2017年11月6日月曜日

いかに学んだか 推敲 ③

特にフロイトの精神分析については学びほぐしが必要な理由
この点は特に強調したいと思います。どの理論を学ぶにしても、その理論はその論者が主張したいことが前面に立ち、同時に論者が隠したいこと、防衛したいことを反映している可能性があります。(そういう私も実はそうしているかもしれません。)フロイト自身の理論にもクラインの理論にも、コフートの理論にもカンバーグの理論にも、彼らの伝えている真実とともに、それを防衛し、正当化するためのあらゆる仕掛けが備わっています。こう考えるとメジャーな理論には必ず脱学習すべき点が隠されているといっていいでしょう。
たとえばフロイトの理論の基礎的な部分について考えてみます。フロイトは精神病理の根幹に抑圧された性愛性を考えました。それが人を衝き動かしたり、症状を形成したりしていると考えたわけです。これ自体は仮説としては十分あり得ます。当時の時代性を考えると、画期的、というよりものすごく革新的だったと言えます。でもそれと同時にフロイトがある種の真実を発見し、世界をあっと驚かせてやろうと考えた、野心的で自己愛的な部分がありました。そしてこの欲動論に合わないものはどんどん切り捨てていったというところがあります。何よりも理論の整合性を求めたわけです。ということはリビドー論に合わないようなトラウマや解離の問題はことさら軽視されたということがあるでしょう。私の理論的な立場からすればどうしてもそう見えてしまうのです。フロイト理論を本当に学習するためには、彼が軽視したり棄却したりした部分を否定していかなくてはなりません。それがフロイトの脱学習です。ですから脱学習する、とはフロイト理論からAさんの理論になる、ということです。
あるいはクライン理論。メラニー・クライン自身の中にはかなり激しい怒りがあったことがうかがえます。怒りはしばしば自分の弱さや小ささを自覚させられたり、人に指摘されたりすることで誘発されます。これはコフートの言葉では自己愛憤怒です。しかしクラインにとっては怒りをプライマリーなものにすることで、自分の恥の部分の存在を認める必要はなくなります。そこでこの激しい怒りや死の本能の部分は脱学習されることになるでしょう。ただしコフート理論を考えると、今度は自身の攻撃性や羨望を否認している可能性があり、その部分を脱学習することになるかもしれません。すると結局は脱学習した結果に残るのは、あなたの理論なのです。

脱学習した結果としてどうなるのか?

さて脱学習した先は、人それぞれですが、そこにはひとつの共通項があるようですので、それをあげておきます。それはやはり特定の理論にとらわれずに、自分流を貫くということです。このことについて、精神分析の世界で起きていることを一つお伝えします。それは従来の理論にとらわれない、ということが倫理的な指針として唱えられているということです。これは皆さんもにわかには信じがたいでしょうね。フロイトの時代には匿名性、受け身性、禁欲規則などの治療原則を守るということが正しい道だったのですが、今やさまざまな理論や様々な立場を考えに入れよ、ということが言われているようです。これはもう少しはっきり言うならば「フロイトの言ったことにこだわるな!どの程度フロイトの教えを守るかは、自らが判断せよ」ということです。この経緯については私はいろいろなところで論じているのですが、ここでももう一度紹介しましょう。
 精神分析の草創期には、これらの原則や技法が順守されることと治療者が倫理的であることに区別はなかったといえます。何しろ精神分析理論は最高のものとされていたからです。しかし米国では196070年代を経て、そのような価値観に変化が生まれました。精神分析の効果判定に対する失望や境界パーソナリティ障害の治療の困難さを通して、分析的な技法を厳格に遵守するという立場よりも、実際の精神分析の臨床場面でそれをどのように柔軟に運用するのかというテーマへ臨床家の関心が移行したからです。フロイト自身は実際にはそれとはかなり外れた臨床を行っていたという報告(Lynn, 1998など)もその追い風になりました。またオショロフVSチェスとナットロッジの裁判を通じて、精神分析がその方針や利点、そしてそれによる負荷 burdern を明確に示す必要が生じたのです。その結果として米国精神分析協会による倫理綱領(Dewald, Clark, 2001)は次のような項目を掲げています。
●理論や技法が時代によりどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
●分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。
●患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない
ちなみにこの倫理綱領はどれも、技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではありません。中立性や受身性を守るべきだ、というようなことは一言も書いていないわけです。そしてむしろ分析家は治療原則を柔軟に応用する必要を示しているのです。
さてここで述べていることは、比較的消極的でした。そこでここからは私自身の脱学習の積極的な成果を述べたいと思います。