2022年4月7日木曜日

他者性の問題 その60 いよいよ対談の文字起こし

昨年暮れのJSSTDでのN間先生、S山先生、M先生との対談を文字起こしし始めた。

岡野 では交代人格といかに出会うか、というテーマでシンポジウムを開催したいと思います。このテーマは柴山先生が私の発表のスライドを見て「これを借りよう」と仰っていただいたので実現しました。精神科医の間ではDIDに取り合わないというのが一般的な傾向だという事ですが、みなさんは取り合っていらっしゃるのか、最初はどうだったのか、という事からお聞きしたいと思います。では、若い順からという事で、M笠先生、いかがでしょうか?

M笠先生 僕は大学院生の時はほんと外来バイトばっかりしていまして、それほど病棟は見てないんですけれど、やはり境界性パーソナリティ障害などは特にそうですが、外来の先生は面倒くさいなって思うと意外とすぐに他に紹介してしまい、自分で診るよりは専門家の先生にお任せしますという方が本当に多いかなと思います。僕自身は解離性同一性障害の方がいらっしゃった時は僕自身治療をどうしたらいいのかという確固たる信念がなく、まあお話は聞いてもあまり介入的にはならないようにしていました。どこかである先生が書かれていたと思うのですが、「交代人格は出て来てほしくない人のところには出てこないみたい」なことを多分書かれていたと思うのですが、多分僕自身が交代人格に会ったのはこれまで二例くらいでして、あまり認められていない人間なのかなという印象は持っています。
岡野 最初はあるのかな、と思ったんですか?
M先生 最初は信じられなかったですが、精神科医になって1年目に勤務した最初の病院が大きな病院だったので、あるカップルがいらして男性の方がこの半年間記憶ないと訴えられたのです。そこで詳しく話を聞いてみると、本当にこの半年間その彼女が知ってる元々の彼はいなかったらしいのです。でもその半年間の彼は何気にしっかりしてるというお話でした。多分精神科医になって一年目の終わりくらいでしたが、そういうケースがあるんだなという事を実感として持ってはいました。僕もこう解離性障害や離人症の勉強をしっかりしたことがなかったんです。この半年ぐらいでやっとEMDRもここ最近知ったくらいのレベルなので、何とも言えないんですけど、ただ僕は境界性パーソナリティ障害と結構似たような対応をしていたかなという印象あります。つまり慢性心的外傷の文脈で接することが多いかなと思います。

2022年4月6日水曜日

他者性の問題 その59 DIDの責任能力について ちょっと推敲した

 現実の裁判において起きること

 さてここからは私自身の体験を交えながら論じることになる。私はこれまで10例程度の解離性障害を有する被告に関する裁判に関わり、出廷し、証言をしてきた。それに先立ち被告者と拘置所で鑑定医の立場で何度も面会し、かなりの時間を報告書の作成に費やした。もちろん私はその多くを公にすることが出来ない。医師は守秘義務を担う。「医師・患者関係において知りえた患者に関する秘密をほかに漏洩してはならない」のであり、それには私が鑑定医としてかかわったケースも該当するのだ。ただし司法プロセスはまた可能な限り公開されるべきものである。法廷は原則公開され、それが世間の注目を浴びる事件であったケースはかなり詳しく報道されている。私自身が関わったケースですでにジャーナリストにより文章化され刊行されたものもある。それを私が「引用」することには何ら法的制限はないことになる。以下の内容を私は守秘義務の問題に注意を払いながら執筆することになるために、かなり一般論的な記述になることをお断りしたい。

 私が本章で主張したい内容の要旨を述べるならば、それは「司法の場では、解離性障害はまだまだ正しく理解されたり、認められたりしていない」ということだ。そして上述のプロトタイプに対する判決にはあるパターンが存在し、それは解離性障害、特にDIDに対する理解の不十分さを反映していると考えざるを得ないのである。
 ここで上記のプロトタイプに該当する、すなわち大部分のDIDを有する被告人の置かれる状況にあるAさんの話に戻ろう。Aさんは万引きを働き、その件で店から訴えられたとする。(万引き程度で裁判は起こさないだろう、と言われそうだが、実際に起訴されて裁判が成立したとしよう。)まず検事側は、Aさんを通常の法律の運用に従って罪が問われるべきであると主張する傾向にある。それに対して弁護人側は、Aさんの有する精神障害(すなわちDID)を考慮したうえでAさんは減刑されるべきだったりは無罪であると主張することになるだろう。すなわちこの裁判はDIDが違法行為に与える影響をめぐって最初から対立する運命にある。そして次に何が起きるかと言えば、検事側も弁護側も、自分たちの主張に根拠を与えるためにそれぞれ別々の精神科医に依頼してAさんを診察し、それに基づく意見書や鑑定書を提出してもらい、そのどちらに信憑性があるかが裁判で争われることになる。これが通常の裁判のプロセスである。
 私自身は精神科医の証人として何度もこのような状況に身を置いているのでこのプロセスについては特に疑問だとは思わないが、読者の方は不思議に思われるかもしれない。それを代弁するならば「精神科医は医学者であり、目の前の患者を客観的に診察することが出来るのに、真っ向から対立するような意見の違いはどうして生まれるのだろうか?」となるだろうか。

2022年4月5日火曜日

他者について その58 責任能力のところの一部書き直し

 本章では司法の領域においてDID(解離性同一性障害)がどのように議論され、DIDを有する方々がどのように処遇されてきたかについて論じたい。
 私はこれまでこの問題にほとんど言及してこなかった。ただDIDを持つ原告の方の鑑定、ないしは意見書の作成に携わったことは何度もあり、司法の目を通してDIDの問題を考える機会をかなり多く持ってきた。そしてDIDの方が自分の行動にどれだけの責任を取るべきかという問題は、本書のテーマである交代人格と他者性という問題にとって極めて重要な意味を持つことを、私は最近になり自覚するようになった。DIDを有する人が交代人格の状態である違法行為を行った場合、その人は通常の犯罪行為を犯した人と同様に扱われるべきだろうか? それとも罪を問われるべきでないのか? この問題はDIDにおいていわゆる「責任能力」の問題をどう考えるか、という事に尽きるのである。

責任能力とは何か?

ここで本格的な議論に入る前に、責任能力という問題について簡単に触れたい。この概念ないしはタームは本章でこれから何度も出てくるからである。ただしこの用語はあくまでも法律用語であり、精神医学の用語ではない。しかも刑法ではその説明をしていないのである。それにもかかわらずDIDの法的責任などについて考える際に極めて重要なのだ。当事者が責任能力を有するかどうかによって、収監されるか、執行猶予つきになるか、無罪になるかが大きく変わってくるのである。

ちなみに少し間違えやすいのは、被告人が責任能力を有するという事は、その人がより重い罪を着せられるという事を意味するという点だ。ある能力を持つということが、自分自身にとって不利に働くという事情は慣れないとなかなかピンと来ないだろう。
 さて刑法が責任能力について定義していない以上、その事実上の定義としては最高裁の判例がしばしば引用されることになる。それによれば心神喪失とは、「①精神の障害により、②弁識能力または制御能力を欠いている状態」とされている。

2022年4月4日月曜日

他者について その57 対象関係論の話に繋げるところ

  臨床心理学というとやはりその大きな源流は精神分析でしょうし、アーロン・ベック は言うまでもなく、行動療法、来談者中心療法などのあらゆる流れが精神分析に多くの影響を受けています。その精神分析理論の中でも比較的多くの学派に支持され、いわば精神分析のスタンダードの理論と言えるのが、対象関係論です。
 その対象関係論における「対象」という概念についてですが、これは一般的に他人、他者を指しています。しかしそれは結局は「心の中の他者イメージ」のことなのです。それを精神分析では「対象」という言い方をしているのです。(この「対象」という言葉は何か「モノ」的なニュアンスがありますし、英語でのobject もそのような意味を持ちます。そしてそれはリビドー論から始まったフロイトの理論が、そのリビドー、すなわち欲動の向かう目的 object となる人という意味で用いたのが始まりなのです。
 ともかくも対象関係論で他者に近い概念が対象なのですが、これは他者について心の中に抱いているイメージということです。実際の母親ではなくて、「瞼の母」という事です。たとえばAさんという他者のことを考えるとすると、私達はAさんのことを分かったつもりになっていても、それは私たちが心の中で描いているAさん像、イメージであって、現実の他者としてのAさんではないわけです。というか、厳密に言えば、Aさんのことを知っている、と思った時点ですでに、現実の他者ではなくて内的対象になっているわけです。

2022年4月3日日曜日

他者性について その56 そもそも他者性とは? 書き起こし

 そこでこの講演でのテーマになっている他者とはそもそも何なのか、という事にいったん話を戻したいと思います。他者についてここまで話を進めてから、その定義に戻るのは順番が逆と思われるかもしれません。しかしここまでのお話は他者という概念の面白さを強調したいためにまずお伝えしたかったことです。
 他者とは、「自分でないもの」という事でしか定義できないものです。自分という体験は、おそらくそれとは自覚されずに自然と持たれるものです。生まれたての赤ちゃんはまだカオスの中にあり、ただ何かを感じ、あるものは苦痛で、あるものは心地よいというくらいの区別しかできないでしょう。それが内と外のどこから由来するのかまだはわかりません。しかし生命体である以上、何が自分由来で何がそれ以外のものかについては、かなり早くから区別をつけることを迫られます。自分の体を傷つけるわけにいきません。そのために、自分の腕が何かを打ち付けた場合に痛みとして体験されることになります。それによりその腕やそれを動かす行動が自分由来であることを教えてくれます。するとそれ以外は他者、という事になります。あるいは空腹を感じても、それを自分一人で解決することは出来ず、母乳として外側の存在(母親)から提供されなくてはならないことを知ります。
 この様に自他の区別は生命体において決定的に重要です。それは自分の生存を守るためにも、また自分以外の何物かに接近されたり侵入されたりした場合にそれを外敵と見なして警戒したり撃退するという必要性からも重要です。そしてその区別を、自分由来のものにいわばタグ付けをすることで他者と区別しています。そしてこのタグ付けは意図的な作業としてではなく、身体レベルで、あるいは神経レベルでなされていくものでもあります。
 例えば私が今自分の手で自分の肩をポンポンたたいても、それに驚くことはありません。それは私たちの小脳が、常に予測をして、自分から起こした行動なら、肩に「これから触られる感触が起きるよ」、そして手に「これから肩を触る感触が伝わってくるよ」という信号を送っています。だからこれが自作自演だとわかるのです。そうでないと私がこうやって話している途中で急にポンポンと肩を叩かれると、「ええッ?」と驚くでしょう。
 同様のことは免疫学についても言え、私たちは異物に対しては抗原抗体反応を起こしますが、自分の体の組織に対してはそれを異物として攻撃することはありません。しかしそれは決して自然にそうなっているわけではなく、複雑な免疫機構が働き、自分の体を異物として反応するようなリンパ球を片っ端から殺すことでやっと成立しているようなものです。これがいわゆる「免疫学的寛容性」と呼ばれる仕組みです。

このように身体も、私達の認知も、自と他をものすごく区別しているわけです。これがごっちゃになってしまっては生きていけません。でも日常生活ではこの他者というものを意識することはあまりないのです。というのも他者というのは心理学の対象になりにくいのです。次にそのことについてお話します。

2022年4月2日土曜日

他者性について その55 離断脳と二重人格について

左右の脳は他者どうしである
 そしてひょっとすると左右の脳は他者同志である可能性があるというお話をここで私が持ち出すと、皆さんは混乱するかもしれませんが、これも事実なのです。いわば私たちはみな二重人格であるという可能性があるのです。皆さんは離断脳の実験というのを御存じでしょうか? 実験的に左右の脳を切り離された人は、左脳と右脳で別々のことをしてしまうという事があります。右手でボタンをはめようとして、左手で外そうとするといった行動を見せることになります。あるいは人の首を右手で絞めて、左手でそれを外そうとするという事が起きます。
 この図は大脳を左右に押し広げて脳梁という部分を露出したものです。私達の脳は左右一対で出来ており、左脳と右脳はほぼ対称をなしています。そしてその間を三億本ともいわれる神経線維、いわば信号を行き来させるケーブルが通っています。それが脳梁です。
 この部分が脳梗塞や脳出血などで破壊されると、左右脳の情報の交換が出来なくなり、左右の脳はいわばバラバラに動き出す可能性があります。そして一部の患者さんに診られるのがいわゆる「他人の手症候群 alien hand syndrome」 と呼ばれる状態です。これは比較的希な症状であるが、一つの手が自分の意志に逆らって勝手に動き出すという症状を示します。一般的には拮抗失行と呼ばれ、右手が随意的、意図的な行動を行おうとすると、左手がそれに関係ない、あるいは拮抗する動きを見せるのです。
(現代精神医学事典 加藤敏、神庭重信その他編 弘文堂 2016年)
この分離脳の状態は難治性の癲癇の治療のための外科手術により結果的に生じることもあります。ただしこの脳梁の部分に麻酔薬を注入することで、この離断脳状態を一時的に人工的に作ることが出来ます。そして同様の症状をいわば実験的に再現することが出来ます。
 これはちょうどDIDの患者さんにもみられる可能性のある行動ですが、これほど右脳と左脳は異なった意思を持つにもかかわらず、私たちは普通矛盾した心を一つの統一体として経験しています。だから一方で相手に愛想笑いを浮かべて、他方では憎しみの感情を味わうというアンビバレントな体験を受け入れるのです。それは私たちは自分の中で起きたことは、自分のものであるというタグをつけることで外来のものと区別するからです。

2022年4月1日金曜日

他者性について その54 退官講演の書き起こし 夢で出会う他者

夢に出てくる私は他者ではないのか?

私は解離性障害でなくても、私達はさまざまな他者と心の中で出会っていると考えています。私は毎朝起きた後に、ちょうど見ていた夢での不思議な体験を興味深く反芻することが多いのですが、夢に出てくる私は私ではないのではないか、と思うことが最近ではよくあるのです。夢の中のシーンには私の昔の体験が断片的に出てくることはありますが、どれ一つとして昔の実際の出来事の単なる回想ではありません。夢で出会う人は昔のクラスメートなどのイメージを借りてはいますが、新たな、あるいはまったく異なった外見やふるまいを同時に見せます。ところがそれを見ている私は「あいつらしいな」などと思っているのです。また夢の中で私はある予感や確信を持って行動していることがよくあります。たとえば「ここに自分の住み慣れた大学の寮がある、ということは大学のキャンパスは東に数百メートル行ったところにあるはずだ」などと夢の中で考えているのですが、実際に大学の寮で生活をしたこともなく、また大学の寮の数百メートル西に大学が存在したという記憶もありません。ところが夢の中の私はそれらのことを前提として行動し、考えているのです。なぜそのようなことが起きるのかを考えているうちに、私は実はその様な記憶を持った別人であると思うようになったのです。

つまり私が夢で出会う人々は他者であり、夢の中の自分も私にとって他者ではないかという事をここでは述べていることになります。そしてその他者としての私は現実の私に影響を与えています。たとえば夢の中で私は気持ちよく空を飛ぶ体験を時々持ちますが、もちろん実際にそのような体験を持ったことがありません。でも私は夢のおかげで空を飛ぶ実感を思い出すことが出来ます。空を飛ぶという感覚は、私が夢の中で他者である私から教えてもらっているわけです。

私が夢で出会う他者のことについて考えるようになったきっかけはDIDの方の体験と少し似ています。ある時患者さんが私に夢を報告してくれました。その方はDIDではありませんが、やはり幼少時から親に虐待されるという体験を多く持っていました。ところがその患者さんは夢の中で、時々自分が人を殴る立場に代わっていて、しかもそれに快感を覚えていたというのです。その方は非常に落ち込んで私に尋ねたのです。「これも私でしょうか? 私も人を殴ってうれしいと思うかもしれないのでしょうか?」それに対して私は次のように言ったのです。「夢の中で出会う誰かは、本当は正体がわからないのです。あなたであると考える根拠はないのです。」

つまり、ここで私がお話しているのは、解離状態でなくても私たちは自分たちの心の中で他者と遭遇しているということです。
 ここでこの他者の問題はとても臨床的に重要であるということがわかるでしょう。DIDを有していなくても、私たちは夢の中で他者に出会っているでしょう。それはそこで出会う自分という他者をどのように扱うか、ということです。もしその他者が攻撃的であったり、加害的であったりする場合、私たちはそれを「それもあなたの一部です」という解釈を与えるでしょうか? ここで先ほどのDIDAさんの別人格Bさんについての議論と同じことが言えるのです。というのも夢の内容はしばしば外傷的な出来事のフラッシュバックの形を取り、私たちはそこで攻撃者に成り代わった自分に出会う事すらあるからです。