夢に出てくる私は他者ではないのか?
私は解離性障害でなくても、私達はさまざまな他者と心の中で出会っていると考えています。私は毎朝起きた後に、ちょうど見ていた夢での不思議な体験を興味深く反芻することが多いのですが、夢に出てくる私は私ではないのではないか、と思うことが最近ではよくあるのです。夢の中のシーンには私の昔の体験が断片的に出てくることはありますが、どれ一つとして昔の実際の出来事の単なる回想ではありません。夢で出会う人は昔のクラスメートなどのイメージを借りてはいますが、新たな、あるいはまったく異なった外見やふるまいを同時に見せます。ところがそれを見ている私は「あいつらしいな」などと思っているのです。また夢の中で私はある予感や確信を持って行動していることがよくあります。たとえば「ここに自分の住み慣れた大学の寮がある、ということは大学のキャンパスは東に数百メートル行ったところにあるはずだ」などと夢の中で考えているのですが、実際に大学の寮で生活をしたこともなく、また大学の寮の数百メートル西に大学が存在したという記憶もありません。ところが夢の中の私はそれらのことを前提として行動し、考えているのです。なぜそのようなことが起きるのかを考えているうちに、私は実はその様な記憶を持った別人であると思うようになったのです。
つまり私が夢で出会う人々は他者であり、夢の中の自分も私にとって他者ではないかという事をここでは述べていることになります。そしてその他者としての私は現実の私に影響を与えています。たとえば夢の中で私は気持ちよく空を飛ぶ体験を時々持ちますが、もちろん実際にそのような体験を持ったことがありません。でも私は夢のおかげで空を飛ぶ実感を思い出すことが出来ます。空を飛ぶという感覚は、私が夢の中で他者である私から教えてもらっているわけです。
私が夢で出会う他者のことについて考えるようになったきっかけはDIDの方の体験と少し似ています。ある時患者さんが私に夢を報告してくれました。その方はDIDではありませんが、やはり幼少時から親に虐待されるという体験を多く持っていました。ところがその患者さんは夢の中で、時々自分が人を殴る立場に代わっていて、しかもそれに快感を覚えていたというのです。その方は非常に落ち込んで私に尋ねたのです。「これも私でしょうか? 私も人を殴ってうれしいと思うかもしれないのでしょうか?」それに対して私は次のように言ったのです。「夢の中で出会う誰かは、本当は正体がわからないのです。あなたであると考える根拠はないのです。」
つまり、ここで私がお話しているのは、解離状態でなくても私たちは自分たちの心の中で他者と遭遇しているということです。
ここでこの他者の問題はとても臨床的に重要であるということがわかるでしょう。DIDを有していなくても、私たちは夢の中で他者に出会っているでしょう。それはそこで出会う自分という他者をどのように扱うか、ということです。もしその他者が攻撃的であったり、加害的であったりする場合、私たちはそれを「それもあなたの一部です」という解釈を与えるでしょうか? ここで先ほどのDIDのAさんの別人格Bさんについての議論と同じことが言えるのです。というのも夢の内容はしばしば外傷的な出来事のフラッシュバックの形を取り、私たちはそこで攻撃者に成り代わった自分に出会う事すらあるからです。