2017年11月5日日曜日

いかに学んだか 推敲 ②


たとえ話をするなら、宇宙の成り立ちを知らない頃の私たちは、ある人々は天動説を唱え、別の人々は地動説を唱えていました。要するに太陽が地球の周りをまわっているのか、あるいは地球が太陽の周りをまわっているか、ということです。しかし当時の天文学は極めて未熟でしたから、まったく異なる説が共存するという状態が続いていたわけです。もし天文学が中世からまったく発達しなかったら、おそらく今でも天動説派と地動説派は対立し、拮抗していた可能性があるわけです。天文学会も二つに分かれていたかもしれませんね。今の認知療法と精神分析のように。しかし16世紀のコペルニクスの登場以降、この種の意見の対立はまったく意味を失ってしまいました。認知療法と精神分析が共存して、どちらもお互いに相手を説得しえない状況は、結局複雑な心をどちらも捉えきっていないということです。まあ、それはともかく…・
ところでこの会場にいらっしゃる方々は、そのような大きな決定をすでになさっていることは感慨深いことです。なぜならここにいらっしゃる皆さんは精神分析の世界をお選びになっていると言うことだとおもいます。精神分析を選ぶということなしに、名古屋まで3日間、場合によっては仕事の休みを取り、週末の家族サービスを返上してここにいらっしゃるということは、大変なことだと思います。そして皆さんはすでに、精神分析的なアプローチか、それ以外かということに関しては、前者であるという選択をなさっているということだと思います。ある方は、最初から精神療法とは精神分析的なものであるということを、批判する余裕もなく伝えられ、そのまま受け入れられたのかもしれません。またあるいは最初は混乱し、何かの理由でこちらのほうを選び、おそらくそうすることで、もうあまり矛盾した話を聞かなくてすむのではないだろうと安心なさったのかもしれませんね。きっと頼りになる先輩に相談して、最終的に精神分析を選んだのかもしれません。おそらく皆さんがどこかで読んだり誰からに告げられたであろう「精神分析はいいよ」は、おそらく自分自身に問い直され、脱学習されたのちに選択されたのではないのだろうと想像いたします。
さてその経緯は問わないまでも、とにかく精神分析を選んだ皆さんでも、そこの中でやはり同じことが起きるわけです。無意識を重んじるという立場では一致していても、詳細な内容に及ぶと、たちまち学派による違いが明らかになります。先ほどの自己開示の問題などはその例かもしれません。ある学派は自己開示を厳しく戒め、別の学派は治療的であればいいじゃないか、と言う風に異なるわけです。結局はそこで自分で決める時が来ます。
それでも皆さんは、脱学習する代わりに、これまで頼りにしていた先輩に質問をするかもしれません。しかしその先輩は大枠でははっきりしたことを言ってくれていても、細部にわたると、人による、とか自分で考えろ、といわれてしまい、頼りにならなくなってしまいます。あるいはその先輩は、あなたが「Xかな?」と思っていたことについて、「絶対Yだ!」と言い、あなたはもうその先輩にはついていけないと思うかもしれません。
こうして結局あなたはどこかで一人で、誰に尋ねることもなく判断することになります。そしてそれを決める基準は、自分自身の感覚、英語で言うgut feeling なのです。これ、辞書で調べてみました。すると直感、第六勘と書いてあります。心から(胃の腑から)、あるいはフィーリングで、感覚的にそう思えると言うことです。そのときに脱学習が起きます。脱学習とは、学んだものを捨てる、ではなくて学びなおす、あるいは自分のものにする、ということなのです。「私は精神分析学を基礎として学んで治療を行っています」という主張を私たちはよくします。しかし私は精神分析学を学んだだけではいけないと思います。精神分析理論をいかに学ばないかということも必要であり、そこに私たちの臨床家としてのアイデンティティがかかってくると思います。私はこれまでに優れた臨床家を目にすることが多くありましたが、誰一人として、フロイトの書いたこと、クラインの書いたこと、ラカンの書いたことをそのまま素直に実践している人はいませんでした。それらの臨床家に「どうしてフロイトの教えとは違うことを実践しているのですか?」と問うたらどのような答えが返ってくるでしょう? おそらくそれは「私は最初はフロイトから学び、あとは個別の臨床場面では、自分で考えて臨床をしています」と答えるでしょう。ということは、どこかで精神分析理論を脱学習unlearn しているということになるのです。

脱学習とは
そこで学びほぐす unlearn ということについて少し説明しましょう。この絶妙な表現は一昨年に亡くなった評論家鶴見俊輔のものということになっています。鶴見氏はこんな体験を持ったといいます。戦前、彼はニューヨークでヘレン・ケラーに会いました。彼が大学生であることを知ると、「私は大学でたくさんのことをラーン learn (学習)したわけですが、そのあとたくさん、アンラーンunlearn しなければならなかった」と彼女は言ったそうです。鶴見先生はたちどころにヘレン・ケラーの言わんとすることを理解したそうです。彼の頭には、型通りにセーターを編み、そのあとほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像されたといいます。それが「学びほぐす」という言葉のニュアンスだそうです。
 ちなみに20061227日(水曜日)13面「鶴見俊輔さんと語る 生き死に 学びほぐす」という記事がありました。実はこれをネットで手に入れたが、ヘレン・ケラーの話は直接は出てこなかったからこれをソースにするわけにはいかない。でもともかくもほぐす、という彼の訳語はこの毛糸のイメージから来ていると思えばわかりやすいわけです。結局学びほぐすとは、学んだことをもう一度自分自身で考え直し、自分なりに身につけたり、放棄したりすることを意味すると考えられるでしょう。

ちなみに英語の unlearn にこの絶妙な意味合いが含まれているかは疑問です。英語の時点で調べてみると、It is hard to unlearn bad habits.などという例が出てきます。Unlearn とは、忘れる、とかひとつの凝り固まった学習を放棄するという意味があるようです。しかしヘレン・ケラー女史や鶴見氏の言う unlearn は学んだことを改めて「本当だろうか?」と問い直すことであり、そこにはそれを放棄するという立場も、それを自らが再び選び取り、自分のやり方で心に収め直すという立場も両方ありうるのです。