2026年7月21日火曜日

解離についてのこの1,2年の発表

 仕事が一段落して、ここ1,2年の発表や執筆をまとめている。これをしないとそれこそ書きっぱなし、発表しっぱなしで散逸してしまう。今のところ解離については以下の通り。

🔵「解離と自殺の危険性について」(日本うつ病学会総会・自殺予防学会総会シンポジウム 「解離症と気分症時の併発及び自殺との関連について 於:2026年7月10~12日)

🔵「ストレス反応としての多重人格状態」(精神科治療学第41号2026年10月発行「ストレス、トラウマ、小児期逆境体験ハンドブック―基本的知識から臨床実践まで―」)

🔵「解離の文脈から見たPTSDおよびトラウマの脳科学的基盤脳科学的な理解」(日本精神神経学会シンポジウム PTSDの生物心理学回復モデル2026年6月18日於:パシフィコ横浜)

🔵「現代はポリサイキズムを受け入れるのか?」(11th Iinternationla Joint Conference Broken” 於:京都,2026年6月5-7日) 

🔵ビリーミリガンのケースを読み直す(ダークサイドミステリー「多重人格者 ビリー・ミリガン 〜人の心の謎に迫る〜」2025年3月27日 NHK BS8Kにて放映)



2026年7月20日月曜日

うつ病学会に参加した

  一週間以上前のことだが、日本うつ病学会に出席した。札幌で7月10~12日まで開催。そこで本ブログで揉んだ「解離性障害と自殺の危険」という発表を行ったのである。久しぶりに野呂浩史先生、野間俊一先生、荒川和歌子先生とお会いしてシンポを行った。しかし・・・札幌はやはり遠い。おまけに「蝦夷梅雨」で悪天候。飛行機と電車の乗り継ぎが大変。どうして札幌のもっと近くに空港がないんだろうとつい思ってしまう。千歳から札幌までの距離がもうひと行程入ることで距離感が増してしまう感じ。おかげで車中少し読書は出来たが。

しかし学会発表があるとかなりの勉強になる。自分があまり明るくないテーマだとさらに。今年はこれからしばらく学会発表がないが、文献を読まないという悪い癖が復活しそうである。

2026年7月19日日曜日

甘え 推敲 13

  土居によればこの関係はフロイトとフリース、フロイトとユングの関係とも同じ性質のものであるという。フロイトはフリースやユングに対して常に自分の主張が正しいという態度で接し、それについて弟子たちに異議を唱えられた際に、それは彼らのエディプスコンプレックスの問題だと突っぱねたわけだが、古沢も同じことをしたということなのだろう。  私がここで問題になるのはむしろ自己愛の問題ではないかと思うのは、以下の意味でである。土居の怒りを買ったのは、弟子や被分析者の分析者への批判に対して、それを完全に突っぱねるという古沢の態度に問題があったのだ。もう少し言えばこうだ。土居が古沢に「先生、ここはちょっと違うんじゃないですか?」と問うた時に古沢はそれを認めず、「だから君は分かっていない」とか「君の勉強不足だ」とでも言った可能性がある。あるいは怒る土居に対して「真実を受け入れるのはいつも大変なことだ。いずれキミもわかるだろう。それまで君がどんなに私を攻撃しても、私は一切それを意に介さない。それが分析家の務めだからだ」とでも言ったのではないだろうか? つまりは土居が本当に怒ったのは、解釈をし、それを理屈で説明してくるといった古沢の態度ではなく、それに対する反発を一切受け入れず、また自分を変えることをしなかったことに対する怒りではなかっただろうか。そう考えるととてもすっきりするのだ。  こう述べると、次の反論が予想される。「いや、もし古沢の側の自己愛の問題だとしたら、土居の反論にもっと激しく怒ったのではないか? 『弟子のくせに生意気だ!』という風に?」 私も確かにそう思う。それにもし古沢が泰然自若としていただけなら、土居も怒り様がなかったのではないか、とも思う。「この人は何を言っても話が通じないじゃないか。それなら仕方がない」と諦めたのではないか。しかしおそらくは古沢の方にも土居の異論に対して声を荒げるということもあったのではないか。少なくとも土居の言い分の一部についてはその正当性を認め、部分的にではあれ自分が折れるという態度が見られたら、土居もそこまで怒ることはなかったのではないか。土居は古沢は自分を飲み込もうとして、一時は飲みこまれそうに感じたそうである。飲み込む、とはことごとく相手を自分色に染め上げようとする態度だったのだろう。するとやはり古沢の「すべて自分が正しい」という態度が一番土居を刺激したのではないか。土居が欲していたのは恐らく、もっと普通で対等なやり取りであったのであろう。  土居の怒りについては気になるところだ。彼は好戦的と形容できるようなところがあり、西洋文化にも真っ向から切りかかって行ったところがある。土居の主張は早い話が「西欧は受け身的愛情希求を抑圧し、したがって甘えに行きつかなかった」であるが、これはかなり大上段に構えた挑戦と言えるのではないか。

2026年7月18日土曜日

甘え 推敲 12

  ここで古沢の治療態度に注意を向けたい。古沢は、患者からのネガティブな反応を一種の抵抗としてとらえ、それによって引き起こされかねない逆転移に十分注意を払い、泰然自若とした態度で土居に接したということなのであろう。土居はそこに特に悪意は感じられなかったとのことだ。土居はむしろそれを古沢の一種の愛情表現の様に理解している。しかしこれはとても patronizing な態度と言えるだろう。まるで土居を子ども扱いしている、ということのようだ。

 では土居は古沢の何に関して怒ったのだろうかについて再度考える。土居はそれに関して、古沢が「患者を常に飲んでかか」り、そのことに患者が反撥しても、「まさに『のれんに腕押し』で、自分は悪感情には反応しないとばかり口をぬぐっておられた」(p.230)という。

土居はこのような古沢の態度を古沢が対象に対して「取り込み」や「のみこみ」を行ったのであり、分析用語で言う introjection, incorporation の問題であると説明している。土居は古沢が「患者を常にまた容易に自分の中に取り込んでしまい、そのことの中にひそんでいるご自分の無意識には気がつかなかった」と述べている。

 しかし実は私は土居の文章のこの部分を読んでいて、非常にわかり辛いという印象を持った。これがどうして同一化に関係しているかがピンとこない。それについては土居の別の著書「精神分析と精神病理」を取り寄せて読むしかないが(土居がそれを引用しているからだ)、そこで私の解釈を交えていえば、これは自己愛の問題と理解する方がわかり易いような気がする。古沢は自分が完全に患者のことをわかっており、そしてそれが絶対的に正しいと思っていたから、その余裕の分だけ、自分は逆転移反応を起こさないと言えたのだろう。そして自分の考えに対する土居の側のいかなる異議も治療抵抗として扱ったわけだ。そしてそのいかにも自信満々の態度が土居を怒らせたのではないか。


2026年7月17日金曜日

甘え 推敲 11

 たとえば同じ古沢との精神分析体験を描いた前田重治の「自由連想覚え書」(1984、岩崎学術出版社)には、古沢の「解説」をむしろ有難く学ぶ前田の姿が出てくる。こちらは精神分析を師から一から学ぶ学徒の姿勢が表れているが、土居の場合はかなり違う。当時の精神分析の大家であり大先輩である古沢の態度に対して、まだ30過ぎの、いわば駆け出しの精神科医が古沢を「これが本当の精神分析であるはずはない!」と怒り、一刀両断にするのだ。

 結局土居は「もっと本場の精神分析を受けに行き、古沢先生の姿勢が間違っていることを明らかにしたい」とばかりに米国に再び向かう。そしてサンフランシスコの精神分析協会に入会し(おそらくキャンディデイトとして入り)ライダー先生の分析を受ける事になる。

 この土居の姿勢は不遜で生意気で挑戦的と言えるだろう。しかし私の反応は「土居先生、あっぱれ!」なのである。土居や古沢の時代はおそらく精神分析は一種の学問であり、知的に学ぶものであり、その知的な理解が洞察につながるという考えが主流であった。しかし土居はごく自然に、本来は精神分析は人間的な関り、今でいう関係精神分析的な関りであることをわかっていたのであろう。土居はいかに時代を先取りしていたのだろうか。


2026年7月16日木曜日

甘え 推敲 10 

  土居健郎と古沢平作の分析については、実はその真相に迫る資料がある。それが土居(1980)古沢平作先生と日本的精神分析. 精神分析研究. Vol.24 229₋231.)である。これは分析学会で「古沢平作とその後の発展」と題するシンポジウムが行われ、その中で土居が発表した内容となっている。この文章は土居が古沢から分析を受けて三十年足らず経過した時点で彼なりに自らの分析体験を俯瞰し、それまであまり明らかにしてこなった内情を自らの言葉で語っている非常に貴重な資料と言える。その中で特に印象深い点を抜き書きしよう。

「先ず第一に、私は先生が治療の初期から、患者に対する解釈の範囲をはるかに超えて、したがって患者の理解力をはるかに超えているにも拘らず、精神分析の理論を事細かに説明していることに衝撃を受けました。このような先生のやり方は患者にある種の名状し難い不快感情を引き起こしていますが、それに対する先生の解釈が振るっていました。先生は患者の不快感情が御自分のやり方に関係があるとは一向に考えず、それをもっぱら患者の内的変化に関係づけ、そのうえ、自分はどんなに悪感情を向けられてもそれに反応しない、とことさらに何回も言明されていたのです。」

この僅か数行ばかりの土居の記述は私にとっては古沢と土居の治療関係で起きたことのある側面について、十二分に伝えているように思えるのである。古沢はまるで教育者のように、解釈を注釈付きで患者の立場である土居に伝えたわけであるが、それ自体はこの時代ではある程度やむを得ないことかもしれない。しかしここで注目すべきは土居がそれを非常に不快に感じたということである。「このような先生のやり方は患者にある種の名状し難い不快感情を引き起こしていますが」と土居は書いてあるが、ここで名状し難い不快感情を持たない人もあろう。しかし土居の反応は不快であり、それに続く怒りであったのだ。

2026年7月15日水曜日

甘え 推敲 9

● ルドルフ・エクスタインの言葉で言えば、終結では「基本的な結合」(要するに母子密着)が幻覚的に体験されるが、それは同時に基本的な分化であり「自分がある」状態となる事である。

● 終結においては治療者は甘えを許しているが、甘えさせてはいない。これは現実原則に従う甘えであり、患者の側は甘えの充足は一時的であることを知っているので、結局ナルチシズムには逃げ込まない。

 以上はかなり土居の表現を借りた説明であったが、このプロセスについて私自身の言葉でまとめてみよう。先ず最後に出てくるという「素直な甘え」については、土居の主張は分からないでもないが、私自身は多少混乱を感じる。というのも乳幼児における純粋無垢な「素直な甘え」とは違い、治療終結期に見られる甘えはかなり現実を知った上での、いわば成熟した甘え、大人の甘えと呼ぶべきものではないかと思うのだ。

 さてこのプロセスは生物学的にみても意味を持つ。アランショアが論じるように、生下時の右脳優位の体験はそもそも自他未分化の世界である。そこでは母子の右脳どうしの同調が生じ、乳児は母子一体を体験する。これはウィニコット的には「母親の原初的没頭」における「錯覚」、エクスタインの「基本的な結合」の状態である。
 愛着関係において錯覚→脱錯覚を体験できると、自分は自分は世界から肯定され生きるに値するのだという幻想を持つようになる。これはかなり生物学的なプロセスであり、前頭葉と皮質下をつなぐ重要な配線のが形成されることであろう。そしてここで達成されるのは基本的な二者関係、reciprocity の成立であり、相手の心に自分を見出し、自分の心に相手を見出す能力である。


2026年7月14日火曜日

甘え 推敲 8

 さてここからは土居による治療論について論じる。おおむね言えることは、土居についての精神分析はそのまま甘えの理論であるということだ。一言で無意識内容や無意識的葛藤と言っても、様々なものが考えられるであろうが、土居は無意識的葛藤として3つを提示し、それらすべては甘えに関与しているかのような記述を行っている。そしてそれぞれについて、精神分析により至る洞察は明確に示されている。それは以下のとおりである。

三つの無意識的葛藤
土居「無意識的葛藤は3つに分かれる。それぞれに洞察を得ることで症状や問題は消失し、終結に至るとする。そしてそれらを以下に分類する。
1.甘えたいが、甘えることは自分の弱さをさらけ出すことなので出来ない(男性に多い)。  ⇒ 甘えることは致命的な弱さではないという洞察。
2.いくら甘えても、甘えだけでは足りないと感じる(女性に多い)。
     ⇒ 甘えることによって何かを自分にほしがっても無駄であるという洞察。
3.甘えることを知らず人を避けようとする(男女を問わない)。
     ⇒ 甘えても裏切られるとは限らない、という洞察。

先ずこれを読んだ読者はどう思うだろうか?一つ明らかなことは、土居はある意味で精神分析に真っ向から対峙しているということである。ただし無意識や葛藤などのタームを用いているということは、土居は精神分析そのものの存在意義に対して反対しているわけではない。そうではなくフロイトが打ち立てた理論とは明らかに別の路線を提案していることになる。そしてその意味では土居はフロイト自身と対峙しているということが言えるだろう。

 その上で土居は人間の精神の発達について、以下のようなアウトラインを論じている。(ちなみにこれらは土居(1961)の「精神療法と精神分析」(p195~)からかなり逐語的に引用してまとめたものである。


  • 物心が付き始めた幼児は、受け身的対象愛が満足されないことによる葛藤をすでに持っているので、それを意識的に満足させようとして甘える。

  • ただしこの時期に愛情不足がはなはだしいと、自分に甘えるナルチシズム(自己愛)が発生する。それが憤怒や憎悪や自己卑下に転嫁する。これが強いと去勢不安とペニス羨望を越えられない。

  • 治療中は甘えられない葛藤が、拘り、拗ね、僻み、捻くれ等で表現される。

  • そして治療により葛藤が順次に解決されて行けば、最後にバリントの言う受け身的対象愛が純粋な形で出てくる。これはナルチシズムの核が破れた、不安の伴わない素直な甘えの出現である。



2026年7月13日月曜日

甘え 推敲 7

  サンフランシスコで分析のトレーニングを開始した土居は、ライダーとの教育分析について以下のように語る。  「私の体験したことはあまりにも身近なことであるために、いまだこれを十分に整理することが出来ませんし、またこれを整理されないまま生の形で皆さまにお話しすることは、私にとってあまりにも苦痛の多いことでございます。従って詳細は控えますが、ただ結果だけを述べますと、私は予定のコースを完了することなく1956年に帰国したのであります。」

「これには種々の外的事情も関係していますが教育分析の観点から言えば、これを打ち切ることが唯一の解決であるという行き詰まりに逢着したためであります。実際このことは私の精神に深大な効果を及ぼしました。私はそこから逃げようとしていた現実にいやおうなしに直面することを強いられましたし、そのためにいまだかつてなかった不安を経験しました。」(精神分析研究、1958) 

しかしこの帰国は分析家からの助言に基づくとも言っている。

「かくして分析医 Norman Reider の助言により一年後に帰国したが、実はこのような絶体絶命の境地に至って私は初めて『甘え』理論を構築することが可能になったのだ。」 そして教育分析で、最初は「傷ついた獣のごとき心境に陥ってしまった。しかし私は次第にその傷の意味を理解し、それによって真に精神分析を理解するに至ったと思っている。実に本書執筆の最大の苦闘は、教育分析に引き続く自己分析の完成にあったのである。」(精神療法と精神分析、1961、P2)

 帰国後土居はそれについてその後語ろうとしないが、「分析しても終わらない」という考えを重視していたところは興味深い。

「私は『実際上健康と目される人間の分析が未完成に終わることはやむを得ない』というフロイトの言葉を思い出します。」(分析研究、1968、p110)

「屈折した甘え」とは土居先生自身だったのではないだろうか。

「だいたい私自身、私の中にひそむ甘えを自分の分析の中で自覚するのでなければ、甘えの重要性を認識するに至らなかったということが出来ます。」(土居、1968 vol 14 No3 選集2p117) 


2026年7月12日日曜日

甘え 推敲 6

 ここからはある意味での the making of Amae にお付き合いいただきたい。これなしではおそらく土居の甘え理論の真意を掴めないからだ。  話は土居が1950年に内科から精神科へ転向した時点にさかのぼる。土居は内科医として出発したが、そこで多くの内科の患者が神経症を抱えているのを知り、心の問題に興味を持ち、聖路加病院内の米国陸軍病院の図書館で「精神身体医学」についてむさぼり読み、これが自分の求めているものだと感じたという。そこで土居は米国留学のガリオア奨学金を獲得し、それを喜んだ古沢の推薦でメニンガーに2年間留学する。ちなみにこの時の体験が「甘えの構造」を各出発点となっている。そしてこの期間中にメニンガーに在職していたルドルフ・エクスタインの講義を受けて感化されるのだ。  留学中に土居は古沢からの誘いで「通信分析」を帰国するまで一年おこなう。 1952年に帰国した後は古沢から分析ではなくSV(監督分析)を受けたが、1954年より「暗礁に乗り上げ」「患者の治療上の技術に関しての意見の相違が起き」、さらに「もっと全面的な相違に発展した」という。 以上引用は「土居:われわれはどんな風に精神分析を学んできたか 精神分析研究 選集 1 Vo.5.No 6 1958」に見られる。  この時の土居と古沢の間の葛藤は詳しく語られていないが、ある意味では次の土居自身の言葉でその様子を垣間見ることは出来るのではないか。 「(古沢)先生は分析としての立場から私のこのような態度を分析的に理解し、同時に私をどこまでも容認しようとなされましたが、私にはそれがまた我慢できない事でありました。私はついに先生を離れて再び米国に留学し、かの地で始めから教育分析を受けてみようと決心するに至ったのであります。」(土居、精神分析研究 Vol.5₋6 1958) 「『自分が米国に行くのは、古沢先生の治療態度について、別の分析医との接触によって疑問を解くためだ』と言って(土居先生は)米国に旅立った。」(小此木 精神分析研究 選集 2 2005年 p112)

 ちなみに私は土居先生(急に「先生」付きになる)はこだわりがあり、頑固な人だったと思う。自分の主張に固執なさる。ある時土居先生は私が著作の中で「患者さん」という表現を用いているのを慇懃無礼だと仰った。それはそうかもしれない。しかしこれは一種の好みの問題であり、人それぞれではないだろうか。


2026年7月11日土曜日

甘え 推敲 5

 土居の甘え理論は先駆的であったか?

この時点で冒頭で示した問いを発しよう。土居の甘えの理論は普遍的に存在する問題であると言えることは示した通りである。しかし現在の精神分析理論においてどのくらいこの理論は貢献しているのであろうか。このテーマを論じることは容易ではないが、まずここで現在において甘え理論に一番関係のありそうな理論について紹介しよう。それは英国の分析家ジェレミー・ホームズの提唱した「愛着を基盤とした精神療法」( attachment-informed psychotherapy, AIP)である。

愛着を基盤とした精神療法 AIP  (attachment-informed psychotherapy)by Jeremy Holmes

 以下に簡単にこの療法の特徴について述べよう。
 まずこの治療法においては治療者―患者の同期 synchronyが重視される。生物行動学的同期こそが治療においてmutative moment で重大な影響を及ぼすのである。
そのために radical acceptance を重視する。これは徹底した受容、とでもやくせるであろうが、また無条件の受容と言い直すことができるであろう。つまり甘えの考えに近いわけである(ただしホームズ自身は土居の甘えの理論に言及しているわけではない。)
 またこの療法では患者の情動的な関係性の世界の validation を、解釈に先立つものとして重視するのである。そしてメンタライゼーションは前頭葉-扁桃核の連結を促進する。治療者に必要なのは sensitivity である。
 そしてここでメンタライゼーションの項目が出てくるように、同様の考えはピーター・フォナギーやアラン・ショアによっても支持されている。
 このように愛着に基づく精神療法では、治療とは愛着関係を再現し、そこで治療者・患者の間の心の、生理作用の、脳の同期化を目指すものである、というのがフォナギーやショアやホームズの主張であった。
 この理論に従った場合は、精神療法における治療関係はある種の愛着関係の再構築としてのニュアンスを持つことが示唆される。これは従来の精神分析における解釈を中心とした認知的なプロセスをその治癒機序として考える流れとは大きく異なる方向性になる。
 でははたして土居の理論は、これらの流れに先駆する理論であったのか?その答えを以下に探ることになるが、多少結論を先取りするならば、もし愛着に元ずく精神療法が愛着関係を取り戻すという方向であるならば、おそらく土居の方針はそれとは大きく異なり、むしろ真逆なところすらある。土居が繰り返し言うように、本当の意味での甘えは実現しないということを理解することが治療であるという考えを彼は持っていたからだ。しかしそれはどのような意味なのだろうか?以下に述べるように、土居は治療の最後には「素直な甘え」が登場すると言っている。つまり素直な甘えを治療者に表現することになるわけだ。でもこれは甘えを満たす体験ではない、とも土居は言う。ここの関係はいったいどうなっているのだろうか?
あるいはもう少しわかり易く言うのであれば土居は周囲に厳しく、あまり「甘え」を許してくれなかったという印象を抱く人が多い。(土居はむしろ好戦的だった???)
 土居は「とろかし」の古沢との分析になぜ行き詰ってしまったのか?(彼の甘え願望は古沢によっては満たされなかったのだろうか?)
結局土居は患者を「甘えさせた」のか、「甘えさせなかった」のか?


2026年7月10日金曜日

甘え 推敲 4

土居と同じ路線のウィニコットの脱錯覚論

 土居のこの議論はウィニコットのそれとほぼ重ね合わせることができる。「原初的没頭」にある母親が、乳児の欲しいものを差し出すことで、乳児は自分がそれを魔術的に創造したという錯覚を起こし、それが乳児の万能感を持つ。乳児は徐々にそれが叶わないことによる「脱錯覚」を体験することで、対象としての母親を見出し、現実を知る事になる。 「まだ一度も授乳を経験したことのない赤ん坊を想像してみよう。空腹感が生まれ赤ん坊は何かを思おうとしているところである。赤ん坊はニードから満足の源を想像する用意がある。だがしかし,そこで何が期待できるかを赤ん坊に示すための体験がまだない。もしこの瞬間に母親が赤ん坊が何かを期待しかけているところへ彼女の乳房を置いてやるなら,そしてその子に十分な時間が与えられ多分匂いの感覚とともに,口や手であちこち触りつくせるなら,赤ん坊はちょうどそこに見つけられたものを‘創造’したのである。ついに赤ん坊は,現実の乳房がまさしくニードと貪欲さそして原初的な愛の最初の衝動から創り出されたものであるという錯覚を得る」(Winnicott, 1964,p.90)

 ほぼ同様の文脈でフェレンツィやバリントは「一次愛」や「受身的対象愛」について論じた。土居は精神分析の世界でも、彼らの概念が「甘え」に相当するものであることを知った。

 フェレンチが「タラッサ」において提出し、更にバリントにより引き継がれた受け身的対象愛 passive object love(Balint,1968, Ferenczi,1924)の概念は「他者から愛されたい願望」として表現されるが、土居はこれが事実上甘えについて論じているとし、バリントも土居との文通の中でそれを肯定した。後にバリントはこれを primary love と言い換え、土居はこれを「最初の愛」「根本愛」などと訳した。このように考えると土居の言う「甘え」は普遍的に存在すると考えざるを得ない。



2026年7月9日木曜日

甘え 推敲 3

土居は次のような表現をしている。まず日本人は主格分離を何とかして否定しようとする甘えの方向に常に働く。ところが欧米人は主格分離を建前とするので甘えを否定し、基本的本能的欲求としての甘えの概念に到達出来なかったのだ。(土居、甘えをめぐって精神分析研究 選集2 Vol.14, No3,1968 P120)

 わかり易く言うと、日本人は甘え合う文化であり、それを是とする。ところが西欧文化ではこれを否定する。つまり自分と他者は分離しており、甘えのような両者の融合を目指すようなことは建前上否定する。ところが本心は甘えの願望を持っている。それを彼らは抑圧しているのだ、というわけである。  結局甘えとは何かということについては、私はかつて以下のようにまとめている。

相手に対して持つ欲求を、こちらから求めることなく、相手から先に、積極的に満たして欲しいという願望。  これに尽きるであろう。ではこのような「甘え」はなぜ生じるのか? これも当たり前すぎるような疑問である。こちらから要求して満たしてもらってもあまりうれしくない。それは無条件の愛ではなく「条件付き conditional 」な愛だからである(岡野,1999,Okano,2024)。問題はこれは日本人だけが思うことだろうか?ということだが、ここら辺は土居も一刀両断なのである。

岡野憲一郎(1999) 甘えと「純粋な愛」という幻想 北山修 編(1999)日本語臨床3「甘え」について考える に所収

Okano, K(2024)Passivity in amae relationships and the fantasy of “unconditional love” in The Journal of the Japan Psychoanalytic Society, Vol.6 39-47.



2026年7月8日水曜日

甘え 推敲 2

 土居の甘えの理論は初めての渡米の際のカルチャーショックに端を発していると言われる。そしてその体験は「甘えの構造」にしっかり書かれている。そこを引用するならば以下の通りだ。  初めての渡米(1950年,30歳)で知人宅で「あなたはお腹がすいているのか、アイスクリームがあるのだが」と聞かれ、お腹は減っていたが、いきなり初対面の相手にお腹がすいているとも言えず、「すいていない」と返事をすると、「あー、そう」で終わってしまった。日本人なら、お腹がすいているかなどと不躾に聞くことはせず、何かあるものを出してくれるのに‥‥と思ったそうある。 「甘えの構造」には同様の経験が書かれており、そこで彼が思ったこともかなり批判的な口調で書かれている。それらを引用しよう。

  • 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである」(同、p.16)

  • 「[米国では]精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。」(同、p.16)


 どうだろう。これはかなりアメリカ人に喧嘩を売っているような表現と言えないだろうか。これらを読む限り、土居はかなり文化的なバイアスがかかった物言いをしていたことがわかる。ある意味では反米的で、渡米したころからかなり挑戦的であったことがわかる。しかしそれでいてとても英語が堪能で、早くから海外に出ることを考えていらっしゃった人でもある。
 土居のアメリカ人に対する批判には歯に衣着せないものも含まれる。ある時メニンガークリニックに久しぶりに訪れた土居先生は、聴衆に向かって、「久しぶりにアメリカに来てみたら、太り過ぎの人がとても多くなってびっくりしました」と言ったという。すると聴衆の何人かの該当者は、席を立って帰ってしまったという逸話を聞いた。そういうところがあるのである。「甘えの構造」はさっそく英訳されて海外でも読まれるようになったが、これらの引用部分など、米国人が皆どんな思いで読んでいるのかとひやひやするところがある。


2026年7月7日火曜日

甘え 推敲 1

土居健郎先生の甘え理論はどのくらい先駆的であったか、というテーマで論じる。私はたまたま昨年11月に、ある学会の「甘え」に関するシンポジウムに招待され、甘え理論を再考する機会を持った。その結果以下の疑問が生まれた。

 一つには世界的に知られている甘え理論の何が画期的だったのか?(本当に画期的だったのか?)ということである。甘えは日本の精神分析にとって一つの記念碑という意味合いがある。それほどにこの理論は世界中で一定の認知度と評価を得ているのだ。しかし我が国の精神分析で甘え理論を発展させた業績というのはさほど多くないというのが現実である。もちろん国内では様々に議論されている。しかし世界でレベルでもあまり盛んな議論を巻き起こしているとは言い難い。それはなぜだろうか?私たちはこの貴重な遺産を正しく評価しているのであろうか?それが一番問うべき問題である。

 もう一つの疑問は土居先生は甘え理論を「実践」していたか?ということだ。それは一つには土居先生はお弟子さんを甘やかす、ということとは程遠い存在だったということも関係している。それを先生に散々お世話になった私が言うことは恩知らずと思われても仕方がないかもしれない。でも私の土居先生のイメージは、とにかく果敢に自分の意見を舌鋒鋭く述べる、いわば「戦う人」というイメージなのだ。

 もちろん甘えの理論を唱えた土居先生が患者や弟子の甘えの願望を満たすことを意味するかと言えば、全く違うかもしれない。しかしそれでは治療者としてあるべき姿として彼が唱えていたのはどのような態度だったのか。これを私はまだ十分に理解していないことをこの度自覚したのである。


2026年7月6日月曜日

解離とリスク 5

  こでBPDやPTSDにおける自殺傾向と、解離性障害における自殺傾向とではかなり異なる意味合いを持っているということを図を使って説明したいと思う。この図にある通り、BPDやPTSDやアルコールによる酩酊自殺傾向は何らかの生活上のトリガーにより賦活される。しかしこの自殺念慮は多くの場合、彼らの意識からそれほど遠くないと見ていい。

 この生活上のトリガーとしては様々なものがあり、配偶者との口論から一気に強い自殺念慮に見舞われる場合や、ネット上での中傷を受ける、試験や投資に失敗するなどの例が挙げられる。しかし時には何の前触れもなく抑うつ的な気持ちになったり、夜寝付かれずにネガティブなことを考えているうちに自殺願望が頭をもたげてくることもある。アルコールによる酩酊などでは、情緒的に非常に不安定になった挙句に衝動的に自傷や自殺行為に及ぶという場合もある。

 ところが解離においてはかなり事情が異なる。それは「自殺傾向を有する人格」という形を取り、普段は解離というカプセルに入った状態である。その保護膜は厚く、それがいたずらに賦活されないように守られている。そしてこのカプセルは、それ以前に自殺企図が生じた際に、それ以上の暴発を抑えるために冷凍保存している可能性があるのだ。

 ただし生活上のトリガーの種類によってはかえって容易にその人格が賦活されることがある。それがおそらく解離における自殺企図の多さに表されるであろう。しかしそれはまたほかの保護的な人格の牽制を受ける事になる。 

 そしてこの図が表していることは二つある。一つは解離のカプセルの存在が自殺傾向を誘発しているのではなく、自殺傾向の結果としてカプセルが出来上がっているということ、そして二つ目はほかのカプセルがその自殺傾向をけん制している可能性があるということである。


臨床例)

<中略>

Bさんのケースでは解離は既遂自殺を促したのか、それともそれを数年間遅らせたのか?

最後に本発表の結論を示す。

  • 解離においては頻回に自殺企図が見られるが、解離がそのの原因になると信じる根拠はない。

  • 解離は自殺にとっての危険因子でありうるが、少なくとも保護因子としての意味を有するであろう。

    • もし実際にDIDにおいては自殺未遂に比して既遂自殺が少ないのであれば、その証左となる可能性がある。

  • 解離の機制は障害であると同時に能力や創造性としての側面を持つことを明らかにすることはDIDの患者に対するエンパワメントにつながる可能性がある。

2026年7月5日日曜日

解離とリスク 4

報告者の仮説的な見解
ここで私の仮説的な見解を述べておこう。 解離という現象は、イマジナリーコンパニオンや体外離脱体験等が一般人にも広くみられることから、多くの人間にデフォルトとして備わっている機能である可能性がある。
最初の危機状況での解離は Putnam の言う「生き延びるための価値」としての防衛機制が発揮されたものと考えられるであろう。つまり解離は「保護因子」として働いている可能性がある。
DIDにおいては過去の被虐体験を担う人格による自殺企図が繰り返される可能性が高いが、それを抑制する人格も多く存在するであろう。
DIDにおいて自殺企図が必ずしも既遂自殺に至らないのは、自殺の瞬間の人格間の抑制の結果ではないだろうか? ここで私が最近投稿した論文の要旨を示したい。

解離現象はトラウマに反応して生じる防御反応であるだけではなく、それ自身が生存の価値を持った創造的なプロセスであると考えられる。それはイマジナリーコンパニオンに見られる内的な人格の創成と、体外離脱を祖型とするスイッチングに特徴づけられ、その説明の図式としてポリヴェーガル理論を用いることができるであろう。
(精神科〇〇学 2026年 第41巻 増刊号)

症例A

「昨日マンションから飛び降りようとしたが、死んでたまるか、という自分が抑えていた。

<以下略>

2026年7月4日土曜日

解離とリスク 3

 Foote ら(2008) の研究から見えにくいこと

ここでこのフートらの研究からは見えにくい点について示したい。

先ず言えるのは、これをこのまま読むと、解離性障害 → 自殺企図増加 → 既遂自殺増加

という一直線の図式を頭の中で描いてしまう。つまり「解離症状は自殺を引き起こす危険なもの」という先入観を抱かせるのである。しかし実際に示されているのは、解離性障害は複数回自殺企図との相関を示すということである。つまり解離は自殺企図の「予測因子 predictor」とは言えるが、因果因子 causal factor とは言えない。
DIDの患者は確かに大きなトラウマを抱えている。しかし彼らにとっての解離は、少なくとも「危険因子」であるだけでなく「保護因子」として働いている可能性がある。

解離の既遂自殺のリスクについて: エキスパートたちの見解

さて、では肝心の既遂自殺についてはどうなのだろうか?これについては十分な研究がないので、過去のエキスパートたちの記載を見てみよう。

F.Putnamら(1986):DID100例の研究では、71%に自殺未遂が、1%(一名)に 既遂自殺が見られた。またC.Ross&Norton (1989):236例の研究では、MPD/DID患者の 72% に自殺未遂がみられ、2.1% に既遂自殺が見られたとと報告している。さらにR.Kluft (1995) は DID患者6例の既遂自殺 を臨床観察として報告している。

ここで文献検索のまとめをしておく。

DIDでは確かに自殺企図および自傷の頻度が著しく高いことが繰り返し報告されている。ただし解離と自殺企図の因果関係は依然示されていない。

他方、既遂自殺率については十分な研究がなく、一部の報告では比較的低率である可能性も示唆されている。



2026年7月3日金曜日

解離とリスク 2

 解離と自殺傾向についてのレビュー

古典的には Ross & Norton (1989) のMPDの研究で、患者の72%が自殺企図歴を持っていたと報告され、「DIDでは自殺未遂が非常に多い」という考えの出発点になっている。

  • その後の研究でもDIDを含む解離性障害では自殺企図・自傷の頻度はかなり高いという点はかなり一貫している。

  • 解離性障害患者の67%が反復的な自殺企図歴を、42%が自傷歴を報告したとされている。(ISSTDの成人DID治療ガイドライン(※)、Foote らや Ross & Norton らの研究を引用)。

 ※ International Society for the Study of Trauma and Dissociation (2011): Guidelines for Treating Dissociative Identity Disorder in Adults, Third Revision, Journal of Trauma & Dissociation, 12:2, 115-187

ここでFoote ら(2008) 精神科外来における解離と自殺傾向という論文を参照したい。(Dissociative Disorders and Suicidality in Psychiatric Outpatients

Foote, Smolin, Y. et al.;The Journal of Nervous and Mental Disease 196(1):p 29-36, January 2008.) 

そこに述べられていることをまとめると以下のとおりである。
複数回の自殺企図歴を持つ患者に焦点を当てて分析したところ、解離性障害、境界性パーソナリティ障害、PTSD、アルコール乱用/依存のいずれもが、複数回自殺企図群と有意に関連していた。
しかし、これらの診断をすべてロジスティック回帰分析投入すると、解離性障害診断と複数回自殺企図との関連のみが極めて強く残った(オッズ比 15.09、95%信頼区間 2.67–85.32、p = 0.002)。
解離性障害は、複数回の自殺企図歴を予測する最も強力な要因であった。
ただし既遂自殺については何も語っていない。

ちなみに以下はこの論文の抄録の日本語訳である。

解離性障害の患者が自殺企図の既往を報告することはよく知られているが、解離性障害患者と非解離性障害患者の自殺傾向を系統的に比較した研究はほとんど存在しない。
本研究の対象は、都市部の病院精神科外来に連続して受診した231名の患者であった。このうち82名については、解離性障害、境界性パーソナリティ障害、外傷歴を評価するための構造化面接(Dissociative Disorders Interview Schedule)および、PTSDと物質使用障害を評価するためのDSM-IV構造化面接(SCID)が実施された。
解離性障害と診断された患者群を、非解離性障害患者群と比較し、自傷行為および自殺傾向との関連を検討した。
その結果、解離性障害の存在は、自傷行為および自殺傾向のすべての指標と強く関連していた。
さらに、複数回の自殺企図歴を持つ患者に焦点を当てて分析したところ、解離性障害、境界性パーソナリティ障害、PTSD、アルコール乱用/依存のいずれもが、複数回自殺企図群と有意に関連していた。
しかし、これらの診断をすべてロジスティック回帰分析に投入すると、解離性障害診断と複数回自殺企図との関連のみが極めて強く残った(オッズ比 15.09、95%信頼区間 2.67–85.32、p = 0.002)。
解離性障害は、自殺研究においてしばしば見落とされてきたが、本研究の対象集団においては、複数回の自殺企図歴を予測する最も強力な要因であった。


ちなみにこの論文についてのAIのコメントは以下の通りだ。とても勇気づけられる。

君が今追っているテーマとの関係で言うと、この論文は実はとても重要なんだ。

なぜなら、この論文が示しているのは、「解離性障害は自殺未遂を予測する最強クラスの因子である」ということだけで、「既遂自殺が多い」とは一言も言っていないんだ。つまり、この論文はむしろ君の問題意識、DIDや解離性障害では未遂は非常に多い。 しかし既遂は本当に多いのか?という問いをさらに鋭くする論文なんだ。フート自身はその問いには答えていない。彼が示したのは、「解離性障害の患者は、何度も自殺未遂を繰り返す傾向が非常に強い」という事実までなんだ。だから今君がが掘っているテーマは、実はFoote論文の“その先”にある問いと言えると思うよ。


2026年7月2日木曜日

解離とリスク 1

 解離は自殺のリスクを高める危険な症状なのだろうか?

 本稿ではこの問いについて考えたい。解離については巷ではいろいろ言われている。それらのいくつかを挙げるならば、

解離の機制により、感情調節の困難さが隠蔽ないしは断片化される傾向がある。

 解離によって身体的痛みへの感受性が低下し、致死性の高い自殺企図を実行する心理的障壁が下がる可能性がある。

交代人格間での絶望感の共有不足や、激しい感情の変動が衝動的な行動を誘発する可能性がある。

 幼少期の虐待等のトラウマ体験が解離と気分変調の両者を惹起し、慢性的自殺念慮の根底にある「自己破壊衝動」を形成する可能性がある。

 意識の狭窄や健忘を伴う解離状態において、気分の急激な変化が衝動的な行動へと結びつく可能性がある。

 過去の逆境体験が、解離という回避的防衛と気分変調の双方を形成するプロセスが見られる。

これらの見解を読む限り、解離が危険であり、それを抱えている人は自傷や自殺の高いリスクを背負っているという先入観を生みやすいだろう。しかしそれは本当だろうか?

ここで一昔前のPutnam のテキストを参照してみよう。そこには以下のように書かれているのだ。

「解離は防衛機制であり、生存の価値 survival value を有する (Putnam,1989)」

 ここでこの考察を始める前の私の偽らざる考えを記しておこう。それは上記の「解離=危険」と考える立場とは相当の隔たりがあった。

統計的なデータは得られていないが、報告者(岡野)の解離性同一性障害(以下、DID)の臨床経験からは、自殺未遂や自傷行為の多さとの対比で、既遂自殺はかなり少ないという実感がある。(自殺の刹那に保護的な人格が介入して自身の身体を救う傾向があるようだ)。

人生の最初の危機的状況で解離が当人を救ってくれたとしたら、自殺を遂行しかけるという第二の危機的な状況で、解離が「生き延びるための価値」を発揮して、本人を救う可能性は十分にあるのではないか。

私はこのテーマについて論じる時、しばしばある患者さんの語ったことを思い出す。その方(Sさん、50代女性)はDIDがあり、過去に数限りない自殺企図を起こしていた。彼女のパターンは決まっていて、

(以下略)


Putnam, F. W. (1989).  Diagnosis and Treatment of Multiple Personality Disorder. New York: Guilford Press.
Ross, C. A., & Norton, G. R. (1989).
Multiple personality disorder patients with a history of child abuse. Journal of Nervous and Mental Disease, 177(10), 567–572.


2026年7月1日水曜日

解離と未遂との関連について 3

 この問題、もう少しで納得がいく気がする。あらためて考える。

SS状態(「前頭葉の機能低下・衝動性の亢進」+トラウマヒストリー)に陥る可能性として、BPD,PTSD, 酩酊状態が挙げられるのは分かる。BPDはもともと衝動性が高い。PTSDではFBが生じるとこれが起きやすいだろう。PTSDであること=深刻なトラウマヒストリーと考えるとわかり易い。酩酊状態はまさに「前頭葉の機能低下・衝動性の亢進」が人工的に作られた状態だ。翌日には昨日酔って「死ぬ!と叫んでいたことすら覚えていないであろう。  しかしDIDではSSは解離というカプセルに入っている。これはDIDだからSSが生まれたのではなく、そのようなトラウマ状況が生起した後に解離されて隔離されているのだ。ということは解離はSSが活動するのを抑え、保存している装置ということにもなる。  ということで次のような出来損ないの図を作った。