2017年11月7日火曜日

いかに学んだか 推敲 ④

私の脱学習のプロセス
さて私の脱学習のプロセスについても少しお話します。私はよく駆け出しの治療者がスーパービジョンやケース検討会で多くのことを学んだという話を聞くたびに、本当だろうか、と疑います。もちろん右も左もわからない段階では、スーパーバイザーに言われることはみな正しいように聞こえ、事実それにより学習することも多いでしょう。しかしそのうち必ず、バイザーの言うことに「これはおかしいのではないか?」と思うことも出てきます。そしてそれを問いただし、場合によってはそこから深刻な討論が始まることもあるでしょう。ある意味ではそこからが本当のスーパービジョンというところがあります。
 駆け出しのバイジーはまだ、様々な学習を脱学習していません。すると様々な治療者のいうこと、テキストに書かれていることの一つ一つを真に受けますから、それらの間に矛盾を感じることも少なくありません。あるいは一人のバイザーのいうことの中にも矛盾を感じてそれを問いただすこともあるでしょう。そこでバイザーが「いやAもあればBもあるんだよ」という言い方をしても「Aが正しくて、Bが間違っているんだよ」という言い方をしても、バイジーは混乱する可能性があります。バイジーはある指針を示してほしいのです。なぜならまだ「自分で判断していいのだ」「本来そうするものだ」という発想がないからです。そしてゆっくり時間をかけて「正解はないのだ」、ということを本当にバイジーが知る、あるいは脱学習するという苦しいプロセスにバイザーは付き合ってあげなくてはなりません。ひょっとしたらバイザーの仕事の最も大事な部分はそれかもしれません。
しかしそのプロセスで必然的に起きるのが、バイザーとバイジーの間の深刻な対峙です。それは本来異なる考え方をする人同士の深刻な対話のはずですが、どちらかに欺瞞や自己愛の傷つきが生じた際には感情を伴ったバトルに発展することもあるでしょう。そこでスーパーバイジーは本気でバイザーと対決するべきだと思います。よく分析では被分析者と分析家の間のケンカが生じます。これはある意味では治療関係において生じる転移、逆転移の発展として理解することが出来るでしょう。分析者の側も、非分析者の怒りを転移ととらえるだけの余裕を持つこともあるでしょう。ところがスーパービジョンは、バイザーはしばしばバイジーからの質問を挑戦と受け取り、ヒートアップしてしまうことがあります。そこにケースという第三者、最も重要な受益者の運命がかかっていることもあり、バイジーはケースを守るという使命感からよりいっそう舌鋒鋭くバイザーに迫ることもあり、まさに真剣勝負というところがあります。
この真剣勝負においては、もちろんバイザーの言うことの方が筋が通らない場合はいくらでもあります。よくスーパービジョンで問題になるのが、「何であなたはそういう時しっかり解釈しなかったのか?」というような駄目だしです。しかし治療中にはバイザーには見えないいろいろなことがおきているものです。第三者の立場と実際に治療を行っている治療者(バイジー)の立場には大きな違いがあります。そのことを考慮せずにあれこれ駄目出しされたときの治療者のふがいなさも相当なものだと思います。あるいはケースの言動に対してバイジーがその病理の深さを十分把握していないというバイザーからの指摘に対し、バイジーはあたかも患者を傷つけられた気がして、反論することもあるでしょう。こうなるとバイジーは自らの、そして患者さんのプライドをかけて、自分の立場を主張することになります。
もちろん「これからもお世話になるバイザーとケンカすることなんてありえません」というバイジーさんの立場はよくわかります。しかし通常SVにはお金が発生します。一時間8000円払って意味のないアドバイスを与えられ続けることは時間とお金の無駄です。それを自分に許す人は、健全な自己愛を持ち合わせているとは言えません。
とはいえ、現実には多くのバイジーは、合わないバイザーとは喧嘩をする代わりに静かに離れる事を選択します。時間の都合がつかなかったから、ケースが終わってしまったから、などさまざまな理由をつけるでしょう。しかし大概は自分と合わないバイザーと継続することに意味を見出せないからです。そしてその場合に「先生とは考えが違うのでもう終わりにします」と正直に言うバイジーなどほとんど聞いたことがありません。
私はこれも喧嘩とみなしていいのではないかと思います。自分と合わないバイザーとのSVはさっさと終わらせる。そのときバイザーの気分を害してまでそれを終わらせる必要はないかもしれません。大概はバイザーは一家言を持っていて自分の考え方を容易には変えません。ただある程度こちらの考えを伝えて、どこまで互いに分かり合えるかを探索する必要はあります。少しのバトルは必要で、そのプロセスでバイザーがどの程度聞く耳を持ち、柔軟な姿勢を示すかを見ます。その上で荒っぽい喧嘩をしても何も得ることがないと理解したならば、それを回避するのも大人の判断かもしれません。しかしそれでも何らかの言葉を残しておく必要はあります。それはクライエントとの関係を考えればわかります。クライエントの言葉の中を聞いて、どうしても自分が一言口を挟みたい場合、反論したい場合、それをしない治療者は自分の職務を果たしていることにはならないでしょう。その意味での対決を避ける治療者の態度は決して望ましいとは言えません。
私が脱学習の結果としていたったのは、精神分析を一つの出会いとしてみるという視点だと思います。あるいは精神療法はそれが出会いとなることで治療的なインパクトが与えられることになります。
最後に提言
 どうぞ精神分析をいったん飛び出してください。私の提言はだんだん大胆で危険になって行きますが、それは精神分析を真の意味で学ぶためには、いったんそこから出る必要があるだろうということです。ただしこれにはいくつかの問題があります。精神分析を学んだ人は、すでに時間、お金の点で投資をしてしまっています。今更どうやって分析から離れることが出来るでしょう。多くの精神分析の学徒は精神科医や心理師になったころから修業を積んでいますから、年齢が40代、50代になってから新たに認知療法だ、EMDRの講習会だ、というわけにはいかないでしょう。これを経済学では埋没費用 sunk cost と言います。投資をしたのだから元を取らなくてはならないという考え方です。その気持ちはわかるのですが、もう一つ計算に入れなくてはならないのが、「人生このままでいいのか」ファクターです。残された治療者としての人生の中で、自分の学んだ精神分析理論を自分流にアレンジし、一番クライエントの益に結びつくような形にするのです。分析的なお作法に縛られる必要はありません。あるバイジーさんが、「私はこのクライエントとのセッションに、どうしても週に一回30分の時間しか取れません。これでは精神分析的な精神療法とも言えないのではないでしょうか?」とおっしゃいました。確かに日本のスタンダードでは、週一度50分は、最低ラインと考えられています。でも特に精神科医などは、週一度30分が精いっぱいということは現実として起きています。それでもクライエントのためになるのであれば、続けるべきでしょう。このようなことに頭を悩ますべきではないのです。(おわり)

2017年11月6日月曜日

いかに学んだか 推敲 ③

特にフロイトの精神分析については学びほぐしが必要な理由
この点は特に強調したいと思います。どの理論を学ぶにしても、その理論はその論者が主張したいことが前面に立ち、同時に論者が隠したいこと、防衛したいことを反映している可能性があります。(そういう私も実はそうしているかもしれません。)フロイト自身の理論にもクラインの理論にも、コフートの理論にもカンバーグの理論にも、彼らの伝えている真実とともに、それを防衛し、正当化するためのあらゆる仕掛けが備わっています。こう考えるとメジャーな理論には必ず脱学習すべき点が隠されているといっていいでしょう。
たとえばフロイトの理論の基礎的な部分について考えてみます。フロイトは精神病理の根幹に抑圧された性愛性を考えました。それが人を衝き動かしたり、症状を形成したりしていると考えたわけです。これ自体は仮説としては十分あり得ます。当時の時代性を考えると、画期的、というよりものすごく革新的だったと言えます。でもそれと同時にフロイトがある種の真実を発見し、世界をあっと驚かせてやろうと考えた、野心的で自己愛的な部分がありました。そしてこの欲動論に合わないものはどんどん切り捨てていったというところがあります。何よりも理論の整合性を求めたわけです。ということはリビドー論に合わないようなトラウマや解離の問題はことさら軽視されたということがあるでしょう。私の理論的な立場からすればどうしてもそう見えてしまうのです。フロイト理論を本当に学習するためには、彼が軽視したり棄却したりした部分を否定していかなくてはなりません。それがフロイトの脱学習です。ですから脱学習する、とはフロイト理論からAさんの理論になる、ということです。
あるいはクライン理論。メラニー・クライン自身の中にはかなり激しい怒りがあったことがうかがえます。怒りはしばしば自分の弱さや小ささを自覚させられたり、人に指摘されたりすることで誘発されます。これはコフートの言葉では自己愛憤怒です。しかしクラインにとっては怒りをプライマリーなものにすることで、自分の恥の部分の存在を認める必要はなくなります。そこでこの激しい怒りや死の本能の部分は脱学習されることになるでしょう。ただしコフート理論を考えると、今度は自身の攻撃性や羨望を否認している可能性があり、その部分を脱学習することになるかもしれません。すると結局は脱学習した結果に残るのは、あなたの理論なのです。

脱学習した結果としてどうなるのか?

さて脱学習した先は、人それぞれですが、そこにはひとつの共通項があるようですので、それをあげておきます。それはやはり特定の理論にとらわれずに、自分流を貫くということです。このことについて、精神分析の世界で起きていることを一つお伝えします。それは従来の理論にとらわれない、ということが倫理的な指針として唱えられているということです。これは皆さんもにわかには信じがたいでしょうね。フロイトの時代には匿名性、受け身性、禁欲規則などの治療原則を守るということが正しい道だったのですが、今やさまざまな理論や様々な立場を考えに入れよ、ということが言われているようです。これはもう少しはっきり言うならば「フロイトの言ったことにこだわるな!どの程度フロイトの教えを守るかは、自らが判断せよ」ということです。この経緯については私はいろいろなところで論じているのですが、ここでももう一度紹介しましょう。
 精神分析の草創期には、これらの原則や技法が順守されることと治療者が倫理的であることに区別はなかったといえます。何しろ精神分析理論は最高のものとされていたからです。しかし米国では1960、70年代を経て、そのような価値観に変化が生まれました。精神分析の効果判定に対する失望や境界パーソナリティ障害の治療の困難さを通して、分析的な技法を厳格に遵守するという立場よりも、実際の精神分析の臨床場面でそれをどのように柔軟に運用するのかというテーマへ臨床家の関心が移行したからです。フロイト自身は実際にはそれとはかなり外れた臨床を行っていたという報告(Lynn, 1998など)もその追い風になりました。またオショロフVSチェスとナットロッジの裁判を通じて、精神分析がその方針や利点、そしてそれによる負荷 burdern を明確に示す必要が生じたのです。その結果として米国精神分析協会による倫理綱領(Dewald, Clark, 2001)は次のような項目を掲げています。
●理論や技法が時代によりどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
●分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。
●患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない
ちなみにこの倫理綱領はどれも、技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではありません。中立性や受身性を守るべきだ、というようなことは一言も書いていないわけです。そしてむしろ分析家は治療原則を柔軟に応用する必要を示しているのです。
さてここで述べていることは、比較的消極的でした。そこでここからは私自身の脱学習の積極的な成果を述べたいと思います。


2017年11月5日日曜日

いかに学んだか 推敲 ②


たとえ話をするなら、宇宙の成り立ちを知らない頃の私たちは、ある人々は天動説を唱え、別の人々は地動説を唱えていました。要するに太陽が地球の周りをまわっているのか、あるいは地球が太陽の周りをまわっているか、ということです。しかし当時の天文学は極めて未熟でしたから、まったく異なる説が共存するという状態が続いていたわけです。もし天文学が中世からまったく発達しなかったら、おそらく今でも天動説派と地動説派は対立し、拮抗していた可能性があるわけです。天文学会も二つに分かれていたかもしれませんね。今の認知療法と精神分析のように。しかし16世紀のコペルニクスの登場以降、この種の意見の対立はまったく意味を失ってしまいました。認知療法と精神分析が共存して、どちらもお互いに相手を説得しえない状況は、結局複雑な心をどちらも捉えきっていないということです。まあ、それはともかく…・
ところでこの会場にいらっしゃる方々は、そのような大きな決定をすでになさっていることは感慨深いことです。なぜならここにいらっしゃる皆さんは精神分析の世界をお選びになっていると言うことだとおもいます。精神分析を選ぶということなしに、名古屋まで3日間、場合によっては仕事の休みを取り、週末の家族サービスを返上してここにいらっしゃるということは、大変なことだと思います。そして皆さんはすでに、精神分析的なアプローチか、それ以外かということに関しては、前者であるという選択をなさっているということだと思います。ある方は、最初から精神療法とは精神分析的なものであるということを、批判する余裕もなく伝えられ、そのまま受け入れられたのかもしれません。またあるいは最初は混乱し、何かの理由でこちらのほうを選び、おそらくそうすることで、もうあまり矛盾した話を聞かなくてすむのではないだろうと安心なさったのかもしれませんね。きっと頼りになる先輩に相談して、最終的に精神分析を選んだのかもしれません。おそらく皆さんがどこかで読んだり誰からに告げられたであろう「精神分析はいいよ」は、おそらく自分自身に問い直され、脱学習されたのちに選択されたのではないのだろうと想像いたします。
さてその経緯は問わないまでも、とにかく精神分析を選んだ皆さんでも、そこの中でやはり同じことが起きるわけです。無意識を重んじるという立場では一致していても、詳細な内容に及ぶと、たちまち学派による違いが明らかになります。先ほどの自己開示の問題などはその例かもしれません。ある学派は自己開示を厳しく戒め、別の学派は治療的であればいいじゃないか、と言う風に異なるわけです。結局はそこで自分で決める時が来ます。
それでも皆さんは、脱学習する代わりに、これまで頼りにしていた先輩に質問をするかもしれません。しかしその先輩は大枠でははっきりしたことを言ってくれていても、細部にわたると、人による、とか自分で考えろ、といわれてしまい、頼りにならなくなってしまいます。あるいはその先輩は、あなたが「Xかな?」と思っていたことについて、「絶対Yだ!」と言い、あなたはもうその先輩にはついていけないと思うかもしれません。
こうして結局あなたはどこかで一人で、誰に尋ねることもなく判断することになります。そしてそれを決める基準は、自分自身の感覚、英語で言うgut feeling なのです。これ、辞書で調べてみました。すると直感、第六勘と書いてあります。心から(胃の腑から)、あるいはフィーリングで、感覚的にそう思えると言うことです。そのときに脱学習が起きます。脱学習とは、学んだものを捨てる、ではなくて学びなおす、あるいは自分のものにする、ということなのです。「私は精神分析学を基礎として学んで治療を行っています」という主張を私たちはよくします。しかし私は精神分析学を学んだだけではいけないと思います。精神分析理論をいかに学ばないかということも必要であり、そこに私たちの臨床家としてのアイデンティティがかかってくると思います。私はこれまでに優れた臨床家を目にすることが多くありましたが、誰一人として、フロイトの書いたこと、クラインの書いたこと、ラカンの書いたことをそのまま素直に実践している人はいませんでした。それらの臨床家に「どうしてフロイトの教えとは違うことを実践しているのですか?」と問うたらどのような答えが返ってくるでしょう? おそらくそれは「私は最初はフロイトから学び、あとは個別の臨床場面では、自分で考えて臨床をしています」と答えるでしょう。ということは、どこかで精神分析理論を脱学習unlearn しているということになるのです。

脱学習とは
そこで学びほぐす unlearn ということについて少し説明しましょう。この絶妙な表現は一昨年に亡くなった評論家鶴見俊輔のものということになっています。鶴見氏はこんな体験を持ったといいます。戦前、彼はニューヨークでヘレン・ケラーに会いました。彼が大学生であることを知ると、「私は大学でたくさんのことをラーン learn (学習)したわけですが、そのあとたくさん、アンラーンunlearn しなければならなかった」と彼女は言ったそうです。鶴見先生はたちどころにヘレン・ケラーの言わんとすることを理解したそうです。彼の頭には、型通りにセーターを編み、そのあとほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像されたといいます。それが「学びほぐす」という言葉のニュアンスだそうです。
 ちなみに2006年12月27日(水曜日)13面「鶴見俊輔さんと語る 生き死に 学びほぐす」という記事がありました。実はこれをネットで手に入れたが、ヘレン・ケラーの話は直接は出てこなかったからこれをソースにするわけにはいかない。でもともかくもほぐす、という彼の訳語はこの毛糸のイメージから来ていると思えばわかりやすいわけです。結局学びほぐすとは、学んだことをもう一度自分自身で考え直し、自分なりに身につけたり、放棄したりすることを意味すると考えられるでしょう。

ちなみに英語の unlearn にこの絶妙な意味合いが含まれているかは疑問です。英語の時点で調べてみると、It is hard to unlearn bad habits.などという例が出てきます。Unlearn とは、忘れる、とかひとつの凝り固まった学習を放棄するという意味があるようです。しかしヘレン・ケラー女史や鶴見氏の言う unlearn は学んだことを改めて「本当だろうか?」と問い直すことであり、そこにはそれを放棄するという立場も、それを自らが再び選び取り、自分のやり方で心に収め直すという立場も両方ありうるのです。

2017年11月4日土曜日

いかに学んだか 推敲 ①

本日は、精神分析をどのように学んだか、というテーマで考えますが、このテーマを与えられてまず考えたのが、学びほぐし、という言葉です。これは英語の unlearn の日本語訳ということですが、評論家の鶴見俊輔先生(2015年、93歳で没)がこれを「学びほぐし」という日本語にしました。これが本日のテーマにぴったりという気がします。そこで「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というテーマでお話ししたいと思います。
学びの最終段階は、必ず一人である
先日あるセミナーで講師を務めてきました。そのセミナーは3人の先生方が「治療関係」という大きなテーマについて連続して講義をするというものでした。しかしあいにく土、日にかけて行われるため、3人の講師が最後に一緒に質問を受ける、ということができませんでした。そしてその後に回収されたアンケート用紙に、ある受講生の方が次のように書いていらっしゃいました。
「患者さんからのメールにどのように対処するかについて、講師Aの言うことと、講師Bのいうことが違っていたので、講義を聞く側としては混乱してしまった。」
この講師Aとはある精神療法の世界の大御所です。そしてこの講師Cとは私のことです。「治療関係」というテーマでの話で、患者さんとの具体的なかかわりに話が及び、そこでA先生がおっしゃったことと、私が言ったことにくい違いがあったことをこの受講生(Cさんとしましょう)が問題にされたのです。私は私の講義で、「患者さんとの連絡用にメールを用いることがあるが、患者さんからのメールに返信するかどうかは、その緊急性に応じて決める」というような言い方をしたと思います。そしてそれに対してA先生はかなり違った方針をお話したのでしょう。ただし私はA先生のお話を聞いていないので、私の想像の範囲を超えません。
私はCさん(および同様の感想を持った方)に対して、混乱を招いてしまったことは残念なことだと思いますが、私にさほど後ろめたさはありませんでした。それよりもむしろ、Cさんの不満は、精神療法を学ぶ上で、非常に重要な点を私たちに考えさせてくれたと思います。それがこの脱学習 unlearning というテーマです。CさんはたとえA先生の方針を最初に聞いて学習したとしても、あるいは私の話を聞いて学習したとしても、結局はどちらの内容に頼ることなく、自分ひとりでこの問題について判断しなくてはならないということです。つまりはCさんは私からメールについて学んだとしても、あるいはA先生から学んだとしても、それを脱学習しなくてはならないのです。つまり自分一人で問い直し、自分一人で答えを出すという作業をしなくてはならないわけです。そしておそらくCさんはまだそのことを知らなかったのであろうということです。
もちろんCさんは他のことについてはたくさん学習をなさっていることと思いますし、その一部は脱学習していらっしゃるのでしょう。でもこの患者さんとのメールのやり取り、あるいは電話のやり取り、さらにはセッション外での患者さんとのコミュニケーションのあり方については、彼が一度学んだ後、脱学習する類の問題であることをまだ自覚していないのだと思いました。
精神分析や精神療法の世界では、この脱学習は特に重要になってきます。というのもこの世界では、答えを一つに定めることが出来ないことが非常に多いからです。あるテーマについて、スーパーバイザーごとに、あるいはテキストブックごとに、異なる見解が書かれているのは当たり前だと思います。というよりは講師ごとに、著者ごとに意見が概ね一致しているようなテーマ自体がむしろ少ないのではないでしょうか?
 多くの治療者が賛成することと言ったら、例えば治療構造の重要さ、くらいしか私には思いつきません。しかしその治療構造の重要性といっても、具体的な内容、たとえばどこから先を精神分析的な精神療法とみなしますか、という質問になると、たとえば40分のセッションを毎週という構造をそれとみなしますか、ということになると分析の先生方の意見は、たちまち分かれるでしょう。また週一回50分の精神療法なら分析的と認めても、二週に一度のセッションならそれは分析的な精神療法として認めるかどうかについて意見が真っ二つに分かれてしまうのです。
考えてみれば、精神療法という広い世界の中で唱えられていることは、その療法家ごとに極めて異なるということはむしろ当たり前と言えるのではないでしょうか? 心について言語的な交流を行うことは有効であり、それを精神療法と予防という点では皆さん賛成するでしょう。しかし一方では無意識の意義を重んじ(精神分析)、他方では意識レベルでの認知を重んじる(認知療法)といった具合に分かれてしまいます。夢をどのように解釈するか、というのも治療者により大きく分かれてしまうでしょうね。あるいは治療者が自分の体験を語ること、いわゆる自己開示については、またこれが大きく分かれてしまうのです。ちなみにこの間ある家族療法の大家が、匿名性の立場を重んじる分析家との話をしていて、「家族療法では自己開示は当たり前である。みんな破れ身なのだ。」とおっしゃり、精神分析の隠れ身の姿勢と対比されていました。
ちなみにどうして夢の解釈にしても精神療法のやり方にしてもいろいろなものが提唱されているかについて、皆さんはどのようにお考えになるでしょう?それは心の問題があまりにも複雑で、私たちの理解を超えているからです。心の問題の多くは多次元方程式で、一つの解が定まりにくいのです。それほど心がはるかに複雑だから、心はAである、という考えと心はBであるという考えがいつまでも両立し、拮抗してしまうのです。私たちが自分たちの知識を超えて現象についてとる態度は大抵そうなります。

2017年11月3日金曜日

ローゼンフェルドの自己愛理論 ③


 まずはローゼンフェルドとはどのような人物なのかについて御紹介します。
1909年ドイツ出身。フロイトより半世紀遅れてこの世に生を受けました。ビヨン、シーガルと並んで,第二次世界大戦以後のクライン学派のもっとも重要な後継者の一人とされています。
すでにドイツで小児の情緒障害についての論文で医学博士を取っていましたが、ユダヤ人の医師は患者と接触してはいけない、というヒトラーのお達しがあり、医業を続けることができずに、1935年に英国に亡命する。ローゼンフェルドが26歳ということになります。そして英国に留まるために、後にタビストックの、精神療法家のための2年コースのプログラムに入り、またオックスフォード近くの精神病院に、そして後にモーズレーで職を見つけたわけです。この病院は典型的なアンシュタルト、350人の患者に医者三人、といったい感じでした。後に精神科医となり、1940年代に慢性統合失調症の患者に対する精神療法的なアプローチに強い関心を抱くようになった。精神医学でも何でも、初期値効果というものがあります。最初に何に出会ったかが、ある種の決定的な影響を与えます。彼が最初に出会ったのは、カタトニーの患者だったわけです。つまり統合失調症の患者さんだったわけですが、当時はフロイトがそれを自己愛神経症と呼んでいたこともあり、ローゼンフェルドはいきなり自己愛の病理を扱う運命となったわけです。しかしもちろんこの自己愛は、自己チュウ他人を搾取する自己愛ではありません。この出発点ですでにいわゆる自己愛とはズレていたわけです。

2017年11月2日木曜日

ローゼンフェルドの自己愛理論 ②


 日本語になっているのは、この「治療の行き詰まりと解釈」という本(誠信書房、2001年 、神田橋 條治, 館 直彦, 後藤 素規先生訳)ですが、定価4800円で入手可能です。 結局これを読むことで感じるのは、彼らが言っている自己愛とは、一般的、あるいはDSM 的、カンバーグやコフートが言っているような自己愛とはかなりニュアンスが違うということです。というのはその概念の由来が違い、特にローゼンフェルトの自己愛の概念はフロイトの自己愛の概念からほぼ直接来ていること、そしてそれがDSM的な自己愛、つまり自己中心的で他人を支配する自己愛にニュアンスを変えていったということです。いいですか? フロイトの自己愛とは、要するにエネルギーが自分に向かっている、自分の中で滞っているということです。ただそこに自己の萌芽がある。そこらへんが自体愛とは違うのです。自体愛と対象愛の中間、境目が自己愛という風にフロイトは考えたわけです。だからそれ自体では良いも悪いもない。状態像としてのナルシシズムといってもいいでしょう。この二つの自己愛概念はずいぶんかけ離れています。共通する点は、対象が見えていない、ということでしょうか。するとローゼンフェルトの自己愛の仕事というのは、フロイトの議論と、DSM的な自己中心的な自己愛という概念との橋渡しをしているというところがあります。そしてその上で、とは何かを述べるならば、それは結局はフロイトの破壊性や死の本能の外見にその根拠を見出すことができるということです。それがもっともあらわに表現されている状態は統合失調症というわけです。ところが米国でのBPDの流れを受け、それまでのpsychotic という表現から、psychotic and borderline という呼び方をされる様になります。Psychotic とボーダーラインでは全然違うのにそれが同じ遡上で論じられるということがおきています。

2017年11月1日水曜日

ローゼンフェルドの自己愛理論 ①


大体専門でもないローゼンフェルドの話をしようというのが不遜なのだが・・・・。これも成り行きである。

最初はウィキ様の登場である。
 ハーバート・アレクサンダー・ロゼンフェルド(Herbert Alexander Rosenfeld、1909年 - 1986年)は、 1909年にドイツで出生。1935年に英国に亡命している。イギリスの医学者、精神科医、精神分析家。メラニー・クラインに教育分析を受けた、クライン学派の代表的人物である。統合失調症患者に精神分析療法を試み、妄想-分裂ポジションをはじめとする多くの発見に貢献した。また、重症の病理的なパーソナリティ障害の臨床研究に没頭した、ナルシシズムの研究者として知られる。ナルシシズムの研究者として、自己愛構造体はクライン学派の精神分析治療における陰性治療反応研究の一つの到達点である。羨望および死の本能への恐れから、防衛として自己愛的な対象関係を発達させた人物は、人格に独立した機能を持つ構造体(自己愛構造体)を発達させる。それは妄想-分裂ポジションにおける迫害不安と、抑うつポジションにおける抑うつ不安から個体を守るが、成熟した大人としてはあまりに自己愛的な対象関係を構築する。その構造体は健康な自己を支配し、抑うつポジションへの移行を妨げる。ジョン・シュタイナーはこれらを病理構造体(病理的組織化)と呼び、より広い枠組みの患者に見られる第三のポジションとして定式化したとされるのだ。
 続いて精神分析事典の衣笠先生の記述。Rosenfeld はビオンBion,W. R.,スィーガルSegal,H. と並んで,第二次世界大戦以後のクライン学派のもっとも重要な支持者の一人。彼は精神科医師となり慢性精神分裂病の患者に対する精神療法的なアプローチに強い関心をもっていた。そしてクラインKlein,M.に教育分析を受け,精神分析療法を精神分裂病の治療に試み,多くの発見をしていった。そしてクラインの妄想分裂ポジション paranoid-schizoid position,スプリッティングsplitting,投影同一視projective identificationなどの重要な精神病の研究 (1946)に貢献し,さらに発展させていった。彼は終生精神病や重症の病理的パーソナリティの臨床研究に没頭し, 1986年ロンドンで死去している。(1)精神分裂病の研究:彼は1940年代に多くの精神分裂病の臨床経験をもち,論文としても発表している。それはきわめて繊細で精微な臨床観察であり,その早期対象関係に関する研究であった。そしてクラインが明らかにした妄想分裂ポジションにおける部分対象関係の迫害不安に満ちた世界が,治療者に転移される現象を明らかにしたのである(精神病性転移 psychotic transference)。さらに彼は,投影同一視の臨床的な特徴を明らかにし,後の正常な投影性同一視の研究の端緒を成している。またあるタイプの精神病の患者は,性愛的な対象関係と破壊的な対象関係が混同してしまい,激しい迫害不安と混乱状態に陥る。これを彼は困惑状態 confusional states と呼んだ。そして彼はこれは「羨望 envy に対する防衛であると考えている。(2) 破接的自己愛 destructive narcissism の研究:1960 年代からは,ローゼンフェルドは非精神病的な病理的パーソナリティの問題をもっている患者群の臨床研究も行うようになっている。特に彼は,破接的自己愛の研究を行っている。それは臨床約には,現在の境界例 (広義の) に該当する患者群についての研究で、あり,彼の研究はイギリスにおける境界例研究の代表的なものである。彼が挙げている症例では,衝動的パーソナリティ障害,情的不安定性パーソナリティ障害,スキゾイド・パーソナリティ障害,自己愛パーソナリティ障害に該当する重症例が多い。彼がもっとも注目したのは,治療が成功しそうになったり治療者との情緒的接触や理解された体験を持つと、急に自殺企図,反社会的行為,症状の悪化,激しい攻撃性の発露などの陰性治療反応を強く呈する患者群である。彼は心の一部に破壊的な理想化された自己の部分が存在し,他の性愛的な対象を求め依存しようとする自己の部分を支配している内的対象関係の病理を明らかにし,そのような内的組織を「破壊的自己愛組織 destructive narcissistic organization と呼んだのである。この視点は,ビオンの精神病的パーソナリテイ psychotic personality の研究とともに,イギリスにおける病理的パーソナリティの研究の基礎となっている。そして,現代クライン学派の動向をもっとも代表している, シュタイナーSteiner,J の「病理的組織化 pathological organizationの研究などに大きな影響を与えている。