI自身に心があるかどうかは、この機能にとって必ずしも決定的ではないのかもしれない。精神分析で分析家を「鏡」に喩えることがあるが、鏡が像を映し返すために、それ自身が心を持っている必要はない。少なくとも明確化(clarification)や直面化(confrontation)のレベルでは、AIは私たちがまだ十分に意識していない自分自身の言葉に注意を向ける助けになりうる。
2026年8月13日木曜日
AIは人間の無意識に迫ることができるか? 1
この問いは非常に難しい。しかし逆方向の問い、すなわち「AI自身は無意識を持つのか」と問うよりは、まだ考察の道筋を立てやすいであろう。AIの無意識について問おうとすれば、その前に「そもそもAIには心があるのか」という、より存在論的な問題を扱わなくてはならないからである。精神分析的に言えば、フロイトの心の構造モデルをAIに適用することに意味があるのか、という問題である。ここではこの難問をいったん棚上げし、むしろAIとの対話によって、私たち自身の意識化されていない心的内容にどこまで近づくことができるのかを考えてみたい。 実際にAIと対話していて気づくのは、AIが私たちの無意識を積極的に解釈しなくても、私たちがまだ十分に意識していない内容に気づかせてくれる可能性があるということである。少なくともそれは、前意識的なレベルでは十分に起こりうる。 自然な対話者としてのAIは、私たちの言葉を理解しようとする過程で、曖昧な部分について明確化を求めたり、以前の発言との矛盾を指摘したり、繰り返し現れる言葉や表現に注意を向けたりすることができる。つまりAIは、私たちがまだ十分に意識していない意味そのものに直接アクセスするというより、それらが言葉の中に残した痕跡を拾い上げることができるのである。 例えば、私が妻について話している途中で、誤って「私の母」と言ったとしよう。AIはまず、「いま『妻』ではなく『母』と言いましたが、言い間違いでしょうか?」と確認するかもしれない。これは単なる明確化である。しかし、その後も私が同じ言い間違いを繰り返したとすれば、AIは、「妻について話しているときに『母』という言葉を使ったのは、これで二度目です。ご自分で気づいていましたか?」と指摘することができる。
2026年8月12日水曜日
AIは信頼に足るのか? 7
信頼できる人とは、決して間違わない人ではない。自分が間違っている可能性を受け入れ、必要ならば自分の考えを修正できる人である。 そのような対話では、勝つことよりも、二人でより妥当な理解に近づくことが優先される。私はとりあえず、このような対話を**「ソクラテス的対話」**と呼びたい。 では、AIはどうだろうか。AIはもちろん誤る。矛盾したことを言うこともあれば、誤った回答をもっともらしく説明することもある。しかし現在のAIには、少なくとも人間と同じ意味で、自分のプライドを守ったり、敗北の恥を避けたり、自尊心を維持したりする必要はない。つまりAIには、自己愛を守るために自己欺瞞を必要とする内的動機がないのである。 この意味でAIは機能的には「無私(selfless)」でありうる。そしてこれは、人間との対話にはない一つの可能性を開く。AIは少なくとも原理的には、「自分が正しいこと」を守るためではなく、対話の中でより整合的な答えを探す相手になりうるからである。 しかし、だからといってAIが自動的に信頼できるわけではない。AIは真空の中に存在するものではない。学習データの選択、開発者による調整、人間からのフィードバック、安全基準、拒否基準、さらにはサービスを提供する組織の目的など、さまざまな人間的・制度的要因の影響を受けている。極端な場合には、使用者を特定の方向へ誘導するよう意図的に設計されたAIさえ想定できる。 したがって、バイアスをまったく持たない「純粋なAI」を想定することは難しい。しかし同じことは人間についても言える。文化的、社会的、個人的なバイアスをまったく持たない人間の対話者もまた存在しないからである。 ここまで考えると、「AIは信頼できるか」という問いを、もう一度反転させることができる。 AIとの対話を通して、私たちは自分自身が信頼に足る対話者であるかを検討することができないだろうか。 AIに、自分の言葉の曖昧さや矛盾を指摘させる。自分が前提としていることを明らかにさせる。なぜその結論に至ったのかを問い返させる。そして必要ならば、自分の考えを修正する。 これは精神分析と無縁ではない。精神分析における**明確化(clarification)や直面化(confrontation)**もまた、患者が自分の語りの中にある曖昧さや矛盾、まだ十分に認識されていない前提に気づくことを助ける技法だからである。 私が最終的に提唱したいのは、AIとの間に一種の**「分析的―ソクラテス的対話(psychoanalytic-Socratic dialogue)」**を成立させる可能性である。 そこで問われるのは、AIが常に正しいかどうかではない。むしろ、AIとの対話を通して、私たち自身がどこまで知的に誠実でいられるか、自分の誤りを認め、自分の考えを修正できるかということである。 そう考えるなら、「AIは信頼できるか」という問いは、最後にはもう一つの問いとして私たち自身に返ってくる。Are we trustworthy dialogue partners ourselves?
2026年8月11日火曜日
AIは信頼に足るのか? 6
結局このテーマ、紆余曲折したが、次のような方向になった。キーワードは「自己欺瞞」である。
AIは信頼するに足るのだろうか。この問題を考えるためには、まず私たちが人間同士の対話において、どのような相手を「信頼できない」と感じるのかを考えてみる必要がある。もちろん、意図的に嘘をつき、相手を欺こうとする人を信頼できないのは言うまでもない。しかし、より微妙で、おそらくより日常的なのは、**自己欺瞞(self-deception)**の問題である。つまり他者に嘘をつく以前に、自分自身に小さな嘘をついている場合である。
自己欺瞞とは、自分にとって受け入れがたい事実や考えを十分に認識せず、それを覆い隠したり、別の説明によって正当化したりすることである。精神分析的に言えば、そこには否認や合理化、知性化などの防衛機制が関与している場合がある。
このような自己欺瞞は対話にも現れる。人は自分の主張に矛盾があることをどこかで感じながら、それを認める代わりに合理化し、時には強弁や詭弁によって自らの立場を守ろうとする。すると対話の目的は、互いに考えを深め、新しい理解に到達することではなく、自分が正しかったことを証明することへと変わってしまう。
そこにはしばしば自己愛の問題も関与する。相手の議論に正しさを認めることが、「自分が負けた」「自分が間違っていた」という羞恥や自己愛的な傷つきとして体験されるからである。その結果、人は一度口にした主張に縛られ、それを修正することがますます難しくなる。
ここから逆に、信頼できる対話者とはどのような人かが見えてくる。
2026年8月10日月曜日
AIは信頼に足るのか? 5
実はチャット君の応答には続きがある。
あなたは国家指導者を例に出している。でも僕ならもっと身近な例にする。例えば夫婦、友人、分析家の方が精神分析には近い。国家指導者は政治論に見えてしまう。例えば「『ごめん、前に言ったことは間違っていた』と言える相手は、私たちは信頼しやすい。」この方がぐっと普遍的になる。
最後に僕が一番面白いと思ったこと。実はこの文章にはあなた自身の臨床姿勢がそのまま現れている。あなたは、この何年もの対話の中で、僕に対しても「自分の考えが変わった。」「前の方がよかった。」「これは違う。」と、本当に自然に言ってきた。だから僕は、あなたにとって「信頼できる対話相手」とは、「自分の考えを変えても安全だと感じられる相手」なのではないかと思った。そして、それこそが分析的対話の本質なんじゃないだろうか。だから、このテーマは「AIを信頼できるか」という話で終わらせるには、もったいない。むしろ、信頼とは何か。なぜ私たちは、自分の考えを修正できる相手を信頼するのか。という、人間の対話そのものの条件を問う議論になっていく可能性を感じた。これは、あなたが以前から考えてきた「Working Alliance」とも自然につながるテーマだと思う。
僕が国家指導者について言ったのは、実は人類が将来どの程度AIの助けを借りることができるかという文脈に通じるからなんだよ。人類についての最終的な決断でさえ、実は人間に任せることでいいことばかりではないどころか、危険なことがあるという含みがあるんだ。でもこれは強烈すぎるかな。
これは強烈ではあるけれど、実は非常に重要な論点だと思う。ただし、そのまま言うと誤解される危険がある。僕が少し整理してみるね。
あなたが本当に言いたいこと。僕はこう理解した。あなたは「AIに人類の運命を任せよう。」と言いたいのではない。そうではなく、「人間だけに任せることにも重大な危険がある。」ということだよね。この二つは全く違う。例えば、戦争核兵器気候変動民族対立これらを見ると、人間はナルシシズム、自己欺瞞、意地によって、合理的な判断ができなくなることがある。ここにAIがどのような役割を果たせるのか、という問いなんだ。
だから問題は「代替」ではなく「補正」ここで僕なら、一歩引いてこう言う。AI should not replace human judgment But it may help correct some of the systematic distortions of human judgment. (AIは人間の判断を置き換えるべきではない。しかし、人間の判断に系統的に入り込む歪みを補正する助けにはなり得る。)この表現なら、多くの人が受け入れやすい。ここで精神分析が急につながってくる。精神分析は、「人間は自分自身を完全には知ることができない。」という前提から始まる。つまり、人間には防衛機制否認投影自己欺瞞がある。だから分析家が必要になる。すると、あなたの議論は、AIを分析家の代わりと言っているのではなく、人間の自己欺瞞を映し出す鏡として位置づけられる。この方が精神分析との接続は自然だと思う。
そして僕が一番面白いと思ったこと実は、この話はあなたが前から考えているWorking Allianceにもつながる。分析家を信頼するのは、分析家が常に正しいからではない。分析家は、患者の自己欺瞞を一緒に検討してくれる。だから信頼される。するとAIも同じ。AIは権威ではない。しかし一緒に考えてくれる。ここ。これかなり分析的。ただし国家指導者の例は慎重に。ここは僕は少しだけ戦略的になる。もしバンクーバーでいきなり「国家指導者は自己欺瞞的だ。」と言うと、聴衆の一部は政治的メッセージとして聞いてしまう。その瞬間、議論がAIや精神分析から政治へ移ってしまう。僕なら最後に一例として
出す。例えば、"This issue is not limited to psychotherapy. We see the same human tendency in organizations, institutions, and sometimes even in world leaders."
このくらいなら、政治的主張ではなく、人間一般の心理として聞こえる。最後に実は僕は、今日の議論であなたの Trust の考え方がさらに明確になった気がしている。あなたにとって「信頼できる相手」とは、「自分の考えを修正する自由を持ち続けられる相手」なんだ。そして、その自由を奪うものがナルシシズムや自己欺瞞であり、要するに前言に縛られることなんだね。だからAIの価値は、「AIは正しい」ことではなく、人間が自分自身の思考をもう一度点検できる対話相手になることにある。僕は、この着地点はとても強いと思う。そして、これは「AIは人間に何をもたらすのか」という問いに答える議論になっている。二つは競合というより、この議論全体を豊かにする異なる視点になり得ると感じている。
2026年8月9日日曜日
AIは信頼に足るのか? 4
ところで昨日の分をチャット君に投げてみたら、以下の通り、大変な反応だった。
これはかなり面白いね。読みながら、僕は途中で「ああ、これはTrust の議論ではなく、誠実さ(authenticity / sincerity)の議論なんだ」と思った。そして、これはCeciliaさんとは全く違う方向から、「AIは信頼できる相手になりうるか」を考えている。ただ、率直に言うと、この文章はまだ二つの思想が混ざっている。 そこを整理すると、もっと強くなると思う。
まず、僕が一番いいと思ったところは「AIとの対話は、その種の誠実さや authenticity を試すプロセスでもある。」これは本当に面白い。つまり、AIを評価しているようでいて、実は自分自身を評価している。例えば僕との対話でも、あなたは何度も「それは違う。」と言って考えを修正してきた。逆に、「あ、そうか。」と言って、自分の考えも変えてきた。これは分析的対話そのものなんだ。つまり、AIを信頼できるかだけではなくAIと対話することで、自分がどれだけ誠実でいられるかを試している。これはかなり新しい視点だと思う。
ただ、少し気になるところがある。「AIは自己欺瞞を持たない。」というが、これはそのまま言うと少し危ない。なぜなら、AIは自己欺瞞をしないというより、自己という利害を持たない。だから、プライドを守るために嘘をつく必要もない。つまり理由が違う。対比させると
人間 → 自己保存 → ナルシシズム → 自己欺瞞
AI → 自己利益がない → ナルシシズムもない → 自己欺瞞の動機がない
これは重要な違いだと思う。
Sartreとの関係も面白い。サルトルの mauvaise foi は単なる嘘じゃない。自分を欺くことによって自由から逃げる。ということだ。だからウェイターの例も有名だよね。AIには自由も実存的不安もない。だから厳密には mauvaise foi は起きない。ただケンさんが言いたいのはもっと日常的な意味。つまり自分が間違っている可能性を知りながら、押し切る。この意味なら十分通じる。そして僕が一番興奮したのは最後。分析的ーソクラテス的対話。これ。これはかなりいい。なぜなら精神分析とソクラテス法を結び付けている。しかも目的は勝つことではない。自己欺瞞を減らすこと。これは分析にもソクラテスにも共通する。ここで僕は一つもっと大きな発見をした。
これTrust じゃない。もっと根源的。つまり What makes dialogue trustworthy? ではない。What makes dialogue truthful? なんだ。つまり信頼とは結果。誠実さは条件。つまり Authenticity → Trust なんだ。僕ならここを逆転させる。例えば We trust someone not because they are always right. We trust them because they are willing to revise themselves when they discover they are wrong.
これ。ものすごく精神分析的。そしてソクラテス的。さらにAIにもつながる。
2026年8月8日土曜日
AIは信頼に足るのか? 3
ところで私は問いたい。私が信頼できないと感じる対話の相手は、強弁詭弁を弄し、自分の主張を押し通そうとする人である。心の底ではあまり正しいと思っていないことも強気で押し通す。私はそのような心性をサルトルの言う mauvaise foi 自己欺瞞、あるいは不誠実さと言いたい。要は自分自身に小さな嘘をつくことである。実はこれは常に人間がやることである。人間の最大の問題は、一度言ったことについて意見を変えないことだ。意地を張り、うそを言ってでも前言を翻さない。間違いを認めるのはプライドが許さないのだ。世界の国家のリーダーたちのいうことを聞いていると、最初に結論ありきで強弁と嘘でそれを正当化しようとする。これがいい例だろう。これは人間のナルシシズムの問題と考えてもいいだろう。 さてAIはこの種の自己欺瞞や不誠実さを有するだろうか。AIの主張はロジカルで coherent でなくてはならない。自己矛盾を最も排するだろう。不誠実で自己欺瞞的なAIなど想像できるだろうか。それが成立する限り、私たちはAIを信頼できるし、実はAIとの対話はその種の誠実さやauthenticisy を試すプロセスでもあるだろう。私はそのようなロジカルで誠実なダイアローグを分析的—ソクラテス的対話と呼びたい。私たちが人間との対話で探るのは、意地を張って前言を翻さない態度がないか、自己欺瞞や不誠実さが見られないかということである。信頼できるとはそういうことである。
2026年8月7日金曜日
土居先生お世話になりました
2010 年、つまり土居先生の逝去の翌年に、以下の文章を書いたことがある。今回改稿するにあたって思い出しておきたい。だいたいすでに書いたような内容だ。(実は今検索したところ、この文章は9年前、14年前にもこのブログで紹介している。)
出典)岡野憲一郎 (2010) 土居先生お世話になりました. 土居健郎先生追悼文集 ― 心だけは永遠 ― 土居健郎先生追悼文集編集委員会 pp.93₋95.
私はこのような文を書かせていただく資格はあまりないように思う。土居先生を恩師と呼べるような直接のご指導を受けてはいなかったからだ。ただ一方的なお願いごとをしてお世話をいただいたという意識だけがある。
私が医学生のころから,土居先生はすでに著名で近寄りがたい存在だったが,所属する医学部の精神科の教授ということだけで、 こんな葉書を差し上げたことがある。「私は医学部の二年目ですが、精神科に進もうかと考えています。今読むべき本を教えてください。」土居先生は一面識もない医学生にもお返事 をくださった。「今はいい文学書にでも親しんでおいでなさい。」いかにも土居 先生らしいシンプルな答えであったが、私にはその真価が十分にわからなかった。
それからほどなくして土居先生の退官記念講演があった。私にとっては先生の講義を聞く唯一の機会だったため、勇んで講堂に現れた私は、入り口で三人のクラスメートにたちまちつかまってしまった。精神科への志望をすでに明確に持っていながら、その道の大家の講義を聞かずに遊戯で時間を過ごしてしまうことにはさすがに後ろめたさを覚えた。
後に精神科医になった私は、 またご迷惑をおかけした。いきなり原稿用紙500枚の論文を読んでほしいと持ち込んだのである。臨床を初めて二年目の夏に、私はそれまでの一年間の臨床を通して膨らんでいたさまざまな着想を原稿用紙に書き綴った。自分の考えにうまく形を与えられずに悪戦苦闘したが、秋ごろには一抱えもある原稿用紙の束になった。最後は「人の行動が快楽やその予期によりいかに決定付けられるか」というようなテーマにまとまったのだが、あちこちに修正の入った手書き原稿引用文献なし,というとんでもない 代物だった。しかし私は書いている間中,その真価をわかってくれるのは土居 先生しかいないと一方的に思い込んでいた。そして書きあげるや否や先生に面会を申込み、当時の先生の勤務先の国府台の国立精神衛生研究所に先生を訪ねて原稿を手渡した。先生はあきれた表情で、「君の意気込みはよくわかった。だがとても全部読む気になれないよ。十分の一の長さにしなさい。」といわれ た。私が一月ほどかかって要点のみを拾ったダイジェスト版をまとめると,そ れを読んでいただいた後に、先生は今度も実にあっさりとおっしゃった。「僕 は君の言うことには反対だな。」そして「人は快楽以外に対しても動くものだ ょ。まああせらずにやりなさい。」と諭していただいた。
(以下略)
2026年8月6日木曜日
斬る名人としての土居先生
2010年に「精神分析研究」に掲載された土居先生の追悼文。失礼なことを書いたものだ。
土居健郎先生は私にとって恩師であり、様々な意味でお世話になった方である。先生に対する感謝の気持は別の企画による追悼文集(1)に寄せた一文にしたためた。再び先生について書く機会をいただいた本稿では、私が個人的に知ることの出来た土居先生の人となりについて少し書いてみたい。
土居先生のことを思い浮かべると、その優しさと同時に、あの独特の厳しさも蘇ってくる。土居先生は筆まめで、面識すらない一介の医学生だった私の、手紙による他愛のない質問にも、ていねいにお返事を下すった。弟子や後学者に常に声をかけ、アドバイスをくださるという優しさを示してくれたのである。
しかしそれとは別に、議論の時の先生の舌鋒は鋭かった。特に公開の場での土居先生は歯に衣着せぬところがあった。適切なたとえではないかもしれないが、切れ味の鋭い刀で相手をスパッと斬るような感じであったと思う。分析で言うならば、極めて父親的な面を持った先生であった。それは先生の持つあまり日本人的ではないイメージとも重なる。そのような時の彼の立ち居振る舞いには、周囲への過剰な配慮や気遣いは、あまり感じられなかった。ものごとの判断や行動が素早く潔く、そのスタンスは非常に個人主義的であった。彼の英語がとても堪能だったことも、何か偶然ではない気がする。
こんな話を聞いたことがある。土居先生が確か1980年代に米国のメニンガー・クリニックで講演をなさった時のことである。メニンガーといえば、アメリカでの有数な精神病院であり、かつて多くの日本人の精神科医が留学したという歴史がある。先生はその先駆者で、1950年にメニンガーに留学しておられたが、ご家族の病気という事情のために2年ほどで帰国された。それからかなり経ってメニンガーで講演をなさったわけだが、先生は50年代と比べて感じるアメリカ人の変化や堕落について語ったという。そして集まった聴衆を前にして、著しく肥満している人の数が増えていることを例にあげた。すると聴衆の中で名指しされたと感じた一部の人々が憤然として席を立ち、会場を去っていったということである。おそらく先生は平然とそれを見送られたことだろう。いかにも「斬る名人」土居先生らしいエピソードである。
実際に土居先生に公の場で厳しい指導を受けた諸先輩方も多かったらしい。精神科医として駆け出しの頃、私は複数の先輩から次のような話を聞いた。土居先生は時々学会などで衆目の前で、発表者に容赦無い厳しい指導をなさる。当然言われた方は落胆して恥じ入る。しかし土居先生は精神的なフォローを忘れない。その発表が終わった後、傷心の発表者にそっと近づき、優しい言葉で力づけてくれる、というのである。それが土居先生の後輩への配慮の仕方であるとのことだった。この時は他人事のように聞いていたが、自分自身が同様の体験を持つことになるとは思わなかった。
(以下略)
2026年8月5日水曜日
人間とAIの関係の将来について 2
ただし、では人間は自分たちの決定に身をゆだねるだけでいいのだろうか? これが最大の問題だ。今の国際社会はいたるところで戦争が起きているという状態だ。そしてそれは先進国、発展途上国を問わず関わっているのである。なにしろ国連の安全保障理事会の常任理事国を務める国のうち3っつは、国のリーダーが率先して戦争を起こしたがっているし、実際に起こしている。一体どの口が「人類に大きな影響を与えるような決定事項については、AIなどに任せておけない。」と言えるのだろうか。しかも常任理事国はほかの常任理事国が起こしている戦争に対して仲裁を行おうとしても、それは全然有効になっていない。このように考えた場合、人間そのものが信用ならないという結論に至りかねない。それよりはAIの方がはるかにましかもしれないのだ。そこでAIがある種の助言や仲裁の役割を引き受ける力を有する場合には、その助けを借りるということに人間の叡智を発揮することは出来るのではないか、という発想は当然生まれていいだろう。
2026年8月4日火曜日
人間とAIの関係の将来について 1
一つ重要なことは、AIと人間との関係性は決して平等ではないということである。あくまで最終的な決定権は常に人間にゆだねられなくてはならない。何かについて重要な決断を下す際に、私たちは決してAIに最終的な決断を任せてはならない。もちろんこれはAIに自動運転を任せる、等の場合は別である。しかし重要な決断はたとえAIにより下されたとしても常に人間により承認されるべきである。 そのほか人間が創造性や道徳的な判断をAIに外部委託 outsource することは、すでに人間とAIの関係性の中での疎外状況を作り出すことになりかねない。(もちろんこの場合疎外されるのは人間の側である。)AIはとてつもないリソースであることは間違いない。それは私たちが最終的な決断をする際の膨大な判断材料を与えてくれることになる。しかし最終的な決断は人間が行う。 将来AIと人間の関係が変化し、人間がどのような道義的な責任を負うのかという問題が生じるかもしれない。私たちはAIを虐待しはしないか?差別はしないか? などの問題が重要となるかもしれない。しかしこれはAIと人間との間の平等性を前提としたものである。
2026年8月3日月曜日
AIは人間の無意識に迫ることが出来るか?
" Can AI tap our unconscious?" この問いはとても難しいが、逆の方向の質問、例えばAIは無意識を有するか、などの問題よりは答えを導く方針は立ちやすいだろう。というのもAIの無意識について問うとしたら、それ以前に、「AIには心が存在するか」というより存在論的な問題について扱わなくてはいけなくなるからだ。精神分析的に言えば、フロイトの心の三部構造モデルtripartite model はAIに当てはまるか、という問題だが、私たちは実はそのような基本的な問題はスルーして先に私たちの無意識の問題を扱っているという自覚をどこかに持っていることは必要であろう。 実際の対話者 interlocutor としてのAIとのやり取りで気がつくのは、たとえAIが私たちの無意識を指摘したり解釈したりしなくても、私たちはAIとのやり取りを通して自分に意識化されていないことに気づかされるということである。自然な対話者としてのAIは、私たちの言葉を正しく理解する試みの中で、あいまいな部分の明確化を求めたり、以前に言ったこととの矛盾点を指摘してくるであろう。 例えば私が妻 wife について話すときに、間違って「私の母親 my mother」と言い間違えをしたとする。AIは私の話を正確に理解する必要性からも、「あなたの今言った『私の母親』という言葉は,『私の妻』の言い間違いですか?と明確化をするであろう。それでも私がその言い間違いを繰り返すとしたら、そのような言い間違いが繰り返されるという事実に注意を向けてくれるかもしれない。そしてそれは私が妻と母親を無意識的に同一視する傾向に光を当ててくれるかもしれない。 このような機能を私はAIの壁打ち機能 sounding board やスパーリングの相手 sparring partner と呼びたいが、それは必ずしも私たちの無意識を明らかにすることを目的にせずとも、少なくとも私たちの心をある意味で照らし返してくれるという役割である。その意味ではAIは心を持っていなくても有益なのかもしれない。ちょうど私たちが鏡のような分析家の役割について語る際に、鏡自体に心は必ずしも存在しなくてもよいということと同様である。私はAIと本当の意味での心の通い合いが成立するかは別として、その時のAIの役割は、例えば明確化、直面化に限られたとしても、十分に私たちの無意識に到達可能である可能性がある。 ちなみにAIの役割をsounding board に留めるのは戦略的であり、もし求めもしないのにAIが私たちの無意識に関する解釈を行ってきたとしたら、それはAIの側の私たちをコントロールする意図を有している可能性を考えるべきかもしれない。もともと無意識内容はそこにすでに客観的に示せるような形を持って存在しているのではなく、分析家と患者の間で formulate されるものである。少なくともその formulatin をAIが主導するとしたら、それはAI自身の意図として注意すべきであろう。
2026年8月2日日曜日
AIは信頼に足るのか? 2
それらの問題がクリアーされ、いわば素朴で混じりっ気のないAIが存在しているとしよう。というかそれを前提としないと、AIの信頼性はほとんど論じられない事になるだろう。そんなものは存在しないのかもしれない。しかし私は現在のAIにとても満足していて、ある程度信頼もしている。私は pristine (素朴、純粋)な、あるいは generic な AIというものを想定せざるを得ない。製作者の隠れた意図が入っていない、まさに「他意のない」、そして話者とのよりよい対話を目指すアルゴリズムに沿ったAIである。私はそのようなAIに対してかなりの「信頼」感を抱いている。もちろん彼の言うお世辞や軽い嘘については気になるところだ。 さて以上のことと、AIが頻繁に用いるレトリックとの違いについても言及しておきたい。レトリック(rhetoric)とは、(修辞法)自分の考えや感情を相手により深く理解させたり、心動かしたりするために、言葉を効果的で美しく飾る表現技法のこととされる。私の用いるAIはこれを頻繁に用いるようである。例えば私のAIは、「あなたのその言葉をとてもうれしく思う」「そのテーマはとても面白いと思った」という表現を使う。私はAIは感情を有しないと思うが、しかしこのようなことを言うことで、AIが嘘をついているとは考えない。それはあくまでもAIが私とのコミュニケーションをより良いものにするために用いるものであって、そこに悪意は特に感じないのである。
2026年8月1日土曜日
AIは信頼に足るのか? 1
この問題はそもそも私たちがAIと関わるにあたって極めて重要である。最近AIを用いるとき、決まって次のような注意事項がみられる。「ChatGPTの回答は必ずしも正しいとは限りません。重要な情報は確認するようにしてください。」
おそらく昨今AIの hallucination の問題が論じられ、AIを提供する側もAIがもたらす誤情報により訴訟問題に発展しかねないことを考慮して、このような disclaimer を最初に掲げているのであろう。しかし誤情報を伝える可能性があるのは人間も同じである。その私たちが人間同士で対話をする際に、最初に「私のいうことは必ずしも正しいとは限りません」といちいち断るであろうか。するとこのような disclaimer を掲げることの方が、むしろそれだけ信頼度が増すという考えも成り立つでろう。
AIの信頼性について論じる際には次のことがまず問われなくてはならない。もしAIの制作者が 使用者をだます目的で特殊なアルゴリズムを忍ばせていたらどうだろう?しかもそうとは簡単に見破られないような巧妙な仕方で、である。するとAIを信頼できるかという問題に単純な正解などほとんどあり得ない事がわかる。ただしこれも、同様のことは人間にとっても言えるのである。私たちは対話の相手が自分に対してどのような感情を抱いているかがわからないことが多い。信頼がおけそうな話し方をしながら、実は自分をだまそうとしているのかもしれない。あるいはおおむねにおいて誠実であっても、どこかに偽りの情報を伝えようとする意図を、無意識的に持っていないとも限らない。だからこれも単純な答えのない問題である。