本日は、精神分析をどのように学んだか、というテーマで考えますが、このテーマを与えられてまず考えたのが、学びほぐし、という言葉です。これは英語の unlearn の日本語訳ということですが、評論家の鶴見俊輔先生(2015年、93歳で没)がこれを「学びほぐし」という日本語にしました。これが本日のテーマにぴったりという気がします。そこで「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というテーマでお話ししたいと思います。
学びの最終段階は、必ず一人である
先日あるセミナーで講師を務めてきました。そのセミナーは3人の先生方が「治療関係」という大きなテーマについて連続して講義をするというものでした。しかしあいにく土、日にかけて行われるため、3人の講師が最後に一緒に質問を受ける、ということができませんでした。そしてその後に回収されたアンケート用紙に、ある受講生の方が次のように書いていらっしゃいました。
「患者さんからのメールにどのように対処するかについて、講師Aの言うことと、講師Bのいうことが違っていたので、講義を聞く側としては混乱してしまった。」
この講師Aとはある精神療法の世界の大御所です。そしてこの講師Cとは私のことです。「治療関係」というテーマでの話で、患者さんとの具体的なかかわりに話が及び、そこでA先生がおっしゃったことと、私が言ったことにくい違いがあったことをこの受講生(Cさんとしましょう)が問題にされたのです。私は私の講義で、「患者さんとの連絡用にメールを用いることがあるが、患者さんからのメールに返信するかどうかは、その緊急性に応じて決める」というような言い方をしたと思います。そしてそれに対してA先生はかなり違った方針をお話したのでしょう。ただし私はA先生のお話を聞いていないので、私の想像の範囲を超えません。
私はCさん(および同様の感想を持った方)に対して、混乱を招いてしまったことは残念なことだと思いますが、私にさほど後ろめたさはありませんでした。それよりもむしろ、Cさんの不満は、精神療法を学ぶ上で、非常に重要な点を私たちに考えさせてくれたと思います。それがこの脱学習 unlearning というテーマです。CさんはたとえA先生の方針を最初に聞いて学習したとしても、あるいは私の話を聞いて学習したとしても、結局はどちらの内容に頼ることなく、自分ひとりでこの問題について判断しなくてはならないということです。つまりはCさんは私からメールについて学んだとしても、あるいはA先生から学んだとしても、それを脱学習しなくてはならないのです。つまり自分一人で問い直し、自分一人で答えを出すという作業をしなくてはならないわけです。そしておそらくCさんはまだそのことを知らなかったのであろうということです。
もちろんCさんは他のことについてはたくさん学習をなさっていることと思いますし、その一部は脱学習していらっしゃるのでしょう。でもこの患者さんとのメールのやり取り、あるいは電話のやり取り、さらにはセッション外での患者さんとのコミュニケーションのあり方については、彼が一度学んだ後、脱学習する類の問題であることをまだ自覚していないのだと思いました。
精神分析や精神療法の世界では、この脱学習は特に重要になってきます。というのもこの世界では、答えを一つに定めることが出来ないことが非常に多いからです。あるテーマについて、スーパーバイザーごとに、あるいはテキストブックごとに、異なる見解が書かれているのは当たり前だと思います。というよりは講師ごとに、著者ごとに意見が概ね一致しているようなテーマ自体がむしろ少ないのではないでしょうか?
多くの治療者が賛成することと言ったら、例えば治療構造の重要さ、くらいしか私には思いつきません。しかしその治療構造の重要性といっても、具体的な内容、たとえばどこから先を精神分析的な精神療法とみなしますか、という質問になると、たとえば40分のセッションを毎週という構造をそれとみなしますか、ということになると分析の先生方の意見は、たちまち分かれるでしょう。また週一回50分の精神療法なら分析的と認めても、二週に一度のセッションならそれは分析的な精神療法として認めるかどうかについて意見が真っ二つに分かれてしまうのです。
多くの治療者が賛成することと言ったら、例えば治療構造の重要さ、くらいしか私には思いつきません。しかしその治療構造の重要性といっても、具体的な内容、たとえばどこから先を精神分析的な精神療法とみなしますか、という質問になると、たとえば40分のセッションを毎週という構造をそれとみなしますか、ということになると分析の先生方の意見は、たちまち分かれるでしょう。また週一回50分の精神療法なら分析的と認めても、二週に一度のセッションならそれは分析的な精神療法として認めるかどうかについて意見が真っ二つに分かれてしまうのです。
考えてみれば、精神療法という広い世界の中で唱えられていることは、その療法家ごとに極めて異なるということはむしろ当たり前と言えるのではないでしょうか? 心について言語的な交流を行うことは有効であり、それを精神療法と予防という点では皆さん賛成するでしょう。しかし一方では無意識の意義を重んじ(精神分析)、他方では意識レベルでの認知を重んじる(認知療法)といった具合に分かれてしまいます。夢をどのように解釈するか、というのも治療者により大きく分かれてしまうでしょうね。あるいは治療者が自分の体験を語ること、いわゆる自己開示については、またこれが大きく分かれてしまうのです。ちなみにこの間ある家族療法の大家が、匿名性の立場を重んじる分析家との話をしていて、「家族療法では自己開示は当たり前である。みんな破れ身なのだ。」とおっしゃり、精神分析の隠れ身の姿勢と対比されていました。
ちなみにどうして夢の解釈にしても精神療法のやり方にしてもいろいろなものが提唱されているかについて、皆さんはどのようにお考えになるでしょう?それは心の問題があまりにも複雑で、私たちの理解を超えているからです。心の問題の多くは多次元方程式で、一つの解が定まりにくいのです。それほど心がはるかに複雑だから、心はAである、という考えと心はBであるという考えがいつまでも両立し、拮抗してしまうのです。私たちが自分たちの知識を超えて現象についてとる態度は大抵そうなります。