2010年8月5日木曜日

失敗学について その9. 失敗学と不可知性

どうも私の話はいつも不可知論の方に行ってしまう。というより私の興味が不可知性に向かっていくようなテーマに自然と向かうということだと思う。でも失敗学はやはりこの問題とつながっているのは確かだ。
失敗学とは、失敗をなくそう、という学問ではない。もしそうだとすると、それ自体が失敗例ということになる。失敗はなくすことはできない。そうではなくて、失敗学は失敗を少しでも深く知るための学問、というべきだ。あるいは、「失敗がどうしてなくならないかを問う学問」というべきか。
一昨日失敗が生じる原因は、私たちが「蓋然性」を「必然性」にすり替えてしまうことが問題だ、と私はいった。しかしこれは、私たちを取り囲む自然(宇宙)が悠久で(といっても宇宙物理から言えば始まりと終わりがあるようだが)、それに比べて私たち一人ひとりの人生がほんの一瞬に過ぎないということに関係している。私たちは「生きている限りは大きな失敗がなければそれでいい」のである。そのためには蓋然性を必然性に変えてでも、その矛盾が露呈しないうちに生き抜ければいい、というところがある。
例えばアメリカのシアトルに住んでいるとする。ここは何百年に一度の頻度で長周期の巨大地震が起きる地形であるという。(わかった風な書き方だが、全部過去のNHKの教養番組の受け売りである。)前回の巨大地震のころは、コロンブス以前でシアトルという都市はまだ存在していなかったが、その巨大津波の跡は、太平洋を越えた日本にさえ残っているという。そしてシアトルの内陸の地層を調べても、それ以前にも大地震が起きた形跡がうかがえるという。しかし今のワシントン州シアトルは、最後の地震からはるかに時間を経てでき上がったし、その頃は長周期地震という概念はおろか、地震学そのものがなかったから、建物なども地震など想定していない作りになっている。
そこで二千X年に次の地震が起きるとしよう。シアトル市に耐震構造の万全でないビルを建てたA氏が、二千Xマイナス一年に臨終を迎える。「自分の人生はうまくいった。自分でビルも建てたし、平和な人生を送ることができた。」A氏の人生は成功裏に終わったことになる。そして翌年巨大地震が発生する。シアトルの町は建物がいたるところで倒壊し、巨大な津波に襲われて多くの人が溺死し、あるいは家を失う。臨終を迎えていた建物のオーナーB氏は、死の直前になり建物の下敷きになり、薄れていく意識とともにつぶやく。「何という人生だ!こんな建物、砂上の楼閣だったのだ。苦労して財をなし、ようやく建てたビルに圧しつぶされて死ぬなんて、なんと皮肉で愚かな話なんだろう?」

シアトルの皆さん、例に出してごめんなさい
ここでA氏が失敗しないために必要だったのは、大地震に備えてビルを耐震構造を備えたものに立て直すことではなかったのだ。ただ「何百年に一度という地震など、私が生きているうちに起きることは絶対ない」と信じ、生き抜けることだった。結局未来は不可知なのだ。今後10年の間に起きる確率が非常に低い出来事について、そのすべてに日ごろの準備をかかさないとしたら、人生はそれだけで終わってしまう。人は火災保険、水害保険、竜巻保険のすべてに加入し、癌保険、入院保険そして生命保険に入り、保険料を支払っていたら毎日の食費さえ残らなくなってしまうだろう。だから極めて重大で極めてまれな失敗は、絶対に起きないという前提で生きていくしかないのだ。そして万が一雷が落ちて家が焼け、あるいは竜巻にあって飛ばされたとしたら、人は言う。「未来に備えていなかったなんて、明らかに失敗だった。」未来は不可知であったことを忘れて、今度はそれを何らかの形で予見できなかったことを悔やむのである。
こうして失敗は永遠に存在し続けるのだ。(この文は、ここまで読んでいただける価値はあったのだろうか?)