2023年7月25日火曜日

連載エッセイ 6の8

  ただしこの体外離脱体験の場合、「誰かに見られていました」というBさんの声が聞けないことも少なくない。普通はそうである。あくまでも体から離脱したという体験が語られることが多い。というのも体の方に残った意識の体験はしばしばボンヤリしたもので、記憶に残ることは少ないからだ。あるいは「何か夢を見ているようだった」と表現することが多い。つまり体験としての解像度は低く、そのスペックもかなり小さいということになるだろう。白黒画面で、それも視界にボンヤリ何かが映っているような、うつろな体験。寝ぼけている時の私たち、あるいは麻酔薬が効いていて朦朧としているような状態がこれに相当するであろう。そしてこの感覚の解像度の低下はとても重要な事であり、そもそもこの種の意識A,Bの解離は、痛みを軽減し、その為に心身を麻痺させるという目的があったからである。 

 さて以上は体外離脱という、多くの私たちが実際に体験する可能性のあるものである。そして意識A,意識Bとの間には解像度の差があり、どちらかが優勢で、もう一つの方はあまり記憶に残らないという傾向にある。しかしいわゆるDID(解離性同一性障害)等の場合、人格Aと人格Bはかなり対等で、主格の差がないような体験となることが多い。Aが現実の世界である体験をしている間Bはそれを傍観する。別の場面ではそれが逆転するという形をとるのだ。そしてAさんとBさんは別々に自分の体験を語ることになる。

  ここでも通常A,Bが混じることは普通は起きない。つまり「私はAとして相手を見ているのと同時に、Bの立場になって見られていました」という証言は得られない。あたかも二人の別々の人間が、別々の体験をしていることと同等のことが起きる。言い換えれば心は複数同時に存在することになる。

  解離性障害の脳科学的な理解は、まさにこのことから始まるべきなのである。ところがその糸口は事実上得られていない。何度か強調したことであるが、古今東西の哲学や文学や精神医学は、心は一つという前提や了解事項を抜け出していないのだ。私がこの連載でかつて5回にわたって論じた内容も、特に解離現象について論じなかったわけであり、結局は心が一つという前提を抜け出していなかったのである。意識やクオリアといった、心にとってあれほど本質的な事柄について論じた前回も、心の多重化などということについては私は全く触れなかったのである。


脳で何が起きているのか? コンピューターとのアナロジー


  さて解離とは何かを読者の皆さんにもなるべく直感的に分かってもらえるように、幽体離脱の例を挙げた。もし自分が、あるいは目の前の友人や家族が解離を起こした場合、それを体験的に理解しようとしたら体外離脱のようになる。これは体験としてそうなるという事ではあるが、その時に脳科学的に何が起きているのか、ということについては、本当のところ何もわかっていないとしか言いようがない。

 考えても見て欲しい。心は脳の活動から生み出される、というのが私たちの基本的な考え方である。前回も述べたいわゆる「随伴現象説」だ。そしてその心の存在は、その人の言葉や表情や行動により表される。これは常識的に私たちが前提としていることである。ところがその人は、ある時は私はAだ、と主張し、また別の時は自分はBだという。これをどう説明することが出来るだろうか。

 この議論を進めるにあたり、コンピューターのアナロジーに勝るものはない。そこで「自分はAだ」と名乗っている時には、Aというアプリ、ないしはプログラムが起動していると考えよう。そして今度は「自分はBだ」という時はBというアプリが起動している。このようなアナロジーを考える。このように考えると、人格が二つ存在するという状況を想像することは比較的容易だろう。

 おそらく一番好都合なのは、AというアプリとBというアプリが互いにスイッチするとという状態になぞらえることだ。このように考えると人間の脳の働きについて、何も特に新しいシステムを考える必要がない。人の心は常に各瞬間には一つの心しか起動していないことになる。

 ただしアプリAは、アプリBが立ち上がるや否や、あるいはその前の瞬間に終了しなくてはならない。昔のファミコンでいえば、二つの別々のゲームA,Bというカートリッジをさっと入れ替えることになるだろう。何しろ二つを同時に差し込むことなどできないのだから。このモデルを意識(ないしはアプリ)の「すり替わりモデル」と呼ぼう。

   ところが実際はこうではないことを私たちは知っている。それは幽体離脱を体験した人が証言することだ。Aさんの状態で「私は~と言いました」と言い、Bさんの状態で「私はAが~と言っているのを内側で聞いていました。」ということは、アプリAとアプリBは同時に起動していて、一方が他方を、あるいは互いに相手を観察しているということになる。これは「すり替わりモデル」では説明できないことだ。

 さてコンピューターの操作に慣れている私たちは、実はこのことに驚かないだろう。ユーチューブの音声だけを聞きながら、ワードで文章を作成する、などのことを私はしょっちゅうやっている。複数のアプリの同時の起動など当たり前のことなのだ。