2010年8月4日水曜日

失敗学 (昨日の続き)

暑い日が続くが、朝夕の日差しが低くなったのが嬉しい。それでも昼間の外出時は、雨傘などを日傘代わりに使っている。

昨日の話は、「失敗は蓋然性を必然性に取り違えることが原因となる」ということであった。わかりやすくいえば、「多分~なるだろう」を「ぜったい~はずだ」という考えに変えてしまうことで、確率的にはおきても決しておかしくないこと、すなわちそれ自身は失敗でもなんでもないことが、ことごとく「失敗」になってしまうということだ。これは当たり前の話であるが、私たちは生きていくうえで「たぶん→絶対に」変換をしばしば行う必要に迫られる。ちょうど太平洋戦争のさなかは、「負けるかもしれない」は口に出しただけでも非国民扱いされたように、である。


今日は失敗が起きるもう一つの要因として、恥の感覚を取り上げたい。おそらくこちらの方がより身近で大事なテーマかもしれない。失敗することはとても恥ずかしい、あるいは恥ずべきことであり、失敗しそうなこと、あるいはしてしまったことは出来るだけ隠したいという力は常に私たちの心に働いている。かくして「失敗が起きない」という前提に立った制度や体制が私たちの社会のいたるところに出来上がり、それが必然的に、失敗を産出する、というわけである。

失敗には、倫理的なものと、アクシデント、つまり自己とがある。倫理的、とは法や決まりを意図的に犯すということだ。これだって「出来心」「ふと魔がさす瞬間」という言い方をするなら、一種の事故なのであるが、これを自分が犯す可能性を認めることは難しい、というよりも社会がそれを普通は許してくれない。倫理的な「失敗」は本来起きてはならないものなのである。

例えば政治家たちに、「あなたたちは低い確率でではあっても、贈収賄に関わったり、違法な政治献金を受けるということがありますよね。」と尋ねても、「ハイ、そうです」などという輩など絶対いないだろう。「私は天地天命に誓って、そんなよこしまなことはいたしません。」となる。むろん政治家だけではない。一般の社会人でもそうだ。「私は低い確率ではあったも、ちょっとした所得隠しや水増し請求、裏金つくりなどをしてしまうかもしれない。それは私が人間だからだ」などといったら、即刻クビになるのではないか?「自分は決して悪いことはしない」という前提は、少なくとも社会に対しては建前上表明せざるを得ない。そしてそのことが、既に失敗を想定しないシステムをつくってしまう。だから人間社会に失敗は決してなくならない。ところが実際の政治で、賄賂が発生しない体性など、およそ考えられない。とすればこれはしっかり「おき得るべき失敗」として予想しなくてはならないのである。そしてそのためには、人間をまったく異なる存在として把握しなくてはならなくなる。その際の視点は、心理学でも社会学でもなく、むしろエソロジー(動物行動学)なのだろう。