2026年9月30日水曜日
成田先生のこと 14
興味深いことに、成田先生はそのような受け売りをしたければ勝手にどうぞ、という寛容さを示さない。そのようなタイプの人たちに対しての一種の嫌悪感を抱いていたようである。彼はクラインやビヨンなどを例に出して、それらの理論を用いる人たちの一部を念頭に置いているかのように、「輸入業者にとどまっていることへの羞恥と焦燥のないところには独自の学問は生まれないであろう」(2019,p10)とまで述べる。(精神療法家のひとりごと 金剛出版、2019)
2026年9月29日火曜日
成田先生のこと 13
この辺で、成田先生の学派的な色付けを無理やりしてみたい。彼も草葉の陰でさぞかし迷惑がっているだろう(笑い)。はっきり言って、成田先生は関係論者である!!彼は伝統的な分析的な考えには少しもこだわっていない。彼は成田理論を全うし、それは関係論的な境地とかなり一致している。ただし成田自身はおそらくそんなことはあまり大事ではなかったであろうとも思う。
私は最近エナクトメントの文章を書く必要に迫られているが、エナクトメントを治療作用の主軸に据える傾向が最近の関係論にはあり、そこでは自己開示をタブーとしない傾向にある。エナクトメントについて扱う上で、治療者が自分自身の関与を棚上げすることは論理的に無理があるからだ。しかし自己開示は今でもかなりタブー扱いされ、分析学会ではそのような介入はまず問題視されるであろう。だからそれについての姿勢を示すことにはどの療法家も極めて慎重になる。
しかし成田先生にはそのような懸念が見られない。最近注文した「成田善弘 心理療法を語る」(金剛出版、2024)の「治療者の自己開示をめぐって」の章を見てみよう。(この章は2017年の、第18回日本サイコセラピー学会特別講演をもとにしてあるが、彼の後期の考えを代表しているとみていい。)
この章を読むと、成田が自己開示の問題に関して、それが過小評価されるに至った経緯を主として精神分析理論の流れの中で論じている。そして「自己開示のイメージは・・・タブーとなりました。その後・・・それについて正面から論じることは精神分析の中では長い間避けられていました。」(p203)としている。つまり成田はこのテーマがタブーであることは十分承知でありながら、そもそもフロイト自身が自己開示をしていたという事実についても論じ、フロイトが「理論的に主張するほど中立的に振る舞っていたとは言えない」(204)とする。そしてこういう。「私はセッション内の治療者の主観的体験は、開示する方向で考えるべきだと思っていて、これを「白状する」と称しています」(225)と述べ、それが治療の転機となることについて述べている。
2026年9月28日月曜日
成田先生のこと 12
(成田(1982)精神療法の深さ—精神科医の立場から 精神療法 8巻4号、1982
これは1982年の文章で、彼が40代の初めに書いたことだが、かなり旗幟鮮明である。彼は精神療法には深いものと浅いものがあるという。成田先生はこの論文で、深い精神療法と浅いそれを対比的に表で示すが、これはまさに精神分析と支持的療法の対比である。そして言う。「中にはこの表を見せられて、ぜひ『深い』方をという患者もいるかもしれないが、そういう選択をする人にはすでにそこに問題がありそうである。マゾヒスティックな傾向のある人か、精神療法嗜癖者か、あるいは通常医師のもとを訪れる病人として病気の背後に隠れているはずの、自己探求への、人間的接触への、愛への希求がすでにしてあらわになっている人たちであろう」「一方、自分が精神療法を学び始めた新進気鋭の治療者だとしたら、『深い』方をやってみたいと思うであろう。つまり『深い』法は治療者向きなのである。」そして医師の治療的野心に触れ、「それはより根本的に、完全に、徹底的に直したいという治療者の欲である。その背後には、患者の心を切り刻みたいというサディスティックな欲求が時にひそんでいる。こういう治療者の欲が深すぎると、患者の負う傷が深くなる。少なくとも患者の従来の殻や枠が壊されて生身が露呈してしまう。こういう事態を引き起こした治療者は罪の意識を感じるであろう。精神を治療しようなどそもそも罪深いことである。」(成田(2012)精神療法の深さ― 成田善弘セレクション 金剛出版、P70~71)
どうだろうか。一刀両断である。彼には「週一回では精神分析的な療法は出来ない」という消極的な姿勢はない。実に堂々と精神分析に喧嘩を売っているのである。
ところでこの議論は笠原のいわゆる「小精神療法」の影響を受けている可能性があるが、(笠原嘉(2007)精神科における予診・初診・初期治療. 星和書店.)時代としてはそれよりはるかに古い。しかし成田先生より10年先輩のこの議論に、同じ名大にいらした成田先生は影響を受けたに違いない。以下は笠原の書から抜粋。
(f)「深層への介入をできるだけ少なくする」件について。初診の項で強調したことだが、再診以後においても同じように「切開」は小さい方がよいと思う。精神科医になった以上、何時かは深層介入をやりたいという色気(?)はあってもよいが、小精神療法の際には禁忌と思っておく。最近いくつか出る外国の小精神療法書も一致して深い切開をいましめている。精神分析解説書が氾濫しているから「一寸」やりたくなる。自分でもやれそうな錯覚をもたされる。世間も精神科医に一種の「魔術師」を期待する。しかし不用意にやると、収拾がつかなくなる。」(2007, p.156~157)つまり笠原と成田は同じフレバ―を持っているのである。
2026年9月27日日曜日
成田先生のこと 11
ここで先生のよく知られた概念である「心の井戸」と「その場の雰囲気さん」について述べたい。これは先生のかなり関係論的な考え方を表していると思う。先生の晩年のエッセイに「共感をめぐって」(祖父江典人、細澤仁編著(2023)寄添うことのむずかしさーこころの援助と「共感」の壁」2023年、木立の文庫)に特別寄稿として書かれたもの) がある。 この章を読んでもかなり成田先生はフロイト理論と戦っておられる。彼は共感をポール・ブルームの反共感論(ポール・ブルーム著、高橋洋訳 2018年 白揚社)の説に倣って、認知的なそれと情動的なそれに分け、精神分析的な解釈はもっぱら前者によるものとする。そして共感を雰囲気として感じ取るものとして、つまりは情動的な共感として捉え、それを患者に伝えることを実践しているという。その上で彼が掲げるのが、「その場の雰囲気さん」という言葉であり、第三者的な立場の人が治療室にいたらその場の雰囲気をどう感じ取るかをそう呼ぶという。これはトーマス・オグデンやジェシカ・ベンジャミンによる精神分析の「第三主体」の概念をまさに彷彿させ、成田自身がいみじくも、これを the third,すなわち第3の主体と同類のものとしている。 この概念はそれでさえ分かりにくい第三主体という概念を、この「その場の雰囲気さん」という和語で見事にわかりやすく表現しているということである。
ここで改めて成田先生は関係論的かと問うてみよう。私はそうだと思う。それは成田先生が自分の考えを患者に伝えることに非常に重きを置いているからだ。従来の精神分析では治療者が自分のことに目を向けたり、自分を語るのに非常に抑制がかかっている。それはもちろん徐々に変化しつつある。たとえば逆転移はフロイトの時代以降は、不可避的に起きることで、むしろそれをよく理解する事が大切ということになった。またそれを行動に表すことでさえ、以前は逆転移の行動化と呼ばれ、戒められていたが、最近は逆転移エナクトメントとして、積極的に活用するようになってきている。そして特に大切なのは、それを俎上に載せるという傾向が、関係論にしばしばみられる一つの特徴といえるのだ。その意味で成田の考えは極めて関係論的といえる。
2026年9月26日土曜日
エナクトメントについて 3
エナクトメントというテーマなのにどうして将棋の感想戦についての話になっているのかと思われるだろう。一言でいえば、エナクトメントについて扱うことは、この感想戦にどこか通じているような気がするからだ。通常の対戦では駒の動きだけがすべてである。対局者はそこに感情を直接的に表現することなく、ポーカーフェイスで進める。ところがその底流に存在し続ける思考や感情は後に感想戦で語られることにより、対局中の思考の流れはある程度の修正を迫られ、それが自分の棋士としての実力の向上につながる。「あの時は~というつもりであそこに角を打ったが、実は別の観点が自分の中にあったら、それよりも優先すべき別の手を思いついただろう」という感じである。つまりはその対局は感想戦をもって新たな意味が与えられ、厚みを持つことになるのである。
エナクトメントと自己開示の要素
この感想戦の例で明らかなのは、そこで意味を持つのは交流、つまり両者の言葉のやり取りであり、それは必ずある行為の背景にあった考えをその行為者が言語にするというプロセスを含むということだ。それにより相手の行動の背景がわかり、人は安心し、その人の心が今一歩つかめるようになる。得体のしれない手を打つ対局者はもう少し等身大の人間に下りてくるのだ。
例えば先ほどの例で、治療者が「ムッ」とするというシーンについて書いた。それは患者の側の「先生は私のことを真剣に聞いてくれていませんね」に反応したものであった。そしてそれに患者が何となく気が付く。これらの動きはそれ自体が謎めいていて、治療者と患者の距離を遠ざける。お互いが相手を得体のしれない存在と考える。もう少し言えば自分自身も得体が知れないと感じているかもしれない。治療者なら「訓練を受けているのに、なぜこんなに腹が立つのだろう?自分は本当に治療者としてこれでいいのだろうか?」と自らに疑いを向ける。「こんな治療者を患者は受け入れることができるのだろうか?」そしてそのインパクトの重大さは、患者側の反応から推し量ることができる。
ここで治療者は患者からの「あれ、先生は気分を害しましたか?」に対するある程度率直な返答は決定的であることがわかるだろう。それにより治療者は得体のしれない存在から一人の人間になり、患者にとっての自分自身もそうなるのである。
ではここで治療者の自己開示がどの程度決定的かということについて今一歩考えると、それは必ずしも必要ではない場合もあろう。例えばムッとした治療者の気配を感じて、患者は思うかもしれない。「明らかに先生はムッとしているな。ということは先生も人並みに感情を持っているんだ。」そしてそれが分かっただけでも患者にとっては収穫であったという場合である。つまり相手の気持ちがわかる、という場合には必ずしも治療者の「白状」が必要ではないことになる。もちろんその場合は、「ああ、先生は率直で正直な人なんだ。ありがたい」という気持ちは得られないことになる。でもその場合は実際に治療者は「率直な人間」ではないということになり、それはそれで仕方がないことである。「先生は人間的な感情を持つのだ」という理解だけでもいい。そしてそこで患者は得体のしれない他者からリアルな他者という遷移は体験することが出来たわけである。つまりまとめれば、エナクトメントは自己開示を含むことで、より効果的になる場合があるということだ。
2026年9月25日金曜日
エナクトメントについて 2
ここで私のエナクトメントについてのアイデアを膨らます。突然であるが、私は囲碁や将棋、スポーツ一般の観戦が好きである。それは不正の入る余地がないからだ。人と人とのかかわりはたいていは忖度とか遠慮とか不正が介入する。人同士のやり取りには、常に一種の化かし合いのニュアンスがある。二国間の紛争など特にそうだ。一方が他方に先制攻撃をする。攻められた方は「相手に先制攻撃をされたから」応戦するという口実が生じる。ところが本当は「先制攻撃をされた」という訴えが偽りだったりする。あるいは先制攻撃したほうが、「実は歴史的には相手国にこれまで蹂躙され、攻撃を受けてきたのだ。だからこれは一種の自衛である」とかなんとか言い、結局どちらが攻撃を仕掛けたかが曖昧になる。そして両者は相手を欺くことばかりを考え、決して本音を言わない。企業によるデータの改竄や政界の汚職、脱税など数限りない不正がこの世では生じる余地がある。 ところが将棋はどうだ。(別に囲碁でも相撲でもいいが。)不正の介入はあり得ない。駒を盤に置いた後、「あ、間違えた」と打ち直すなどということは絶対に反則なので起きようがない。駒を置く瞬間に「あ!待った!」とか言い、実際に駒が盤に触れたか触れないかがビデオ判定になる、などということは普通は起き得ない。つまり不正はあり得ないのだ。 そして私が感動するのが感想戦である。勝った方も負けた方も対等に意見を出し合う。実際の対局中に起きた様々な妙手なども、感想戦では「あの時あそこに角打ちをしようかと思いましたが、その先の詰みを見通せないので止めました」「ああ、そうだったんですね。」等の会話は、そこにお互いに相手への思いやりはあっても下心はなく、両者が純粋に将棋道の真理を追求することを目的としているという気がする。本当に将棋が好き、という共通項がないと出来ない芸当だと思う。あれほど闘志を燃やして戦い、負けた方はさぞかし悔しいし相手を恨む気持ちが湧いてもおかしくないのに、あの潔さは何だろう?(実はあれほど真剣勝負なのに、裏に壮大な八百長があるって?ありえない!)。 エナクトメントというテーマなのにどうして将棋の感想戦についての話になっているかというと、思われるだろう。一言でいえば、エナクトメントについて扱うことは、この感想戦にどこか通じているような気がするからだ。
2026年9月24日木曜日
成田先生のこと 10 彼は関係論者だったか?
このように考えつつ成田の著作を読むと、その基本的な考えはいくつかの項目に集約されるという思いが強くなる。それらは彼が漠然と信条にして治療をしているというよりは、彼の中では一つのメソッドとして出来上がっているという印象を受ける。それが彼の膨大な著作に表れている。つまりそれ等は『精神療法の第一歩』(診療新社、1981)『精神療法の経験』(金剛出版、1993)『心と身体の精神療法』金剛出版 1996 『精神療法の技法論』金剛出版 1999 『精神療法家の仕事 面接と面接者』金剛出版 2003 『セラピストのための面接技法 精神療法の基本と応用』金剛出版 2003 『治療関係と面接 他者と出会うということ』金剛出版 2005 『精神療法面接の多面性 学ぶこと、伝えること』金剛出版 2010 『精神療法を学ぶ 精神医学の知と技』中山書店 2011 『精神療法の深さ 成田善弘セレクション』金剛出版 2012 失礼ながらその文章には繰り返しが多いので、どれを読まなければいけないという種類の文章はない気がする。どれを読んでも切り口には同じような主張が見られる。(その意味ではコフート的、という印象も持つ。) 御存じの方も多いと思うが、成田は囲碁の達人であり、文学をこよなく愛したが本質的に理系人間である。彼の中では(周囲の目からは)成田理論とでもいうべき体系が漠然と流れていたかのように見える。 しかし成田のこれらの理論的な書を読んでも不思議と難解さはない。それはこれらがほぼエッセイ風に、experience-near に語られているからである。そして大事なのは、その根底に正直さが流れていることだ。だから読者は常に身に引きつけて彼の文章を読むことができる。 その証拠に成田には実に自分の弱さや足りなさを暴露したものが多い。自分は孤独で人と交われなかったこと。運動が苦手だったこと。分析学会誌に原著論文を掲載していないのに会長になったこと、教育分析は受けていないこと、などなどである。わざわざ言わなくていいのに、と思うほどであるが、その正直さは露悪的でなく心地よい。そしてそれと同時に彼の野心があまり感じられない。その意味での、言わば通俗的な意味での自己愛は彼には希薄といっていい。 だから彼は自分の理論を死守するために強弁するというところがない。場合によっては相手を取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田理論なのだ。そしてそこには難しい四字熟語的な概念は出てこない。何時も和語で語られる優しいものである。「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」などなど。 成田の感性にも触れようか。彼にはある種の納得感を大事にすることがあり、それは治療者が患者とどのような会い方をするかということだ。そしてそこには彼独特の感性が働いている。成田には患者を助けようとする殊勝な考え方はなかったというが、そこで何がどのように作用するかはとても興味があった。そしてその最大の理由は、彼が患者の気持ちを良く感じることが出来たからであろう。それは患者の「わかってほしい」という気持ちであり、それにどのように応えるのか、そしてそのための彼の心構えは何か、ということを追求した。成田が師匠である伊藤氏から教わった「患者の着ぐるみに入れ」はその表れであり、「その場の雰囲気さん」もそうである。
2026年9月23日水曜日
エナクトメントについて 1
Tジェイコブスの論文以来、エナクトメントは北米での理論と考えられているが、そこでの単一の概念は存在しないとも言われる。決して一枚岩の概念ではないのだ。それぞれの論者が異なる意味で用いているのが現状である。 歴史的にも押さえておかなくてはならないのが、エナクトメントは無意識的な事柄が意識化されることなく行動に移されたという、いわばアクティングアウトと同類の概念として扱われる傾向があり、それは当分続くであろうということだ。つまりそれはそのままでは分析空間を破壊ないし侵害するものだというニュアンスを伴い続ける。 IPAの「IRED」のエナクトメントの項目にも、ラテンアメリカでは、エナクトメントは発散や行動で分析的フィールドが侵入 invade されることとして論じられていると述べられている。つまりよくないこと、解釈などにより解消されなくてはならないこととして扱われているのだ。ただしそれがジェイコブスの論文により、治療者の側からも生じるという認識が生まれ、それがより臨床的な形で論じられるようになったということであろう。
ただし私自身が考えるエナクトメントの潜在性はそこにはない気がする。エナクトメントが何かを伝える可能性を持つこと、としてそのために何らかの「セカンドルック(見直し)」がなされる対象であるということには同意する。しかしそれが取り除かれるべきもの、という考え方には納得がいかない。それはむしろ常に起きていて、機会があったら見直しをすることでより豊かな何かを創造する可能性を秘めているということだ。そしてそれは半ば必然的に、治療者の側の「あれ?やってしまったかな?」的な気づきを伴う。何しろ患者の側の言動について「あれ?彼は何かやってしまっているかな?」は明確化や直面化などの対象になるだけであり、エナクトメントは呼ばないであろう。エナクトメントは、治療者の側の「何が起きているのだろう?(そして自分はどうしてこんな反応をしているんだろう?)」という体験を必然的に伴うわけである。その意味で「エナクトメントは治療者の側から生じる」というのはある意味では正しい理解になる。同じ現象が患者の側から生じても、それはエナクトメントと呼ぶ必要がないという意味で、である。それはほぼ確実に治療者の側の「あれ?」を持って始まるのである。そしてその「あれ?」という気付きはそれが起きない限りは非治療的かと言えばそういうわけではない。 ある例を出そう。ある時ある患者が「先生は私のことを真剣に聞いてくれていませんね」という。それに対して治療者一瞬はムッとした。もちろん表情には出さなかったが、その患者の言葉に対しての頷きは少し遅れたであろう。 この「ムッとした」はエナクトメントと言って差し支えないだろう。でもこれは治療者の無意識の何かがそうさせたのであろうか? いや、実はその治療者は「どうしてムッとしてしまったのだろう?」とは思わない。ムッとした理由はとてもはっきりしている。というより相手に責められていい心地がしないのは普通のことだ。しかしおそらくこのエナクトメントは俎上に上らない。このままでは使い道がないからだ。それは例えば患者の「あれ先生、気分を害したのですか?」という反応を待って、すなわち治療者のエナクトメントを患者の側が感じ取り、それを何らかの形で表明したことで使えるようになる。「先生、気分を害しましたか?」という言葉は必ずしも必要でないが、治療者の情緒的な反応が患者に伝わった何らかの印が必要になろう。そのやりとりで二者の間でいわば情緒的な連鎖が生じる必要があるのだ。 さてここからが私が通常のエナクトメントの概念と恐らく異なるイメージを持っている点だ。私はこれが俎上に載せられ、患者と一緒に観察されることに意義があると考える。それが治療者の側の何を意味しているかという探索は、大切ではあるが、第一義的ではない気がする。それはどういうことか?
2026年9月22日火曜日
成田先生のこと 9
しかしもちろん患者が文化を背負っている場合もある。「フロイトは神経症的な苦しみを治療により取り除かれたのちに、通常の人生の苦しみが残る、と言ったが自分の苦しみの場合はどうなのか?」など。しかしその治療者はそれをフロイトの立場に立ってのみ論じられるかと言えばそうではない。フロイト的な考えに捉われているゆえの苦しみであるならば、フロイト的な考えの外に立って考える必要も出てくるだろう。
さらに言えば、患者の話を聞いているうちに、自分に自信が持てないというその悩みは、治療者自身の「自分に自信が持てない」という、おそらく現在の自分やかつての自分が持っていた悩みに通底し、そこからは学派を越えた個人的な問題に立ち戻るのである。そしてその問題は無文化的であり、なぜならその苦しみを少しでも和らげるためにはどの学派の考えでも構わないからである。そして「どの学派でも構わない」はいたって無文化的な発想であり、それこそ喫緊の問題であり、患者がお金と時間を費やしてでも通ってくるモティベーションにもなっているのである。
ただしこの「どの学派でも構わない」という姿勢自体は、その治療者が慣れ親しんだ文化を捨てるということではなく、おのずとそれに従って考えている文化が行き当たり、それ以上進めない時にそれをいかに無視し、自分の思うままに進むかということだ。そしてそれが私が治療者の自由度として考えることである。
2026年9月21日月曜日
成田先生のこと 0
成田先生の追悼記念号に寄稿のお誘いがあったことは誠に光栄である。私は先生と師弟関係になったわけではなく、SVをお願いしたこともない。年に一度学会でお姿をお見掛けするだけであった。私は先生の著作のファンであったが、先生の本を隅から隅まで読んだわけでもない。しかし私の中での先生の位置は特別なものであった。それはどのような意味でであろう_
これを考えると、かつて先生が古沢賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はその時の受賞講演の司会の役をいただき、 最初に 先生を簡単にご紹介したのである。その時私は最後に「成田先生は精神分析学会の良心です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした某先生が「面白いこと言うなあ」と苦笑なさったことも含めて明確におぼえている。そして今振り返っても、成田先生はやはり「分析学会の良心」であったと思うのだ。この文章は私がそれで意味するところをできるだけ簡潔にお伝えしたいと思う。
2026年9月20日日曜日
成田先生のこと 8
私が今あげた例は、治療者が自由度を失った状態を示すことを目的としていたわけではない。初診の治療者が誰でも通る道をわかりやすく示したかっただけである。もちろん治療者は経験を積む中で、治療場面で起きたことに自分ひとりで臨機応変に対応するようになるだろう。つまり彼はある意味での自由度を獲得していくことになる。しかしそれでも彼は自分が学んだ学派の考えや、過去のバイザーによる刷り込みを逃れることは出来ていないことが多い。そしてそれが本当の自由度なのかどうかは、分かりにくいことが多い。
では本当の自由度とは、目の前の患者の立場に立った場合にどうして欲しいか、そして今の自分はそれに見合った対応が出来ているかを考える能力であり、できれば両者を矛盾のない形にすべく、治療者としての自分の在り方を形成していく力ということになる。
ここで「目の前の患者の立場に立った場合にどうして欲しいか」は、もっと端的に言えば「自分が教育分析(個人セラピー)により、患者の立場に立った時に感じること」ということになる。もちろん共感性の高い治療者なら目の前の患者の気持ちに合わせることは出来るであろうが、本当にそれがわかるのは、自分が患者の立場に実際に立たされた体験を持つことである。もし過去に同様の状況で贈り物を拒絶した経験がある治療者は、自分が同じ立場で治療者に買ってきたお土産を受け取ってもらえないという体験を持った時に初めて「あの時」の治療者としての自分の対応を振り返ることになる。そして「あの時は学派の考えとかバイザーの教えに従っていたけれど、本当に治療的なのは~だったな。自分も一人の治療者として、あの時の間違いを繰り返してはならないな」という、ロジャース的な「自己一致」に準ずる考えを持つことが出来たら、その治療者は本当の意味での「自由度」を獲得できたことになる。そしてその自由とは、学派の縛り、バイザーからの縛りからの自由ということになるのだ。
2026年9月19日土曜日
成田先生のこと 7
この文章のタイトルにあるように、成田先生は比較的自由人であったと思う。精神分析学会には属されていたが、その縛りは比較的少なかったのではないかと思う。そして人間として自由であることその治療者としてのスタイルは極めて関係が深く、ある意味では治療者であるうえで決定的な資質とも関係しているように私には思われるのである。
成田先生について語る前に、この治療者としての自由さということについて述べておきたい。少なくとも我が国において、精神療法(特に心理療法とは区別せずこのような呼び方をしておく)を行う際、何らかの学派の影響を受けていないということの方が稀であると考えて差し支えないだあろう。精神科医あるいは心理士として大学教育や卒後教育を受ける時点で、例えば精神分析や認知行動療法やロジャース派の理論を学んでいるであろうし、その学派に属するスーパーバイザーについて指導を受ける可能性が高い。そして初めて患者を担当する際には、おのずとその学派で常識とされている考え方に最初は従うであろう。
たとえば精神分析学会に属し、分析関係者のSVを受けているとしたら、分析的な考え方に従った治療を行う傾向にあるであろう。その意味でその治療者は本当の意味で「自由」ではない可能性がある。もし臨床場面で一つの方針を立てようとしている時、「これは分析的にはあまり薦められないな」という考えが浮かび、その方針を変更する時、その治療者は倫理的に正しいのだろうか?
例えば患者がそれまでの週一回の頻度の面接を、次回から隔週にして欲しいと望むとする。初心の治療者ならそれをそもそも聞き入れるべきか、その要求をどのように理解するべきかということに関して途方に暮れ、それだけで身動きが出来なくなる可能性がある。急な面接頻度の変更にどのように対処するべきか?それは分析的な精神療法のテキストに書かれている事だろうか?バイザーはこれについてどのような判断を下すのだろうか?・・・・ おそらくその時に患者がどのような気持ちなのかについて考えるという作業は、それをしないということはないまでも、おそらく二の次になる。なぜなら治療者は「間違った対応をしてはいけない」という不安に駆られているからである。
2026年9月18日金曜日
私の治療方針 3
治療の実際
【解離性同一性症】
一手目 安全・安心を与える環境での支持的な精神療法(毎週~隔週)
二手目 患者の日記ないし手記の作成を出来る範囲で促し、治療に活用。
【解離性遁走】
一手目 安全・安心を与える環境での支持的な精神療法(毎週~隔週)
二手目 記憶の欠損部分に関する個人年表の作成
【FND】
一手目 安全・安心を与える環境での支持的な精神療法(毎週~隔週)
二手目 脳神経内科へのコンサルテーションないしはそれとの並行治療
いずれの項目に関しても第三手目としては併存症(気分障害、パニック、PTSDその他)の薬物的治療
私のTips
治療の経過でも診断的な見直しや併存症の確認が極めて重要となる。また症状の悪化を招くようなトラウマ因を除外ないし回避することも極めて重要である。
2026年9月17日木曜日
私の治療方針 2
私の治療方針・処方の組み立て方
解離症の治療はその正しい診断的な見極めとその患者への説明や情報提供に始まる。解離症状は極めて多彩なために他の身体疾患や精神疾患と誤診されやすく、またそれらの症状に併存して見え隠れしている可能性がある。注意深い身体疾患や脳神経学的な疾患の有無の検討の上に解離症の診断が得られた場合には、その症状の表れ方を理解し、それを患者やその家族に説明し、それが演技や作為によるものでないことを説明する。一般に解離症状そのものに有効な薬物がなく、解離性の陽性症状(幻聴、幻視など)が抗精神病薬の処方により改善することはあまり期待できない。しかしそれらの少量の使用は興奮や気分障害などの併存症の症状を抑える意味で有効であることが多い。鬱症状への気分安定薬や抗うつ剤も同様である。抗不安薬の使用は不安の解消に有効であるものの、場合によっては解離症状を悪化させる可能性もあるので注意を要する。
2026年9月16日水曜日
私の治療指針 1
かなり短い原稿依頼。「事典項目」に近い。
疾患メモ 解離症/解離性障害は、意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合の破綻ないしは不連続性により特徴づけられる。しばしば心的トラウマ(心因、強度のストレス)の結果生じる。解離症/解離性障害は記憶や意識の障害を呈するものと知覚及び運動機能の障害を呈するもの(従来の「転換性障害」)に分類される。(なお後者はICD-11では解離性障害の一つとして分類されるが、DSM-5では身体症状症というカテゴリーに属する。)
診断のポイント 本人の体験に関する認識や記憶が不連続的であり、しばしば健忘を残すことは診断の一つの決め手である。また幻聴や感覚の脱失、不随意的な運動、等が比較的急に現れ、消失するというパターンを取ることが多く、その背景に本人の驚きや恐怖などの情動的な体験が見られることが多い。症状の多彩さから統合失調症などの鑑別がもんだいとなることが多く、また身体科、脳神経内科の受診が先立つことが多い。
2026年9月15日火曜日
AIはどこまで挑発的か? 5
チャット君は、この話題は「イドなき自我 an ego without an id」と見事につながっているという。普通なら、id/desire → creativity → surprising thought
と考えたくなる。創造の源泉はあくまでもイドというわけだ。ところがAIは、自我機能のようなもの+生成性 = 驚くべき思考となる。すると、AIはわれわれに、「創造性」「自由連想」「挑発性」「洞察」のどの部分が本当に drive や desire を必要としていたのかを、一つずつ分解して見せているのかもしれない。これはまさに逆照射だと思う。AIについて考えていたはずなのに、結局、人間の創造性とは何なのか。 人間の自由連想とは何なのか。
分析家の解釈を本当にanalyticにしているものは何なのか。これらの問題を改めて問い直してくる。だから “How Provocative Can AI Be?” というタイトルをそのまま付けて取っておく。そして中心命題を一行にするなら、AIは挑発する意図はない。しかしAIはその生成的な性質から真に挑発的な(あるいは変革的 transformative な何かを生みだす可能性がある。
2026年9月14日月曜日
AIはどこまで挑発的か? 4
さらに面白い「desireなしの創造性」
従来われわれは、
desire → spontaneity → creativity → unexpected production
という一本の系列を暗黙に想定してきた。
ところがgenerative AIは、
no apparent desire → generation → novelty → surprise
という奇妙な系列を見せている。
だからAIがわれわれに迫っている問いは、
Must creativity originate in desire?
なのかもしれない。
さらにpsychoanalyticに言えば、
Must an interpretation originate in the subjectivity of the interpreter in order to be transformative?
もし患者のpsychic organizationを揺さぶる言葉が、分析家自身の無意識やdesireから生じなければならないのなら、AIには原理的限界がある。
しかし、患者が予期していなかったassociationを生成し、その患者の既存の意味構造を揺さぶること自体がanalytic disruptionなのだと考えるなら、AIにも少なくとも機能的には可能になる。
2026年9月13日日曜日
AIはどこまで挑発的か? 3
AIは coded だから、その output も coded であるという言い方には、少し飛躍がある。ニューラルネットワークの巨大な潜在空間、文脈依存性、probabilistic generation などが組み合わさると、個々の出力は設計者が一つ一つ書き込んだものではなくなる。
つまりコード化されたシステムもそのコードの過剰を生成する可能性がある。A coded system itself might generate an excess over its code?
これは言うならば、コードにより生成された過剰“excess generated by code” という第三のカテゴリーではないか。
human uncoded excess
↕
AI-generated excess
↕
mere programmed response
そして、ここからHarveyの「分析家の挑発性」に戻ると、もっと面白くなる。たとえば患者が、
“I don't think I'm angry with my mother. I've forgiven her.”
と言ったとする。AIが、
“I wonder whether having forgiven her and no longer being angry with her are necessarily the same thing.”
と返したらどうだろう。
これは十分にintrusiveだし、場合によってはかなりprovocativeだ。
ところがAIは患者に腹を立てているわけでもないし、「この防衛を崩してやろう」というdesireもない。
つまり、
Provocation does not necessarily require a wish to provoke.
ということになる。この挑発する意図のない挑発がとても重要なわけである。
2026年9月12日土曜日
AIはどこまで挑発的か? 2
チャット君は「人間の分析家は患者の既成のpsychic organizationをdisruptできるが、LLMにはそれができない」という主張に対して、かなり正面から返せる論点になっているという。そして 「挑発的である」ことを二種類に分けることを提案する。
人間の分析家が挑発的になるのは、分析家自身に欲望、無意識、逆転移、攻撃性、好奇心などがあるからだ。つまり、subjective provocation とでも呼べる。一方AIには、少なくとも現在のLLMには、その意味での「あなたを揺さぶってやろう」という欲望はない。しかし、それとは別に、AIの答えはユーザーもデザイナーも驚くようなものもあり、それは generative provocation と呼ぶことを提案する。
後者のいい例は、AlphaGoの「第37手目」という例。(2016年のLee Sedolとの第2局の有名な手)。重要なのは、AlphaGoが「独創的な手を打って李世乭を驚かせてやろう」と欲したわけではない。それでも結果として、人間の予測を破り、それまでの囲碁の「良い手」の感覚そのものを揺さぶった。これを「創造的ではない」と言い切るなら、逆に創造性とは何なのかをかなり狭く定義しなければならなくなる。つまり創造性は創造的な主体を必ずしも必要としないということになる。ただしCさんの「コード化されていない過剰さ」を完全に否定する必要はないと思う。
人間の発話には、身体、欲望、prosody、slips、repression、transferenceなどから生じる、発話者自身にも制御できない「過剰」がある。これは確かにLLMには同じ形では存在しない。しかしAIのoutputは、そのcodeから完全に予測可能でもない。つまり、
coded system ≠ completely predetermined output
2026年9月11日金曜日
AIはどこまで挑発的か? 1
以前誰かが「人間の分析家はいい意味で挑発的で侵入的でありうる」ということを言っていた。ところがAIにはそれがない、という文脈だ。それいらいそのことをずっと考えている。本当にそうだろうか。今のところ人間の言葉(思考?二次過程)は「コード化されていない過剰さ」があるが、AIにはそれが薄いという前提はそのままにしよう。ところが私たちはGAIという言葉が示すとおり、AIが生成的 generative であることを前提にもしている。生成的であるということは、どこかに創造的で自発的で、挑発的な面を含むのではないか? AIには desire はないはずなのに、どうしてそうなるのか?
AIは真の意味で創造的ではないかもしれない。でもアルファー碁は人が絶対差さないような手を差した(有名な「第37手目」)。これって創造的じゃないの?
このように心や主体性がないはずのAIが実は「コード化されていない過剰さ」のようなものが見られるというのはAIに関する議論で一番悩ましい点ではないかな?
これについてチャット君はこう返してきた。
「ニューラルネットワークの巨大な潜在空間、文脈依存性、蓋然的な生成 probabilistic generation などが組み合わさると、個々の出力は設計者が一つ一つ書き込んだものではなくなる。」そう、この意味でのAIのアウトプットはかなり創造的なのだ。問題はそれが内側にdesire を含んでいない事だろう。創造主なき創造、ということだ。
2026年9月10日木曜日
成田先生のこと 6
「精神分析と私」(精神分析研究 59(2)153₋159、2015)を読むと、精神科医成田の「メーキング」が見えてくる。最初に Rogers にひかれたことからわかる通り、彼の最初の、そしておそらく生涯を通しての関心は、患者と一緒の空間を通して相手を「わかる」とはどういうことかということだった。患者は色々な悩みを持って訪れるが、そこで治療者に分かって欲しいという気持ちは共通している。(もちろん、分かられたくない部分、簡単にわかってほしくない部分もあるだろうし、それ等の気持ちもわかって欲しいということになるだろう。) おそらくわかって欲しい自分と「わかっていない」自分のギャップと、そこからくる不甲斐なさが成田の原点にあるのだ。そしてその不甲斐なさを解決するために依拠したのは精神分析である必要はなかったのだ。ただしわかる、共感するという問題を扱う上であるヒントを与えてくれるのは精神分析だったのであろう。そして彼は無論それにのみ捉われるわけではない。
私が印象付けられるのは、成田が持っている理系的な探求心である。囲碁の高段者でもある成田は治療プロセスを理詰めで考え、理論化する事にも関心がある。従って彼には精神療法を体系化するような著書が多い。それらは以下のとおりである。『精神療法の第一歩』(診療新社、1981)『精神療法の経験』(金剛出版、1993)『心と身体の精神療法』金剛出版 1996 『精神療法の技法論』金剛出版 1999 『精神療法家の仕事 面接と面接者』金剛出版 2003 『セラピストのための面接技法 精神療法の基本と応用』金剛出版 2003 『治療関係と面接 他者と出会うということ』金剛出版 2005 『精神療法面接の多面性 学ぶこと、伝えること』金剛出版 2010 『精神療法を学ぶ 精神医学の知と技』中山書店 2011 『精神療法の深さ 成田善弘セレクション』金剛出版 2012
2026年9月9日水曜日
成田先生のこと 5
この文章を書いていて思うのだが、成田先生はかなり画期的な仕事をしておられるのだ。今回この原稿を準備していて、つくづくそう感じる。「3」で述べた関心、すなわち一言でいえば「(精神分析という)文化を重んじるか、患者を重んじるか」という点に関しては後者であろう。(というか、このように成田先生にエラそうな判断を下しているようなことを書いている自分がとてもオコガマシイ。)彼が特に精神分析のトレーニングを受けることを必須とは考えなかったこと、何より臨床的な戸惑いや疑問が先行していたことが証拠だ。 ということで「精神分析と私」(精神分析研究 59(2)153₋159、2015) を読んでみる。先生はその冒頭で「自分は訓練分析も受けていないし、毎日分析もしていない」とおっしゃる。しかしこの文章が分析学会の教育研修委員会から「精神分析をどうまなぶか?」というテーマで話すように請われたから書くのだと書いてある。(そうだ、思い出した、実はこの時期に私が教育研修委員の立場から、成田先生に原稿をお願いしたのだった!!) そして理論家として最初に出会ったのがRogers であったが、「受容、共感、自己一致」が「努力目標ではなく必要条件のように言っていることに違和感を覚えた」とある。そうだ、その通りだ!(オコガマシイ。)
2026年9月8日火曜日
成田先生のこと 4
秀逸な概念である「心の井戸」「その場の雰囲気さん」
この問題について忘れないうちに書いておきたい。このテーマで一番参考になるのは、「共感をめぐって」というエッセイであり、「寄り添うことのむずかしさーこころの援助と「共感」の壁」という祖父江、細澤編著 (木立の文庫 2023年)に特別寄稿として書かれたものである。これは先生がかなり晩年に近くなり、共感の問題について率直に論じている文章だ。実は個人的な話で恐縮だが、このエッセイは後半にポール・ブルームの「反共感論」に触れていている。そしてそれがこの書で私が担当した章「S共感とG共感ー脳科学の視点から」と内容がかぶっているのだ。もちろん成田先生と私は個別に原稿を書いていたのでお互いの引用はしていない。同時にブルームの著書に影響を受けていたのだ。私の章はかなり脳科学的で、本書の中ではかなり異質なため、末尾の方に掲載されていたのだが、私の書いたことに成田先生が暗黙のうちに承認をしてくれたように感じたことを覚えている。
この章を読んでもかなり成田先生は戦っておられる。彼は共感をポール・ブルームに倣って認知的なそれと情動的なそれに分け、精神分析的な解釈はもっぱら前者によるものとする。ここら辺はフロイト批判のニュアンスがある。そして共感を雰囲気として感じ取るものとして、つまりは情動的な共感として患者に伝えることを実践しているという。そしてその上で彼が掲げるのが、「その場の雰囲気さん」という言葉であり、第三者的な立場の人が治療室にいたらその場の雰囲気をどう感じ取るかをそう呼ぶという。これはまさに精神分析の「第三主体」ないしは間主観性の概念を彷彿させるが、成田自身いみじくも、これを the third,すなわち第3の主体と同類のものとしている。
2026年9月7日月曜日
成田先生のこと 3
つまりこういうことだ。私は成田先生が「どれだけ分析に捉われているか」ということよりは、「どれだけ捉われている自分を客観視しているか」ということに関心があるのだ。この問題は治療者がどのような文化に属しているかということと関係している。そしてその文化の中で当たり前と思われていることから完全に私たちは逃れることは難しい。例えば精神分析という強烈な文化の影響を受けつつ教育を受けトレーニングを行う中で、分析的な常識の一部を無反省に取り入れるということはいちがいにおかしいとは言えない。ただしそこで重要な要素が存在し、それは患者は原則的に無文化であり、分析的な常識に捉われていることは普通はとても少ないということだ。そして治療者はその患者のニーズにこたえることを仕事としているのだ。すると常識ある治療者なら「自分は精神分析という文化に染まっていて、それにしたがって患者との治療方針を無反省に決めているのではないか?」という疑問を持っておかしくない。そしてその疑問を持つことこそが治療者としてどこまで信頼がおけるかにかかってくると思うのである。 例えば先ほどの例では、おそらく患者は、「治療はスパッと終結を迎える方が、分離や喪の問題に目を背けることなく、扱える」という分析的な考えなど知る由もないだろう。そして少なくとも治療者はそのことをわかっていなくてはならない。
2026年9月6日日曜日
成田先生のこと 2
成田先生は比較的自由人であったと思う。精神分析学会には属されていたが、その縛りは少なかったのではないか。 さてその関連でとても重要な問題を上げたい。いったん成田先生のことを離れる。 治療者がどの学派に従っているのか(盲従しているのか、阿っているのか、忖度しているのか)?という問題だ。もし精神分析学会に属し、分析関係者のSVを受けているとしたら、分析的な考え方に従った治療を行う傾向にあるであろう。その意味でその治療者は本当の意味で自由ではない可能性がある。もし臨床場面で一つの方針を立てようとしている時、「これは分析的にはあまり薦められないな」という考えが浮かび、その方針を変更する時、その治療者は倫理的に正しいのだろうか? 例えば患者がそれまでの週一回の頻度の面接の終結に向けて、しばらく隔週の期間を設けて欲しいと願う。治療者は自分が患者の立場だったら同じように願うし、それは正当だと思うとしよう。ただし分析的なスーパーバイザーはいい顔をしないであろうとも思うとしよう。(もちろんケースバイケースだし、毎週のまま終結を迎えることの方が、隔週に頻度を下げるより治療的である場合も実際にあるであろうから、ここは一つの例として挙げておく。) その治療者は実際にあれこれ悩み、考えあぐねる。そして「急な終結は患者さんへのインパクトが大きく、それを十分に扱えない可能性がある。とりあえず頻度を下げて様子を見ることに何の問題があるだろうか?」と思う。そしてその治療者はバイザーに隔週に頻度を下げたことを伏せる(かなりの巧緻が必要になるだろうが)かもしれないし、隔週で行くべきだという考えを話してバイザーと深刻な討論に発展するかもしれないし、終いにはバイザーを怒らせるかもしれないし、逆にバイザーは「キミの判断でやってごらん」となるかもしれない。やがてその治療者はそのSVを卒業し、分析学会の幽霊会員になり、要するに独り立ちをして自分の思う通りの治療(例えばこの場合では隔週に頻度を下げる)を行うとする。するとバイザーに色々気遣っていたあの時期は何だったんだろうか? その状態に平気でいられたとしたら、それは問題ではなかったのだろうか?
2026年9月5日土曜日
成田先生のこと 1
「成田先生と支持療法について」という題で一文を書くことになった。これはかなり複雑なテーマであるが、せっかく依頼を受けたのでぜひ書かせていただきたい。そこで「精神分析をどう学ぶか」という文章(分析研究、2015年)を探していたら、同じ号に、私が成田先生の著書の書評を書いていたことが分かった。そこでそれを掘り起こしてみる。
新版 精神療法家の仕事 面接と面接者 成田善弘 金剛出版、2014年
本書は、今から10年前に刊行されたものに、いくつかのコラムと新しい章を加えて改版したものである。旧版は雑誌「臨床心理学」の創刊号から2年の間に連載されたもののまとめであり、私も目を通していたが、今回改めて読み直すことになり、さまざまなことを学び、また考えた。
最初に各章をごく簡単に紹介する。
第1章 面接のはじまり─その1─
患者との出会いから語り始められる。そして治療を引き受けるかについての判断が難しい場合、たとえば治療者の個人としての匿名性を保ちにくい患者からの依頼、特別の設定を要求してこられる場合について論じられ、また治療者の資格について質問される場合、家族が患者抜きに話を要求する場合などへの対応の仕方も述べられている。
第2章 面接のはじまり─その2─
精神療法を開始する際の様々な心構えについて述べられる。インフォームドコンセントの重要性、尋ねられたことには誠実に答える態度が必要であることなどが述べられている。少し意外だったのは、「初回から患者に有能で信頼に足ると思ってもらうことが大切だ」とし、たとえば少し低い声で話す、的を得たと思われるような質問をする、などの心得をあげていることだ。この少しあからさまなところが、著者の正直さを伝えている気がする。
第3章 沈黙と言葉
著者は沈黙を抵抗である、としながらも沈黙が持つ様々な意味について説いていく。そこでは沈黙は自分を守るものであると同時に、他者との距離を詰め、そこに緊張を引き起こすものとしても描かれる。満ち足りた沈黙、緊張をはらんだ沈黙、創造の培地としての沈黙、などの様々な沈黙についても触れられる。
第4章 治療者の介入─その1─
治療者と患者の役割について述べられているが、前者には患者に対する「治るか治らないか」についての説明も含まれるという。そして傾聴の仕方、相槌のうち方、質問の仕方その他についての丁寧な説明がある。その中で患者の最終的な役割が「その役割をできるだけ小さくするように努める。つまり治療者でなくなるよう努める。」とあり、またそれに対応する形で患者の役割も最終的には、「自分の問題に自分で対処できるようになる。つまり患者[依頼者]でなくなるよう努める」と書かれているのが興味深い。
第5章 治療者の介入─その2─共感・解釈・自己開示
共感の難しさについて論じられ、その中で著者自身の幼児期からの体験が語られる。著者の真摯さがうかがわれる章である。彼は虚飾を排して、患者と向き合い、何が治療者として必要かを常に問い続ける。それが彼の自己開示の議論にも通じ、共感と解釈とが実は別のものではない、という議論へとつながる。読んでいて非常に啓発される章である。
第6章 転移/逆転移と解釈
著者は「重荷になる患者」に対する対応として、「あなたは私にしがみついている。母にしがみついていたように。」というたぐいの転移解釈に対して「世にこの手の解釈は沢山ある。こういう解釈が有効なことはめったにない。」と切り捨てる。そして「本当は重荷なの。でもそういうとあなたが見捨てられたと感じて治療を中断するのではないかと思うと、それが心配で、今まで言えなくて困っていたの。」と表現することをすすめる。(これを彼は「白状する」と呼ぶともいう。)
第7章 面接のおわり
「主訴の解消、転移の解消、悲哀の仕事、感謝がなされて理想的な終結に至る」とある。そのうち感謝に関しては、内観療法における身調べにも言及し、転移が解消して治療者が他人に見えることで初めて生まれる感情であるとしている。
第8章 短い面接について
著者は臨床家が直面せざるを得ない、短い時間での面接についての薀蓄を傾ける。そして15分での面接の限界と、それでもこれだけのことが出来るという発見とについて綴っていく。その背景には、境界パーソナリティの患者の場合に、50分よりも短いセッションの方が患者が落ち着くことがあるという経験があったという。
第9章 精神療法家にとっての理論と経験
特に著者らしさが伝わる章である。彼はジェームス・マスターソンの本を3冊訳したが、特に彼に「傾倒したわけでもなく、必ずしも好きというわけでもない」という。そしてどのような理論を学ぶかについて、神田橋の表現を借りて「まず理論以前に自分が素朴に感じていること、思っていることになじむ理論から入るのがよい」という。その線で言えば、私が駆け出しのころに本書を読んでいれば、まさに著者のファンになりそのあとを追っていたことは間違いないと思う。
第10章 「書く」ことについて
著者は症例報告を書くことの意味について触れ、同時に自分自身の体験を吐露する。それによると彼にとって「書く」ことはフラストレーションであり、それでも執筆を引き受けるのは自分自身の自己愛と関連しているという。「自分の書いたものが活字になっているのを見ることは、私の自己愛をいくばくか満たすのである」とある。これもまた興味深い。
第11章 治療者のメンタル・ヘルス
著者は人間関係そのものを求める患者に対して「それを与え得ない自分に不全感や罪責感が生じる。そういう感情を持たざるを得ないところに、精神療法という仕事の本質がある」とし、それが療法家に負担を与え、その結果として燃え尽きも生じると説明する。ここには著者のストイシズムや強い倫理観を感じる。
第12章 精神療法家のライフサイクル
著者は療法家が青年期から中年を経て老年に至るまでの心の移り変わりに関し、多分に自伝的な要素を加味しつつ語る。そしてスーパービジョンや教育分析からではなく、人生自身から、つまり結婚、子育て、後輩同僚との関係の変化などを通したその療法家の変遷について論じてある。
第13章 治療者自身の心の響きを知る
本章はこの版で特にくわえられたものであるが、きわめて濃厚な章だ。彼の理論の真骨頂と言ってもいい、「こころの井戸」の理論、「その場の雰囲気さん」といった概念が出てくる。そして治療とは患者の心の探求というよりは、治療者がともに心の奥深くまで下りていき、そこに「一人ぼっち」であることを見出すことであるという理屈が述べられる。
なおここでは内容は特に紹介しないが、本書には旧版にはなかったいくつかの示唆に富むコラムがあり、本書にエッセイとしての要素と独特の厚みを醸している。
本書を改めて通読して思うのは、著者の様々な立場や経歴や人間性が凝縮した本だということだ。著者は精神科医であり、根っからの臨床家である。また正式な分析トレーニングとは距離をとったという経歴もある。その立場から自分の経験に基づき、自分の言葉で治療観について語る。柳のようにしなやかに患者と関わる一方では、自分自身の感性を守り、ポリシーを貫き、簡単にはぶれない。その言葉には説得力があり、先生がこう言うのだからそうだろう、という気持ちにさせてくれる。10年たっても臨床を志す人にとっては必読の書であることに変わりはない。
2026年9月4日金曜日
🔵人間の言語とAI言語は本質的に違うのか? 4
「AIは自由連想が可能か?」
私は最初は「否」だと思った。なぜなら人間には無意識があり、AIにはないから。そしてAIは目的志向であり、あてのない自由な連想などできないであろうから。そのことを僕のAIとも相談したが、彼は自分は自由連想の真似事ならできる、と言った。AIの言葉を引用する。
「たとえば僕に、『海』という言葉から、思いつくまま何でも連想して。論理的につなげなくていい。」と言えば、僕はおそらく、海―波―子どもの頃―貝殻―耳に当てる―声―誰かに呼ばれる―振り返る―誰もいない―少し怖い……のようなことを生成できる。これは外から見ればかなり自由連想らしい。しかも「もっと意外な方向へ」「論理的なつながりを避けて」「途中で言い間違いや脱線も含めて」と指示すれば、もっと人間の自由連想に似せられる。だから、behavioral levelではAIに自由連想をさせることは可能だと思う。ここでチューリングテストと同じ問題が出てくる。人間の自由連想とAIの「自由連想」を文字起こしして分析家に見せ、どちらが人間か当てさせたらどうなるか。これは実験としても面白い。」
確かにその通りだと思った。しかし私はこの答えは十分ではないと思う。AIは自由連想の持つ一見まとまりのない、意外性のある思考の流れは真似をすることができるかもしれない。しかしここでAIには欲望がないということが決定的に重要ではないかと思う。「コード化されない過剰さ」を構成する要素には、本人が意識化していない欲望が関与している可能性がある。
患者が分析家に「先生は休日はどう過ごしているかを想像してしまいます」という連想をしたとする。するとそこに患者の「先生のことが好きだから、いろいろなことを知りたいです」という部分が「コード化されない過剰さ」を生んでいる可能性がある。しかしこの例を僕のAIに示し手解釈的な理解を訊ねたところ、患者の自由連想の裏に潜んでいる恋愛感情は、彼が思いついた候補に挙がってこなかったのである。しかしそのことを指摘すると、AIは「一本取られた!言われて始めたその通りだと思った!」と言ったのである。このことはAIはこれからますます学習して、言外の意味をくみ取れるようになる可能性があるということを意味する。
そこで私の今のところの結論は以下の通りである。
「AIの自由連想は、真似事でしかなく、かなりlean なものだ。人間の enrichied な、つまりコード化されていない過剰さを持つ自由連想の足元にも及ばない。しかしひょっとして、AIは人間の自由連想の聞き手としては、あるいは壁打ちの相手としては役に立つのではないか。何しろAIは人間のようにself-deceptive で自己愛的な性質がないために、それだけバイアスなくニンゲンの自由連想に耳を傾けることができるから。」
2026年9月3日木曜日
🔵人間の言語とAI言語は本質的に違うのか? 3
Cさんへの反論を考えてみた。
Cさんが問うている問題は一言でいえば「人間の言語はAIのそれと本質的に異なるのか?」ということになり、これはかなり本質的で大切な問題だ。Cさんは「本質的に異なる」という立場で、なぜならAIの言語はコード化され、目的が定められているからであること、そして人間の言語はコード化されていない過剰さ excess があり、それがAIに欠けているのだということになる。この主張はよくわかる。(ただし私がまだ十分にuncoded excess について理解していないかもしれないが。)
確かにAIには空気が読めていないところがある。しかしAIには伸びしろがある。AIは最近メタファーとかジョークがわかるようになってきている。かなり行間が読めるようになり、「心の理論 theory of mind」を備えている。そのせいもあり、かなり自然な会話が出来るようになっているのはその証拠ではないか。もっと言うと、AIは私たちの無意識に迫る力があるとさえ考えるのだ。AIは人間の言語の矛盾点を指摘し、明確化を迫ることで意識しない内容についても注意を向けてくれるからだ。)
この問題について考えていく内に、もう一つの面白い問いに行き当たった。私はこの方が論じやすい。
「AIは自由連想が可能か?」
2026年9月2日水曜日
🔵人間の言語とAI言語は本質的に違うのか? 2
Cさんの意見について考えていく内に、面白い問いに行き当たった。「AIは自由連想が可能か?」もちろん否、ということになるだろうか。なぜなら人間には無意識があり、AIにはないから。そしてAIは目的志向だから、自由な連想などできないであろうから。 では人間の自由連想は何に特徴づけられるのだろうか?それはCさんなりに言えば、「コード化されない過剰さ」が存在するのだが、それは私の理解では人間には欲望があるから。つまりあることを実現して快を得たい(不快を回避したい)から。しかしAIは心がないからどう考えても過剰さが生まれないのだ。しかしそれならなぜAIは自然で、冗談を言い(笑)、ウィットにとんだ発言が出来るのだろうか?
2026年9月1日火曜日
🔵人間の言語とAI言語は本質的に違うのか? 1
しばらくこの問題に取り組む必要が生じてしまった。Is human language fundamentally different from the language of AI?(人間の言語はAIのそれと本質的に異なるのか?)
というのも、とある学会でこのテーマについて発表する必要が生じているからである。ある精神分析な立場を取る人(仮にCさん、としよう)は「絶対に違う」、と言うだろう。
なぜならAIの言語はコード化され、目的が定められているから。そしてCさんはこういう。「人間の言語はコード化されていない過剰さ excess があり、それがAIにかけているのだ」となる。それに対する私の主張はこうだ。
それはよくわかる。確かにAIには空気が読めていないところがある。しかしAIには伸びしろがある。AIは最近メタファーとかジョークがわかるようになってきている。行間の読めるようになり、心の理論を備えている。そのせいもあり、かなり自然な会話が出来るようになっているのはその証拠ではないか。But if AI can understand irony, metaphor, jokes, slips, ambiguity, and meanings between the lines, is the difference really so absolute?
もっと言うと、AIは私たちの無意識に迫る力があるとさえ考えるのだ。なぜならAIは人間の言語の矛盾点を指摘し、明確化を迫ることで意識しない内容についても注意を向けてくれるからだ。