2010年7月28日水曜日

失敗学 その3

ゆうパックが7月の初旬に遅れたことの理由が、今日の朝日新聞(インターネット版)にあった。失敗学の良い例である。

「・・・・ 遅配は「ゆうパック」が「ペリカン便」と統合した7月1日の直後から発生。お中元シーズンの出ばなに統合したことで取り扱い荷物量がほぼ倍増し、6日までに34万個超の荷物の配達が遅れた。総務省は日本郵便に対し、30日までに書面で遅配の経緯を報告するよう求める一方、聞き取り調査も実施してきた。・・・ 日本郵便の説明では、「ゆうパック」と「ペリカン便」は荷物を仕分けるためのコード番号が異なるため、統合後は新たに6ケタの数字が書かれた共通ラベルを荷物に張ることにした。百貨店などの大口顧客には6月中旬、伝票を打ち出すシステムの新しいプログラムを提供し、共通ラベルを印刷して張ってもらうように要請した。 ・・・・
 だが、大口顧客の中にはシステムの更新が間に合わないところがあり、ラベルのない大量の荷物が全国70カ所の集配拠点に押し寄せた。「区分機」と呼ばれる機械で自動仕分けができなくなり、急きょ手作業で仕分けることになったが、手順や人員の配置が明確に決まっておらず、現場が混乱。あふれた荷物が仕分け場所をふさぎ、作業が遅れた。「ゆうパック」「ペリカン便」の集配拠点の機械の違いも混乱に輪をかけた・・・・。」

特に太字部分(私による)が問題箇所だ。ここに書かれたことが予見できなかったのが問題、というよりはこのような予見しにくい問題が起きるということを想定した上で、必要と思われるよりはるかに多くの人員と時間の余裕を見ておかなかったのが問題といえる。これなどは、人は理屈どおりに動き、計画はしっかり立てればその通りに進行するだろう、という姿勢自体が誤りであり、その結果として問題がおき続けるということを示していると思う。
仕事に采配を振るう人は、少しでも段取りが気になれば自分で実際に現場を視察をして、大丈夫かを確かめるだろう。そして余裕の上に余裕を見る。なぜならば人は理屈では説明できない失敗もするからだ。予見できない失敗をするということを予見して準備をする。予見できない、ということを予見する。これは失敗学の極意でもあり、一番難しい(実行できない)部分でもある。
このブログは妻は見ない(これだけはありがたい)から書くが、彼女はよく遅刻をする。彼女は最近ではインターネットで綿密に時刻を調べてから異動するのに、である。一方私はめったなことでは遅刻はしない。(最近はね。昔はよくしたもんだ。)私は乗り換え時間などは非常にテキトーであるが、少なくとも一時間前には目的地つくようにして、時間をつぶすようにしているので、周囲の喫茶店などにあらかじめ当たりをつけておく。この違いが面白い。

妻は作業効率が非常によく、そのために自分を過信する傾向にあるから、一生懸命乗り換え時間などを調べていても、結局ちょっとの時間の遅れが到着時間の遅れに繋がる。私の「一時間前に着いておく」という方針は、「どんなことがあってもさすがに一時間以上は遅れないだろう」ということで、そこには説明の付かない、予想の出来ない失敗も想定している。失敗学に基づいているのだ(エヘン)。
あるとき痛い思いをした。ある場所に行くことにより、例によりとんでもなく早く出かけようとしたところ、妻にたしなめられた。「何でまたこんな時間から行くの?おかしんじゃない?」「いや、初めての駅での乗換えがあるから」、というと「じゃアタシが調べてあげるよ」と手っ取り早くネットで乗り換えの駅と電車をリストしてプリントアウトまでしてくれた。それを見るとすばらしい。A駅でのJRから私鉄への乗り換えは、15分ほど余裕がある。これなら大丈夫だろうと思い、ギリギリ出だかけた。A駅について余裕で私鉄のホームを探すが、これがなかなか見つからない。どこにも表示が出ていないのだ。ホームを歩いているうちに表示が見つかるだろうと思うが、これがなかなか見つからない。時間がたつうちにどうもおかしいということになる。そして同じA駅でもJR駅とと私鉄駅とでは500メートルほど離れているということが気が付いたのは、もう私鉄の電車が出る5分前であった。私は必死で走って事なきを得たが、元々運動が嫌いな私がこのようなことで走らされるのは、かなり痛い経験であった。この種の焦りを少なくとも大学生くらいまでは私は始終していた(遅刻の常習犯で、待ち合わせに一時間遅れる、などということも結構あった)が、それをしないようになったことが、人生における私の数少ない進歩だとおもっていたのに。だから私のほうが失敗学を妻に説くことになっている。最近は学生によく言う。「ストレスの解消法の一つは、準備をよくしておくことです。」実に年寄りくさい話だ。