2017年11月7日火曜日

いかに学んだか 推敲 ④

私の脱学習のプロセス
さて私の脱学習のプロセスについても少しお話します。私はよく駆け出しの治療者がスーパービジョンやケース検討会で多くのことを学んだという話を聞くたびに、本当だろうか、と疑います。もちろん右も左もわからない段階では、スーパーバイザーに言われることはみな正しいように聞こえ、事実それにより学習することも多いでしょう。しかしそのうち必ず、バイザーの言うことに「これはおかしいのではないか?」と思うことも出てきます。そしてそれを問いただし、場合によってはそこから深刻な討論が始まることもあるでしょう。ある意味ではそこからが本当のスーパービジョンというところがあります。
 駆け出しのバイジーはまだ、様々な学習を脱学習していません。すると様々な治療者のいうこと、テキストに書かれていることの一つ一つを真に受けますから、それらの間に矛盾を感じることも少なくありません。あるいは一人のバイザーのいうことの中にも矛盾を感じてそれを問いただすこともあるでしょう。そこでバイザーが「いやAもあればBもあるんだよ」という言い方をしても「Aが正しくて、Bが間違っているんだよ」という言い方をしても、バイジーは混乱する可能性があります。バイジーはある指針を示してほしいのです。なぜならまだ「自分で判断していいのだ」「本来そうするものだ」という発想がないからです。そしてゆっくり時間をかけて「正解はないのだ」、ということを本当にバイジーが知る、あるいは脱学習するという苦しいプロセスにバイザーは付き合ってあげなくてはなりません。ひょっとしたらバイザーの仕事の最も大事な部分はそれかもしれません。
しかしそのプロセスで必然的に起きるのが、バイザーとバイジーの間の深刻な対峙です。それは本来異なる考え方をする人同士の深刻な対話のはずですが、どちらかに欺瞞や自己愛の傷つきが生じた際には感情を伴ったバトルに発展することもあるでしょう。そこでスーパーバイジーは本気でバイザーと対決するべきだと思います。よく分析では被分析者と分析家の間のケンカが生じます。これはある意味では治療関係において生じる転移、逆転移の発展として理解することが出来るでしょう。分析者の側も、非分析者の怒りを転移ととらえるだけの余裕を持つこともあるでしょう。ところがスーパービジョンは、バイザーはしばしばバイジーからの質問を挑戦と受け取り、ヒートアップしてしまうことがあります。そこにケースという第三者、最も重要な受益者の運命がかかっていることもあり、バイジーはケースを守るという使命感からよりいっそう舌鋒鋭くバイザーに迫ることもあり、まさに真剣勝負というところがあります。
この真剣勝負においては、もちろんバイザーの言うことの方が筋が通らない場合はいくらでもあります。よくスーパービジョンで問題になるのが、「何であなたはそういう時しっかり解釈しなかったのか?」というような駄目だしです。しかし治療中にはバイザーには見えないいろいろなことがおきているものです。第三者の立場と実際に治療を行っている治療者(バイジー)の立場には大きな違いがあります。そのことを考慮せずにあれこれ駄目出しされたときの治療者のふがいなさも相当なものだと思います。あるいはケースの言動に対してバイジーがその病理の深さを十分把握していないというバイザーからの指摘に対し、バイジーはあたかも患者を傷つけられた気がして、反論することもあるでしょう。こうなるとバイジーは自らの、そして患者さんのプライドをかけて、自分の立場を主張することになります。
もちろん「これからもお世話になるバイザーとケンカすることなんてありえません」というバイジーさんの立場はよくわかります。しかし通常SVにはお金が発生します。一時間8000円払って意味のないアドバイスを与えられ続けることは時間とお金の無駄です。それを自分に許す人は、健全な自己愛を持ち合わせているとは言えません。
とはいえ、現実には多くのバイジーは、合わないバイザーとは喧嘩をする代わりに静かに離れる事を選択します。時間の都合がつかなかったから、ケースが終わってしまったから、などさまざまな理由をつけるでしょう。しかし大概は自分と合わないバイザーと継続することに意味を見出せないからです。そしてその場合に「先生とは考えが違うのでもう終わりにします」と正直に言うバイジーなどほとんど聞いたことがありません。
私はこれも喧嘩とみなしていいのではないかと思います。自分と合わないバイザーとのSVはさっさと終わらせる。そのときバイザーの気分を害してまでそれを終わらせる必要はないかもしれません。大概はバイザーは一家言を持っていて自分の考え方を容易には変えません。ただある程度こちらの考えを伝えて、どこまで互いに分かり合えるかを探索する必要はあります。少しのバトルは必要で、そのプロセスでバイザーがどの程度聞く耳を持ち、柔軟な姿勢を示すかを見ます。その上で荒っぽい喧嘩をしても何も得ることがないと理解したならば、それを回避するのも大人の判断かもしれません。しかしそれでも何らかの言葉を残しておく必要はあります。それはクライエントとの関係を考えればわかります。クライエントの言葉の中を聞いて、どうしても自分が一言口を挟みたい場合、反論したい場合、それをしない治療者は自分の職務を果たしていることにはならないでしょう。その意味での対決を避ける治療者の態度は決して望ましいとは言えません。
私が脱学習の結果としていたったのは、精神分析を一つの出会いとしてみるという視点だと思います。あるいは精神療法はそれが出会いとなることで治療的なインパクトが与えられることになります。
最後に提言
 どうぞ精神分析をいったん飛び出してください。私の提言はだんだん大胆で危険になって行きますが、それは精神分析を真の意味で学ぶためには、いったんそこから出る必要があるだろうということです。ただしこれにはいくつかの問題があります。精神分析を学んだ人は、すでに時間、お金の点で投資をしてしまっています。今更どうやって分析から離れることが出来るでしょう。多くの精神分析の学徒は精神科医や心理師になったころから修業を積んでいますから、年齢が40代50代になってから新たに認知療法だ、EMDRの講習会だ、というわけにはいかないでしょう。これを経済学では埋没費用 sunk cost と言います。投資をしたのだから元を取らなくてはならないという考え方です。その気持ちはわかるのですが、もう一つ計算に入れなくてはならないのが、「人生このままでいいのか」ファクターです。残された治療者としての人生の中で、自分の学んだ精神分析理論を自分流にアレンジし、一番クライエントの益に結びつくような形にするのです。分析的なお作法に縛られる必要はありません。あるバイジーさんが、「私はこのクライエントとのセッションに、どうしても週に一回30分の時間しか取れません。これでは精神分析的な精神療法とも言えないのではないでしょうか?」とおっしゃいました。確かに日本のスタンダードでは、週一度50分は、最低ラインと考えられています。でも特に精神科医などは、週一度30分が精いっぱいということは現実として起きています。それでもクライエントのためになるのであれば、続けるべきでしょう。このようなことに頭を悩ますべきではないのです。(おわり)